牧師より of 湘南のぞみキリスト教会

今月のお知らせより

毎月のお知らせに掲載しております、牧師からのメッセージです。
タイトルをクリックしてお読みください。

2021年10月



  「最後だとわかっていたなら」作・ノーマ コーネット マレック/訳・佐川 睦

 あなたが眠りにつくのを見るのが最後だとわかっていたら
 わたしは もっとちゃんとカバーをかけて神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう
 あなたがドアを出て行くのを見るのが最後だとわかっていたら
 わたしは あなたを抱きしめて キスをしてそしてまたもう一度呼び寄せて抱きしめただろう
 あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが最後だとわかっていたら
 わたしは その一部始終をビデオにとって毎日繰り返し見ただろう
 あなたは言わなくても分かってくれていたかもしれないけれど
 最後だとわかっていたら一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」とわたしは 伝えただろう
                (中略)
 だから 今日あなたの大切な人たちをしっかりと抱きしめよう
 そしてその人を愛していることいつでもいつまでも大切な存在だということをそっと伝えよう
 「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を伝える時を持とう
 そうすればもし明日が来ないとしても あなたは今日を後悔しないだろうから


 この詩は、10歳の息子を亡くした母親の作で、9・11の追悼集会で読まれて話題となりました。死は突然やって来て、人に人生の終わりを告げ、愛する者を引き裂きます。そして、残された者は、心に様々な後悔を持つことでしょう。死への備えはできていますか。宗教改革者のマルチン・ルターが、明日、世の終わりが来ても、私はリンゴの木を植えると言いました。何のことだろうかと思われるかもしれませんが、仮に、明日世の終わりが来ても、また死が訪れても、今自分のしていることを続けるということです。それは、日々の生活が、そのまま悔いのない死に直結していることを意味するとともに、それが、そのまま後悔のない人生となっていきます。それは、人が、なぜ生きなければならないかとの人生の根本的な問いに、答えが与えられた時に、与えられる生き方であり、神が必ずその答えとなってくださいます。

<イエスキリストのことば> 「どうか教えてください。自分の日を数えることを。」



湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2021年9月



 毎年8月15日は終戦の日です。今年の終戦の日に、私は、ある人物のことが思い出されました。その方は、淵田美津雄氏です。真珠湾攻撃に参加し、「トラ トラ トラ(われ奇襲に成功せり)」の無線を打電したことでも有名です。彼は、終戦後ほどなくC級戦犯の証人として、軍事法廷に召喚されました。勝者が敗者を裁く、欺瞞に満ちた裁判に怒った淵田氏は、逆に、アメリカ人の日本人捕虜に対する虐待の証拠を得ようと、アメリカから帰国した日本人捕虜たちに話を聞きました。すると、思いがけない話を聞きます。ある収容所で、日本人を、献身的に看病してくれた若い女性の両親は宣教師でしたが、スパイ容疑でフィリピンにおいて、日本軍に処刑されていました。 しかし、その女性の両親は、死の直前まで、「父よ、彼らを赦したまえ。そのなすことを知らざればなり」と、日本軍への赦しを、神に請うていたというのです。彼女もまた、そんな両親の遺志を継いでいたということです。その話を聞いた淵田氏は、なおも半信半疑でしたが、続いて、昭和23年(1947)、かつて日本本土を爆撃したドーリットル隊の一員で、中国で、日本軍の捕虜となっていたジェイコブ・デシェーザーが、「汝の敵を愛せよ」のキリスト教の人類愛で、敵意を克服し、宣教師として来日したことに衝撃を受けます。それから淵田は、聖書を読みふけり、ついに洗礼を受けてキリスト教徒となりました。「敵意を克服しなければ、真の平和は得られない」という思いからだったと言います。1976年に74歳で地上の生涯を終えましたが、後半生をキリスト教の教えに則って、日米の憎しみの連鎖を断つことに費やした彼の生き方には、いろいろな意見が今もあるのかもしれませんが、まさに神の愛によって変えられた一人の人の姿がそこにあると言えます。

 イエスキリストは、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。もしかすると、どうしても赦せない人がいるかもしれません。顔を思いだすと、あの人のことは絶対に赦せない、あの人が憎い、あの人さえいなければ、自分の人生も違ったものになっていたかもしれないのになどという思いが心にわいてくるかもしれません。しかし、憎しみは、生きる喜びを奪いますし、憎しみを持ちながら生きていくことは本当につらいことです。そして、自分で心の中にある憎しみを処理することはできません。しかし、神の愛は人の憎しみを克服させ、人に平安を与えます。神の愛は、どんな人の人生をも変えることができるのです。

<イエスキリストのことば> 「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」



湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2021年8月



 7月21日からオリンピックが始まりましたが、競泳女子の個人メドレーで二冠に輝いた大橋悠依選手は、「何も後悔がないと言えるように」と思って泳いだと言います。また、柔道女子70キロ級を制した新井千鶴選手も、「絶対悔いを残さない」と攻め続けたと言います。(2021年7月29日付 「よみうり寸評」より引用抜粋)この二人の選手に共通しているのは、決して悔いを残さないようにということでした。  誰しもが、後悔しない人生を送りたいと思って生きているはずです。しかし、人生の様々な場面を振り返ってみた時に、「ああすればよかった」とか、逆に「ああしなければよかった」など様々な後悔が出て来ます。また、後悔とは少し違うかもしれませんが、自分の身の上や境遇が違っていたら、自分はもっと別の人生を歩めていたのではないかという思いを抱えながら生きている人がいるかもしれません。いずれにいたしましても、人生に何の後悔もなく生きることのできる人は、誰もいないのではないかと思います。

 聖書に、パウロという人が出てまいります。彼が、自分の人生が終わりに近づいたことを悟り、自らの人生を振り返る中で、「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え」と言います。私たちは、このパウロの言葉に、彼の人生観を見ることができます。まず、私たちにとって、人生は戦いだということです。私たちは、病、失業、家庭の不和のような試練や苦難、そして心にわいてくる失望、悲しみ、悩み不安、心配などと常に戦わなければなりません。パウロは決してそのようなものに負けることなく、勇敢に戦い抜いたと告白しています。さらに「走るべき道のりを走り終え」と言います。彼の人生には走るべき道のりがあったということです。つまり、彼は、人生においてしっかりと目標を定め、日々何となく生きるのではなく、その人生の目標を目指して、彼は人生を走り続け、最後には「走るべき道のりを走り終え」と言うことができました。彼は、イエスキリストを信じる信仰を持っていました。その信仰が、人生の様々な苦難や試練の中にあっても、勇敢に戦い抜く力を与えました。また、彼の信仰が、人生に、変わることのない目標を与え、人生を最後まで完走する力を与えました。そして、パウロの告白には、人生に対する後悔は全くありませんでした。私たちも、パウロのように、イエスキリストを信じる信仰により、必ず後悔のない人生を送ることができます。
皆様の上に神の豊かな祝福がありますように。


<聖書のことば>
「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」




湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2021年7月



 6月20日(日)の午後に、蔡香先生をお迎えして「よい聴き手になるために:あなたもできるケアのすすめ」と題して講演会を持ちました。もし録音をお聞きになられたい方がおられましたら、教会までご連絡ください。

 その講演会の中で、一人の方から「家族の話をどのように聞けばいいのでしょうか。何かアドバイスはありますか。」との質問がありました。その時に、私も家族の話を聞くことの難しさを思わされました。例えば、友人であれば、私たちは、多少疲れていても話しを聞くかもしれません。それは、友情を壊したくないという意識が働くからかもしれませんし、断ると友だちがいがないと思われるかもしれないなど、様々な理由があるからです。しかし、私たちは、簡単に家族の話しを聞くことを拒みます。疲れている、自分の時間が欲しい、そして、家族という気安さが、実は家族の一人一人を自分から遠ざけ、聞いたり話したりという人間関係の基本が家族から失われてしまっているのかもしれません。それとともに、私たちは、他人に対しては十分共感できます。つらい状況に置かれている人の立場を何とかして分かろうとします。しかし、私たちは親や子が、兄弟が、また夫や妻が、つらい状況に置かれている時に、どれだけ共感しつつ、話しに耳を傾けているだろうかと思わされました。私たちは、人間関係が近くなればなるほど、うわべを繕うことなく、本当の自分を現します。そこには、まさに自己と自己のぶつかり合いが起こります。そして、そのような時にこそ、私たちの愛が問われます。口先だけの愛ではなく、見せかけの愛ではなく、心からの愛があるかどうかが問われます。私たちが、愛をもって、共感をもって家族の話しを聞く時に、必ず家族の一人一人が変り、家族全体が変ります。そして、家族が変れば、周りも変っていくのではないでしょうか。

 家族を心から愛していますか。家族に自分の愛を現していますか。話しを聞いて共感することで、家族に自分の愛を現していますか。もし、愛とは何かが分からないという方がおられましたら、ぜひ聖書をお開きください。聖書を通して、私たちはまことの愛を知ることができます。

<聖書のことば> 「私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」



湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2021年6月



 蔡香さんは、2016年に『よい聴き手になるためにー聖書に学ぶ相互ケア』という本を出されました。この本を通して教えられることは、人の話を聴くということは、あなたといつも一緒にいるよというメッセージを送るということです。蔡さんの聞くことのお手本は、ご自分のお母様であったと言われています。蔡さんは高校生時代に、「自分はなぜ生きているのだろう」とか「自分は何をしたいのだろう」と思春期特有の問いに悶々としていました。特に、ミュージカルダンサーを夢見て、訓練を受けていた時に、腰を痛めたことで、その道が閉ざされると、ますますその悩みは深くなっていきました。そして、毎晩のように泣きながら話す自分の話を、お母さんは辛抱強く聴き、決して答えを出さず、安易なアドバイスや励ましをせず、葛藤するそばで一緒にいて話を聞いてくれたことが、ずっと心に残っていると言います。

 聴くことは、私たちの人間関係において、最も大切なことです。人の話を聴くことで、私たちは、相手の気持ちや考えを深く理解することができるからです。しかし、私たちは聴くことが苦手です。聴く前に、自分の意見や考えを押しつけ、何も分かってくれないと相手を失望させてしまいます。聴くためには、まとまった時間と忍耐が必要ですので、忙しさを理由にして、人の話を聴こうとしないのではないでしょうか。確かに現代の私たちは、日々忙しくしているかもしれませんが、もし、スマホの電源をオフにすれば、家族や友人ともっと話す時間が取れるかもしれません。

 私たちは、人との関わりの中で、お互いに何を考えているのか理解しようとしないことで、多くの人々が、常に孤独を深めているように思います。分かってもらえないのは仕方がないと、あきらめてしまうこともあるのではないでしょうか。しかし、あきらめる前に私たちは、相手の話を聴くことで、いつも一緒にいるよ、あなたは私にとって大切な存在だよとのメッセージを送っていきたいと思います。特に、これまで、私たちが経験したことがないコロナ禍の状況において、自分だけではなく、誰もが大変なのだからと、いろいろな思いを、誰にも話せず、心にしまい込んだまま生きている人もあるかもしれません。このような時にこそ、私たちは互いに話を聴くことの大切さを実感したいと思います。



湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2021年5月



 これまでに、取り返しのつかない失敗をしてしまったことがあるでしょうか。それにより心が責められ、悩んで夜も寝られないということがあるでしょうか。もちろん、人生を何の失敗も、また過ちなく生きていくことができればいいのですが、なかなかそうはいかないものです。特に、汚点ともいうべきものが、自分の人生の中にあって、それを思い出すと心が苦しくなるというようなことがあれば最悪です。

 聖書には、様々な人物が出てまいります。その中の一人がペテロです。彼は、もともと漁師でしたが、イエスキリストと出会い、弟子となった人物です。イエスキリストが、ユダヤ人指導者たちによって捕えられ、裁判にかけられることになりましたが、ペテロは、あなたもイエスの弟子ではないのかと尋ねられた時に、私は、あの者を知らないとイエスキリストとの関わりを否定したのです。知らないどころか、師と弟子の関係であったにもかかわらず、ペテロは、自分が、イエスの弟子であることを認めようとしなかったのです。もちろん、これは偽りであり、ペテロは、イエスの弟子であることを否定するという、取り返しのつかないことをしてしまったことを認めて、激しく泣きました。しかし、イエスは、すべてのことを知っておられて、あらかじめ、ペテロに「しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われました。

最近、多くの人が、生きることに疲れをおぼえているように感じますし、何となく世の中に息苦しさを感じます。なぜなのだろうかと考えました。その理由の一つは、大人も子どもも常に完璧さを求められ、失敗が赦されないからではないかと思いました。失敗をすると失格者の烙印を押され、二度と認めてもらえず、様々なかたちで批判されるので、どのような場面でも緊張を強いられてしまいます。しかし、イエスは、弟子のペテロが、師である自分を否定するという、あってはならないことをしたにもかかわらず、ペテロが立ち直ることを期待し、立ち直ったら、他の者たちを力づけるようにと言われたのです。

キリスト教の信仰は、赦しと失敗からの回復と、そこからの新しい歩みです。神の前には、取り返しのつかない失敗や人生の汚点はありません。神が、私たちを立ち直らせ、そこから再び歩み出せるようにしてくださるからです。あなたもぜひ教会に来て、聖書を開いてみませんか。そこには新たな人生の希望が必ずあります。



<聖書の言葉> 
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2021年4月



1月31日付の読売新聞朝刊の「人生案内」に、70代前半の男性の相談が掲載されていました。彼は、定年退職した後も、カルチャーセンターの講師をしたり、旅行にも行き、大きな病気もなく、孫が三人いて、家族も元気で幸せそうだということです。ところが、これから自分が年を取っていくと、最後には歩けなくなり、介護され、やがて死んでいくという先のことが不安だというのです。そして、最後に「死に際の苦しさ、寂しさはどのようなものでしょう。また死後の世界はどんなでしょう。誰もが考えることかもしれませんが、私には恐怖です。アドバイスをいただけますか。」と記されてありました。

この時の回答者は、評論家の樋口恵子氏でした。彼女は「なるべく楽しげに生きるようにしています。平均寿命を越えそうだと思った頃、楽しくなくても楽しげに生きようと決意しました」と答えています。結局、樋口氏は、死のことについて何も答えていませんでしたが、実際に誰かから、死に際の苦しさや寂しさ、死後の世界のこと、死の恐怖について尋ねられても、正直どう答えてよいか分からないし、困惑されるのではないかと思います。

4月4日は、キリストの復活を祝うイースターです。私たちクリスチャンは、イエスキリストが十字架にかかって死なれましたが、三日後によみがえったと信じています。この話をしますと、多くの人々に「本気でそんなことを信じているの?」とあきれられます。また、多くの学者が、キリストの復活を否定するために、様々な学説を発表しました。しかし、今の議論の流れは、キリストが復活したか否かではなく、どのようにキリストが復活したかに移っています。つまり、キリストの復活を否定し、クリスチャンの信仰を覆すことに成功した人は誰もいないということです。そして、聖書を見ますと、キリストの復活には、私たちに関わる大きな意味があります。それは、キリストが死からよみがえられたように、私たちも、いつの日か新しいいのちによみがえるということです。私たちは死んで終わりではありません。死によって、私たちの存在がなくなり、すべてが空しくなるということはありません。死の先に、私たちは、死からのよみがえりの希望を持つことができるのです。ここにこそ、人が答えることのできない死に対する答えがあります。死後のよみがえりは本当なのか、証明してみろと言われそうですが、イエスキリストの死からの復活がその答えです。イエスキリストを事実として信じられた時に、信じるすべての人に死の恐怖からの解放、死の先にある希望が与えられるのです。



<聖書の言葉> 
「キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2021年3月



満山浩之牧師は、元プロのサッカー選手という異色の経歴の持ち主です。彼は、5歳からサッカーを始め、Jリーグでのプレーの道を志し、高校、大学とサッカーの強豪チームにそれぞれ進学しました。ところが、大学生の時に、足首骨折の大けがで一年間試合から遠ざかり、結局プロのスカウトからは声がかからず、ブラジル行きを決意します。ブラジルでは三チームに所属し、それぞれのチームで契約を結ぶことができました。ところが、ブラジルでは労働ビザが取れず、一試合も公式戦に出ることができませんでした。その彼を、クリスチャンのチームメイトやホストファミリーが、家族のように受け入れ、励まし、慰めてくれたと言います。
次に、彼は、エストニアに渡ってサッカーを続けました。プロデビユー前の練習試合で、足をけがし、一年間試合に出られませんでしたが、二年目には得点王になるほど活躍しました。三年目のシーズン終了後に、引退を決意しました。
日本に帰国後、満山さんは、友人に誘われてキリスト教会に行きました。その時に、「様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい」との聖書の言葉が自分の人生と重なって心に残ったと言います。満山さんは、「学生時代に足をけがしなければブラジルへ行くこともなかったし、ブラジルで労働ビザが取れていれば、クリスチャンの優しさに触れることもなかったでしょう。その時には分かりませんでしたが、今はそれぞれの試練にも意味があったことが分かります。すべては神様の導きだったと今は思えます。」と語ります。(クリスチャン新聞福音版2月号から引用)

誰もが、自分の思い描くような人生を送りたいと思いますし、そのような人生を送ることができるなら、必ず幸せになれるはずだと思います。しかし、人生が思いどおりに行かない人の方が、むしろ多いのではないでしょうか。私の人生も、挫折と試練の繰り返しだったように思います。しかし、私たちが人生で味わう挫折や試練を通して、また、人生が自分の思いどおりにいかなくても、神が、私たちの人生を導いて、「自分の人生はこれでよかった。自分の人生は最高だった。」と言えるようにしてくださいます。キリスト教の信仰によって送る人生は、「結果よければすべて良し」というようなものではありません。挫折や試練を喜びに変えるものです。あなたの人生における試練や挫折をも、神への信仰によって、必ず喜ぶことができるようにされます。ぜひ教会へお出かけください。
これをご覧の皆様の上に神からの祝福がありますように。


<聖書の言葉> 
「様々な試練にあうときはいつでも、この上ない喜びと思いなさい。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2021年2月



 キリスト教会でよく歌われている讃美歌の中に「うたいつつ歩まん」(教会福音讃美歌402番)という歌があります。

2番の歌詞が
「おそれはかわりて 祈りとなり なげきは変りて 歌となりぬ
 歌いつつ あゆまん ハレルヤ ハレルヤ 歌いつつ歩まん この世の旅路を」です。

この讃美歌の作詞者は、エリザ・ヒューレットという方です。彼女は、事故によって脊髄を損傷し、長期の入院を余儀なくされました。彼女は入院中、神への怒りが止らず、神がいるなら、なぜ自分が事故にあわなければならなかったのか、なぜ自分がこんな目にあわなければならないのかと、ずっと思っていたと言います。そんな彼女が入院していた病室を、讃美歌を歌いながら掃除していた一人の女性がいました。その方が、エリザの話を聞き、一言だけ「あなたの悲しみや嘆きをイエス・キリストが変えてくださる。」と言ったそうです。エリザは、それから神への信仰を求め続け、神を信じる決心をしました。そして、生まれたのが、先ほどご紹介した「うたいつつ歩まん」という讃美歌です。

 誰しも、苦しみは避けたいと思います。しかし、苦しみや悲しみ、痛みを通らなければ決して知ることのなかった慰めや幸いもあるのです。苦しみの中で経験する神の慰めは、苦しみを味わった者にしか分からないものです。もしかすると、今、苦しみや試練のただ中におられる方があるかもしれません。やり場のない怒りや悲しみでいっぱいの方があるかもしれません。また、私たちは、いつ大きな悲しみや痛みを伴うような試練を経験するか分かりません。しかし、どんな時でも、私たちを愛してくださる神がおられること、そして、その神が、必ず悲しみや嘆きを、神への歌へと変えてくださることを知っていただきたいと思います。
皆さんの上に神の祝福がありますように。


<聖書の言葉> 
「あなた(=神)は、私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが あなたの御前にあり 楽しみが あなたの右にとこしえにあります。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2021年1月


 明けましておめでとうございます。新しい年を迎えられた皆様方の上に、神様の豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。

 昨年は、コロナの影響で、多くの方々が、大変な思いをされたのではないかと思います。今年は、コロナ感染が収束へ向かい、少しでも平穏な日常に戻ることを願っています。古代から、多くの人々が「貧しい人たちは、怠け者か運が悪いので、今、彼らが置かれている状況になるのだ」と思い込んでいました。ですから、社会が、彼らの面倒を見ることはないと思っていたのです。しかし、クリスチャンたちは、決してそうは思わずに、聖書に書かれている生き方のルールを、自分たちに取り入れました。それは、聖書が、何度も繰り返し語る原則ですが、貧しい人、病人、のけ者や奴隷に対して、特別に心を配る神がおられることと、その神を信じる一人一人も同じように、自分たちも、それらの人々に心を配るようにということでした。(N.T.ライト著「神とパンデミック」より一部参照引用)神奈川県にお住まいの皆様方にとって、明治学院大学の始まりとなるヘボン塾を始めたヘボン博士は、なじみ深い方かもしれません。彼は、アメリカで、安定した生活を送る開業医でしたが、日本へ行って布教しようと決意しました。開業医として成功し、名声と富をも手に入れていたヘボンではありましたが、その二つを捨て、蓄えや家財をなげうってまで、布教のために、日本へと向かいました。ヘボンが、日本に着いたのは1859年で、まさに幕末の動乱の真っただ中でした。日本へ到着したヘボンは、神奈川の宗興寺という寺を借りて、早速、病気の患者の診察を始めました。アメリカで名医として有名だったヘボンは、外科手術や眼病治療等、めざましい治療の効果をあげ、しかも、その治療費はとらなかったのだといいます。ここに先ほど紹介した聖書のことばに生きるヘボン博士の姿があります。

 コロナ感染が拡大する中で、世の中には、自分ではどうすることもできないこの状況を、変えることはできないから、その中でうまくやっていくしかないというような雰囲気があります。しかし、コロナ禍の中で、私たちにもできることがあり、しなければならないことがあります。例えば、回りにいる自分の家族や友人たちを励まし、顧みるということも、その一つです。大きなことはできないかもしれませんが、小さなことはできるはずです。困難な状況の中でも、聖書を通して、自分のなすべきことを考える時に、私たちは、生きる目的と意味を見出すことができるのです。


<聖書の言葉> 
「主よ。あなたは貧しい者たちの願いを聞いてくださいます。あなたは彼らの心を強くし耳を傾けてくださいます。みなしごと虐げられた者をかばってくださいます。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2020年12月

 皆さんは、イギリスの小説家チャールズ・ディケンズが書いた「クリスマスキャロル」という小説を読んだことがあるでしょうか。
その中に「Bah humbug」という言葉が出て来ます。聞き慣れない言葉だと思いますが、これは、主人公であるスクル-ジが、吐き捨てるように言った言葉で、「ああ、くだらん!」というような意味です。冷酷で欲深く、親切心のかけらもなかったスクル-ジが、クリスマスでうきうきしている人々を、あざ笑うかのように、「Bah humbug!」と捨てぜりふを吐いていたのです。

 そのスクルージが、ある晩、不思議な経験をします。三人のゴーストが現れたのです。それは、夢破れた彼の過去、冷酷非情な現在の自分、そして、無残に荒れ果てた墓に葬られる未来の自分でした。彼は、そのことを通して、自分がいかに空しい人生を歩んでいたかを知りました。そして、彼は、過去はもう変えられないが、未来は変えられることに気がつきました。そうして、助けを必要な人には惜しみなく親切を施し、優しく朗らかな人間へと変えられました。その彼にとっては、クリスマスは、決してくだらないものではなくなったのです。(「未来を変えるクリスマス」吉田隆著より一部引用)

 皆さんの中にも、クリスマスなんてくだらない、なぜそんなに大騒ぎをしなければならないのか、自分には関係がない、と言われる方があるかもしれません。しかし、クリスマスは、全人類を罪から救うために、イエスキリストがお生まれになった時です。そして、イエスキリストは、自分では決して変えることのできない、あなた自身を、あなたの未来を変えてくださるお方です。イエスキリストによって、あなた自身が変えられ、心から「メリークリスマス!」と言うことができますように。
このクリスマスに、あなたを変えるイエスキリストに出会ってくださることを心から願っています。ご来会をお待ちしています。

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2020年11月

 今年の10月27日から11月9日までの二週間が第74回読書週間です。読書週間に合わせて、2020年10月28日付け毎日新聞の社説に、コロナ下の読書週間 生き方を見つめる機会にと題して以下の文章が掲載されていました。「アフリカ・ブルンジ出身のガエル・ファイユさんの自伝的小説「ちいさな国で」に印象的な一節がある。「一冊の本に人を変える力があるって言うんですか?」「本をあなどってはだめ。本は眠れる精霊ですよ」 残酷な内戦を目の当たりにした主人公の少年は、本と出合うことで新しい地平が開かれる。」

 読書は、残酷な内戦を目の当たりにした少年の人生をも変えるほどの力を持っているということを、この社説では言いたかったのでしょう。私も、読書によって、人生を変えられた者の一人ですが、私の人生を変えた本は、聖書でした。私が、中学二年生の時に、ギデオン協会という団体から無料で聖書をもらいました。私の祖父が亡くなり、初めて葬儀に出席した時に、人は死ぬとどうなるのだろうということと、人は死んだらなにもかも終わりだと思いました。そう思うと、勉強して、良い学校に進学することもばかばかしく思えました。次第に勉強もしなくなり、私の生活は荒れていきました。そのような私でしたが、もしかすると、聖書を読むと、何か良いことが書いてあるかもしれないと軽い気持ちで聖書を開きました。その後、キリスト教会にも通うようになり、キリスト教の洗礼を受けました。クリスチャンになった後、私の人生は変りました。生きることの空しさが全くなくなり、逆に生きることが喜びとなりました。信仰により、私の考え方や価値観が変えられ、どうしても自分では変えられなかった自分の心が変わったと思えた時には、驚きました。そして、以前の私のように、人生に空しさを感じたり、生きる意味を見失っている人に、信仰による希望を伝えたいと思い牧師となりました。

 私自身が変えられたように、あなたの人生も、聖書を通して必ず変えられます。回りがどんな状況でも生きることが喜びとなり、生きていて良かったと思える人生を送ることができます。そして、人生が新しく変えられることこそが、信仰の力であり価値だと、私は思っています。ぜひ、あなたも、この機会に聖書を開いてみませんか。

<聖書のことば>
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2020年10月

 私たちは、何事もなく無病息災で日々過ごせることを願っています。できれば、病気や事故自然災害など、自分にとって好ましくないものは避けたいと思っているはずです。

 ある一人の学者が、数年前に突如激しい胸の痛みを感じました。急患として病院に運ばれ、医師の懸命な治療のおかげで、一命を取り留めることができました。彼は、その突然の病を通して、いろいろなことを学んだと言います。その一つが、自分は、死ぬ可能性のある弱い存在だということと、自分は、本当は弱く、無防備な存在であるということでした。そんなことは当たり前ではないかと思うかもしれません。しかし、人は、普段、自分は死ぬ可能性ある弱い存在なのだということを意識することはないでしょうし、自分の弱さということを知らされるのは、命にかかわるような病気になった時ではないでしょうか。また、彼は、「自分の命を宝物のようにして大切にするようにと自分に戻されたのだ」と言い、「自分が何のために存在するのか、限られた時間の中で何をすべきかをふかく考えさせられた」とも語っています。そう考えますと、病気にならなければ気がつかないこともあるでしょうし、病気を通して、自分が今まで気がつかないことに気がつくことができたなら、不幸と思えることも、益と変えられるのではないかと思いました。

 今回のコロナウイルスの感染拡大は、「コロナ禍」と呼ばれたりいたします。つまり、コロナウイルスがもたらす禍(わざわい)ということです。しかし、コロナウイルスの感染を通して、自由に外に出られなくなったり、人と会うことが制限されたりする中で、普通に学校に行ったり、仕事に行ったり、買い物に行ったり、旅行に行けたりすることが幸せだったということに気がつかされました。また、普段は気にもとめていなかった、いわゆるエッセンシャルワーカーと言われる人たちが、気がつかないところで、社会や私たちの生活を支えておられたことに感謝の思いを持たせていただきました。そして、感染をしないように、また、感染をさせないようにと予防に努めることで、自分の命も、愛する家族や愛する者の命も、すべての命を宝物のようにして大切にしなければならないことを教えられました。一見、不幸と思えることが、私たちにとっては良いものへと変えられることもあるのです。

 聖書の中には、様々な人物が出てまいりますが、その中で不幸を経験した人たちもいます。しかし、彼らの生涯を見てみますと、決してそれが、わざわいであったと言いきれない部分もあるのです。それは、神が最悪を最善に変えてくださったからです。私たちの人生にもいろいろなことが起こりますが、神が最悪を最善に変える時に、自分の人生も決して悪くなかったと思える人生を歩むことができるのです。

<聖書の言葉>
「すべてのことがともに働いて益となることを私たちは知っています。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2020年9月

 コロナウイルス感染が、一時期収束したように思えましたが、再び拡大し、ある専門家は、今は、第二波の真っただ中にあると言いました。コロナウイルス感染の特徴は、全世界規模であることと、誰にでも起こりうると思われます。その中で、ワクチンや医薬品の開発も進められていて、多くの人々が、それを心待ちにしています。私自身が、コロナウイルス感染の最も大きな影響だと思っていることは、「安定」を失ったということです。コロナウイルスの感染により、経済的安定を失ったと思っておられる方があるかもしれません。また、家庭の中の「安定」を失ったという方、人間関係の「安定」を失ったと言われる方、教育機会の「安定」を失ったという方もおられるでしょう。まさにコロナウイルスの感染は、私たちの生活の中の安定を不安定に変えてしまいました。

 聖書の中に、イエスキリストと弟子たちが、いっしょに舟に乗り、対岸へ渡る場面が出てまいります。ところが、その途中で、突然、激しい突風が起こり、舟が沈みそうになりました。そのような危機的状況の中では、自分たちが、キリストの弟子であるという立場や誇りは、彼らを支えることはできませんでしたし、弟子たちの中には元漁師という者たちもいましたが、彼らの経験や知識も、このような最悪の状況から救うことはありませんでした。どうすることもできなくなった弟子たちは、キリストに向かって助けを求めます。そうすると、キリストが風と荒波をしかりつけることで、湖は静かになり、凪になったのです。キリストは、弟子たちに向かって「あなたがたの信仰はどこにあるのですか。」と言われました。まさに、キリストに対する信仰が、不安定を安定に変えるのです。そのように申しますと、「やはり信仰ですか。このようなコロナ禍の状況で、信仰ですべてが安定すれば世話ないですよ。」との声が聞こえてきそうです。しかし、コロナウイルスの感染に限らず、私たちは、日々の安定が決して保証されているわけではありません。私たちは、明日何が起こるか分からない中で生きています。つまり、そもそも不安定な中で、私たちは生きているとも言えます。その中で、キリストへの信仰こそが、私たちの心を常に安定へと向かわせます。それとともに、キリスト教の信仰は、何でもいいから、とにかく信じてくださいというものではありません。むしろ、キリストとは誰なのか、キリスト教は何を信じているのかを理解し、信じていただきたいのです。コロナ禍の中で、皆様の生活が守られますように。

<聖書のことば>
「わたし(イエスキリスト)はあなたがたに平安を残します。わたし(イエスキリスト)の平安を与えます。わたし(イエスキリスト)は、世が与えるのと同じようには与えません。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2020年8月

 2020年4月30日付けの朝日新聞朝刊に、東京工業大学教授の若松英輔氏の「自他の弱さを認める時」と題した寄稿文が掲載されていました。若松氏の言う弱さとは、身体面だけではなく、その内面、さらには人間関係における弱さであり、コロナ禍の中、人間だけではなく、現代社会の構造的な弱さも露見していると言います。そう考えますと、コロナ禍は今年になり、突然私たちを襲ったのですが、これまで気がつかなかった「弱さ」や、気がついてはいても、なるべく見ないようにしていた「弱さ」を、私たちに見せつけているように思います。

 聖書に、パウロという人が出てまいります。彼は、「私は肉体に一つのとげを与えられました。」と言います。彼の言う「肉体のとげ」が何であったのかは、本人が明らかにしていないのでよく分かりません。何かの病気だったのではないかと言われたりしています。このとげが、自分の働きを妨げているように感じたので、それを取っていただこうと神に願ったけれども、それが取り去られることはありませんでした。むしろ、神は「わたしの恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われました。弱さのうちに神の力が現れ、その人を強くするというのです。ですから、彼は、これまで取り去ってほしいと思っていた肉体のとげという弱さを、大いに喜んで誇りましょうと言っています。

 クリスチャンも、日々弱さを感じさせられることがあります。それが、病や老いのような肉体の弱さであったり、内面の弱さであったり、人間観関係の弱さであったりします。しかし、私たちは、自分の弱さを認めて、神に助けを祈り求める時に、神が助けてくださることを経験しています。もちろん、神は、真実に呼び求めるなら、助けてくださるのですが、まずは、自分の弱さを認めなければなりません。弱さを認めることは決して恥ずかしいことではなく、神の助けをいただいて、むしろ強く生きていく、新しい人生の第一歩となります。皆さんも、神の力によって、新しい人生を歩み出していただきたいと思います。

<聖書の言葉>
「ですから、私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2020年7月

 普段の生活で、私たちは、言葉をあまり意識しないで用います。ですから、言葉についてあらためて考える機会は少ないかもしれません。しかし、私たちの日々の生活において、言葉というのは、とても重要な役割を果たしています。例えば、私たちは、人とコミュニケーションを取る時に、言葉を用います。自分の思っていることを相手に伝え、相手の思っていることを知るための手段です。それは時には発話であったり、文字であったりします。また私たちは、言葉を用いることで、論理的な思考をすることができ、自分の考えをまとめたりすることもできます。

 最近、私は、言葉についていろいろと考えさせられています。その一つのきっかけが、某テレビ番組に出演していた女性に対するSNSの誹謗中傷です。SNSを通して、彼女に届いた言葉の数々が、彼女の心を深く傷つけ、自殺に至らせました。また、コロナウイルスの感染拡大の中で、差別や偏見に満ちた言葉を、医療従事者や配送に関わる方々の家族に発せられたことにより、関係のない家族の方々が、深く傷ついたことも耳にしました。言葉だけが人の心に届きます。そして、心を明るくさせたりもできますが、心に一生消えない傷をつけることもあります。また「おまえは、だめな子だ」と言い続けられて育った子は、自分はだめな子どもだと思い込み、セルフイメージの低い子どもになってしまうと言われています。そう考えた時に、私たちは、普段の生活で、家族や友人、職場の人たちに対してどのような言葉を用いているでしょうか。また、誰かの言葉によって傷ついたという経験がありますか。

 聖書には、様々な言葉が出てまいりますが、それらの言葉が、私たちの心に届くなら、傷ついた私たちの心を癒やし、不安や恐れを除いて平安で満たし、私たちの心を豊かにします。私たちの心が変われば、私たち自身が変わり、私たちの行動や言葉も変っていきます。あなたもぜひ、聖書の言葉を開いてください。聖書のことばが、あなたに届きますように。

<聖書の言葉>
「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2020年6月

 私どもの教会では。新改訳2017という翻訳された聖書を使っています。その聖書の中に「ツァラアトの者」や「ツァラアトに冒された者」との表現が出てまいります。聞き慣れないと思いますが、それもそのはずで、この「ツァラアト」という言葉はヘブル語なのです。もともとは、「らい病」とか「らい病人」と訳されていたのですが、聖書で言われているツァラアトは、皮膚に現れるだけではなく、家の壁や衣服にも認められる現象なので、必ずしも、らい病だけを指すものではないということが分かってきたと同時に、厳密には何を指しているのかがいまだに明らかになっていないので、ツァラアトという言葉がそのまま使われているのです。

 聖書の中に、ツァラアトに冒された患部が現れた人のことが記されています。その人は、祭司の所へ連れて行かれ、それがツァラアトと認められれば、彼を汚れていると宣言し、祭司は七日間隔離されることとなりました。先ほども申しましたが、聖書は、長い間このツァラアトをらい病と訳していました。本来、らい病(以下ハンセン氏病)はらい菌により感染しますが、「らい菌」は感染力が弱く、非常にうつりにくい病気です。発病には個人の免疫力や衛生状態、栄養事情などが関係しますが、たとえ感染しても、発病することはまれであることが分かってきました。それにもかかわらず、多くのハンセン氏病患者が、隔離され、不当に差別されてきた歴史が、日本にもあります。まだ医学が発達していなくて、どのような病気かよく分からなかったという言い訳は、ハンセン氏病患者であった方々には通用しないでしょう。そして、最近のコロナウイルス感染拡大の影響の中で、病院勤務の方々やそのお子さんたちが、不当に差別されているニュースを見聞きします。この不当な差別に、人間の根深い罪の性質を見る思いがいたします。もちろん私たちは、自分が感染せず、人に感染させないように予防を心がけなければなりません。しかし、不当な差別は、厳に慎むべきことをあらためて思わされています。

 新約聖書を見ますと、イエスキリストは、ご自分のもとに来た、ツァラアトに冒された人に対して深くあわれみ、当時の戒めを破って、手を伸ばして彼に触り、彼をいやされました。今、このコロナウイルスの感染拡大の中で、私たちに求められているのは、このイエスキリストのような人を思いやる心なのではないでしょうか。

<聖書の言葉>
「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2020年5月

 コロナウイルス感染拡大に伴い、現在は自粛要請が出て、多くの企業では在宅勤務を余儀なくされたり、学校の休校が延長されたり、各店舗で閉店を決めたところも出ています。大船駅周辺も出歩く人が少なくなり、街の様子が一変してしまった感じがいたします。

 アメリカのニューヨーク州のクオモ知事が、ニューヨークの人たちに次のように呼びかけた記事を目にしました。「外出ができない期間は、“私たちは誰なのか”をじっくり考えるための時間なのです。誰かの親であり、パートナーであり、友だちであり。自分は誰なのか、と見つめ直してみましょう」(3月31日付 毎日新聞 香山リカ「心の万華鏡」より)多くの人は、日々の忙しさの中で、自分が誰なのかなどと、なかなか考えないのではないでしょうか。また、仕事で忙しくしていますと、自分は、子どもたちからどんな父親や母親と思われているのだろうか、夫婦として自分はどんな夫であり、妻なのだろうかなどと考えることはないかもしれません。自分の人生において、仕事をするとはどのような意味があるのかなどと考えることもないのかもしれません。しかし、自粛をしているこの機会に「自分は誰なのか」と自分自身に問うてみていただきたいと思います。それは、自分自身の人生に対する根本的な問いと言えるかもしれません。そこに答えがなければ、私たちは意味や目的を持たない人生を歩むということになってしまいます。そうならないための大切な問いです。もし、そのことに答えを見いだすことができなければ、ぜひ聖書をお開きください。そこにこそ答えがあるからです。

 今、私のできることは、コロナウイルス禍によって苦しんでおられる方々の回復と、命を守るために、懸命に労していてくださる医療従事者の方々が感染から守られるように祈ることだと思いつつ、日々、神にその方々のためにお祈りしています。また、コロナウイルス感染の一日も早い収束と早期の教会活動再開のためにも祈っています。教会活動が再開されましたら、またぜひ教会へお出かけください。皆様方の上に神の守りをお祈りしています。

<聖書のことば>
「あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2020年4月

 4月12日は、イエスキリストの復活を祝うイースターです。復活祭などと呼ばれたりもいたします。クリスマスは12月25日と決まっていますが、イースターは春分の日から数えて、最初の満月の日に一番近い日曜日とされています。ですから、イースターはクリスマスのように日にちが決まっていません。また、最近は、スーパーマーケットでもイースターに関連する物を売り始めて、段々とイースターが私たちの生活にも身近なものとなってまいりました。

 冒頭でも書きましたように、キリストの復活をお祝いするのがイースターですが、イエスキリストは不当な裁判により、十字架につけられて死なれました。その後、墓に葬られましたが、三日目によみがえられました。多くの人たちは、キリストの復活と私たちに何の関係があるのだろうかと思います。聖書を見ますと、イエスキリストの復活は、終わりの日にイエスキリストを信じる者にもたらされる死者の復活の最初のしるしであることが分かります。つまり、終わりの日が来た時に、イエスキリストを信じるすべての者たちが、キリストがよみがえられたように、よみがえらせられるということです。ですから、イエスキリストを信じるなら、死の向こうによみがえりの希望を持つことができ、私たちの人生は、決して死で終わることがないと確信することができるのです。

 死は、すべての人にとって永遠の別離の時だと思われています。しかし、イエスキリストを信じるなら、もう一度再会できる希望を持つことができます。この希望をぜひあなたにも持っていただきたいと思います。4月12日(日)午前10時半からイースター礼拝が行われます。ご来会をお待ちしています。

<聖書のことば>
「わたし(=イエスキリスト)はよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2020年3月

 「たとえどんな困難な状況の中にあってもなお、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれているのである。」(V・E・フランクル)

 多くの人が聞きたいと思うのは、他人の成功話ではないでしょう。むしろ、困難な状況の中でその人がいかに立ち直って、前向きに生きられるようになったかということではないでしょうか。

 山形謙二氏の「負わされた十字架」という本の中に、ALSという難病の中で生きた方の話しが載せられています。ご存じの方もあるかとは思いますが、ALSというのは、全身の筋肉が萎縮して動かなくなり、最後には、自力で呼吸すらできなくなってしまう進行性の病です。ALSを患っておられたその方は、自分で呼吸ができなくなり、人工呼吸器をつけることとなりました。呼吸器をつけられてからは、毎日が不安で、特に夜が苦しく、夜が来るのが彼にとっては恐怖でした。そのような彼に、一人の友人から手紙がきました。そこには「神にゆだねてみたらどうだ。」と書いてありました。彼は、病床の苦しみの中で、イエスキリストを信じる決心をし、クリスチャンになりました。クリスチャンになった後の彼は、医者が驚くほど熟睡できるようになりました。病気が治ることはありませんでしたが、信仰により、彼自身が変えられたのです。最後には、まばたき以外には、全身の筋肉は動かなくなってしまいました。それでも、彼のもとには、多くの人からの要請や相談が舞い込み、彼は、ALSで生きる希望を失っている多くの人に、まばたきだけで、生きる希望と喜びを与えたのです。

 困難な状況は、簡単に変えることはできないでしょう。しかし、困難な状況の中にいる自分自身は変えられます。そして、イエスキリストに対する信仰は、あなたを変えることができます。そこから立ち直った時に、人は、神にあって、生命の最後の一分まで、生命を有意義に形づくる豊かな可能性が開かれているのです。生きる希望を失っている人を励ますのもその一つでしょう。すべての人に、信仰を通して自分自身が変えられ、新しい人生へと歩み出す道が開かれているのです。


<聖書の言葉>
「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2020年2月

 昨年は、ラグビーワールドカップで日本全体が盛り上がりました。特に、日本代表が史上初めてベスト8に入ったことで、日本中が熱狂し、いわゆる「にわかファン」という言葉が流行しました。そのような中、西サモアとニュージーランド(オールブラックス)の代表として、またトップリーグのトヨタ自動車ウェルブリッツの選手として活躍したティモ・タガロア氏が来日し、各地でラグビーのクリニックやトークショーを通して、ラグビーの素晴らしさを伝えました。(2020年2月号付 クリスチャン新聞福音版より引用)

 彼は、選手時代にメディアからの激しいプレッシャーにあったと言います。例えば、メディアは、試合で良い結果を出すと、「すごくいい選手だ。自分の子どもにも同じティモという名をつけたい。」と言って絶賛したかと思えば、結果が悪ければ、「なぜ彼を試合で使うのか分からない。うちのお祖母ちゃんのほうがよっぽどいい。」などと酷評されたりもしたそうです。その中で、タガロア氏は他の人が自分のことをどう思っているのかかが気になり、他の人が、自分のことを評価していないと思うと、本当につらかったと言います。そのような時に、彼は、友人に誘われて教会に行きました。そして、彼は、神を信じてクリスチャンになりましたが、クリスチャンになった後は、回りの人が自分のことをどう思うか全く気にならなくなり、どんな状況でも同じ気持ちでプレーできるようになりましたと語っています。

 皆さんの中には、人が自分をどう思っているだろうか、自分は回りからどう評価されているのだろうかということが気になって悩み、生きることがつらいと思っておられる方いるかもしれません。そのような方は、ぜひ教会へお出かけください。神が、ありのままの自分を愛して、受け入れてくださっていることを知った時に、タガロア氏のように人の評価は全く気にならなくなり、平常心でいつも生きていける人生へと変えられます。

<聖書のことば>
「平安があなたがたにあるように」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道



2020年1月

 10年以上前になりますが、テリー伊藤著「死ぬまであと1週間。あなたならどうする。」という本が出ました。皆さんだったら、どうされますか。その本には、いろいろな意見が出ています。「会社の上司をこき使う。女性・27歳・会社員」「一日中、ケーキを食べまくる。(死ぬんだから太ってもいいさ。)女性・16歳・学生」「母を思いっきり抱きしめて「ありがとう」を連発したい。 女性・55歳・主婦」などです。

 私がこの本を通してふと思わされましたことは、わざわざ「死ぬまであと1週間。あなたならどうする。」などと言わなくても、私たちは生きている限りにおいては、一歩一歩死に向かって近づいているということです。今年も新しい年が明けましたが、すべての人が確実に一つ歳を取りました。私たちはできることもだんだんと少なくなってまいります。そのような中で、自分がしなければならないことは何か、成し遂げたいと思っていることは何か、そのためにも自分は、今年一年をどのように生きなければならないのか考えてみることも決して悪いことではないと思わされています。

 聖書の中に、詩篇という書物があります。その名の通り、様々な詩や歌を集めた書物ですが、その中で一人の人が「どうか教えてください。自分の日を数えることを。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」と言いました。「どうか教えてください。自分の日を数えることを。」というのは、自分の人生は有限であって、必ず閉じなければならない時が来ることを自覚させてくださいと願っているのですが、それが人にとっての知恵だということです。私たちも、一日一日、一年一年が忙しく、また何となく過ぎていったということではなく、むしろ自分の人生がいつか必ず終わる時が来ることを自覚し、その中で自分はどう生きなければならないか考えてみてはいかがでしょうか。

 聖書は、必ずあなたに明確な生きる指針を与え、自分がどう生きるべきか、ヒントを与えてくれるはずです。あなたも教会にいらっしゃいませんか。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

<聖書の言葉>
「どうか教えください。自分の日を数えることを。そうして私たちに、知恵の心を得させてください。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2019年12月

 キコ・ウイルソンさんは、NHKラジオの「基礎英語」Eテレの「えいごであそぼ」ベネッセの子ども教育シリーズにも出演していて、「キコお姉さん」でおなじみの方です。彼女が、クリスチャン新聞のインタビューに答えて次のように語っています。「SNSは確かに便利で楽しいツールですけど、「いいね」の数でその人の価値が決まるわけではありませんよね。SNSって、自分の本当の価値を忘れてしまいやすい場所だと思います。神様は、愛を持って私たちを造られたこと、どんな時でも一人じゃないということが、どこにいても変わらない真実であることを思い出すことが大事かなと思います。」(クリスチャン新聞福音版12月号より抜粋)

 誰も自分に「いいね」と言ってくれなくても、神様だけは変わらない愛をもって「いいね」と言ってくれます。自分がしてきたことを誰も見ていなくても、誰も認めてくれなくても、神様はすべてを知っておられて、あなたに「いいね」と言ってくれます。人生に絶望したり、生きる意味も分からず悩む私たちに、神様は、あなたの存在と、あなたの人生には価値があると言ってくださいます。

 今年のクリスマス、あなたを愛してくださっている神様に出会うために教会へいらっしゃいませんか。神様の愛を知った時に、必ずあなたの人生は変わります。皆様のご来会を心よりお待ちしています。
皆様の上に神の豊かな祝
湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道福を祈りつつ。

メリ-クリスマス!
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(聖書)



2019年11月

 「寄り添う」という言葉をよく耳にするようになりました。ある方に「もっと寄り添ってほしい」と言われて、自分自身がどうすればいいのか分からず、戸惑いをおぼえたことがあります。特に、最近は「被災地に寄り添う」という言い方が増えてきたように思います。しかし、社会学者の貴戸理恵氏によると、「寄り添う」というのは、子どもや患者など、自分より社会的立場が弱い人に用いられることが多いと言います。そして、最近は上辺だけの優しさを指す場合が多いが、実際はそばにいて対話をしながら、その人が本当にしたいことを見いだしていく過程に寄り添うというのが、本来の意味だそうです。(2019年9月25日付け朝日新聞「貴戸理恵の十人十色」より抜粋)

 聖書を見ますと、イエスキリストは、それこそ病気をかかえていたり、罪人と呼ばれ、人々や社会から、のけ者にされている人たちに寄り添っていた方であることが分かります。そばにいて対話をしながら、本当の必要に気づき、また、その人が何に悩み、どれほどの痛みを抱えているのかを、キリストご自身が知ろうとしていたことがよく分かります。その中にあって、自分の問題に気づき、それをキリストに解決していただくことにより、その人自身が全く新しく変えられ、新しい人生を歩み出す姿が、聖書のあちらこちらに記されています。

 聖書に記されているキリストの姿を通して、私たちは目には見えないけれども私たち自身にも寄り添ってくださるキリストの姿を見ることができます。特に、自分が問題を持っていたり、様々な悩みや必要をかかえ、誰も分かってくれる人がいないと思える時にこそキリストは寄り添ってくださいます。そして、そのキリストに信仰をもってすべてをおゆだねする時に私たちが新しく変えられます。それにより、私たちがキリストにあって新しい歩みを始めるならば、私たちが抱えている問題も少しずつでも解決されていくはずです。あなたも教会にいらっしゃいませんか。そして、あなた自身に寄り添っておられるキリストの存在を知っていただきたいと思います。ご来会を心よりお待ちしています。

<聖書のことば>
「わたしに何をしてほしいのですか。・・・主よ、目を開けていただきたいのです。・・・イエスは深くあわれんで、彼らの目に触れられた。すると、すぐに彼らは見えるようになり、イエスについて行った。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2019年10月

 日本では、多くの人が自分は無宗教だと考えています。そして、人は宗教などなくても生きていけると思っておられることでしょう。また、宗教に関わると、後がこわいとか、宗教に関わると抜け出せなくなるのではないかなど、宗教に対する不信感も背後にあるように思います。特に、1995年3月20日に起きたオウム真理教の信者による地下鉄サリン事件は、人々の宗教に対する不信感をさらに大きなものにしました。

 そのような中にあっても、キリスト教を信仰する意味は大いにあります。それは、人が日々の生活の中で、誰しもが持つ疑問に、明確な答えを与えるからです。その疑問とは、人はなぜ勉強しなければならないのか、なぜ学校に行かなければならないのか、なぜ働かなければならないのか、そして、人はなぜ生きていかなければならないのかということです。聖書は、どんな人であっても、その人の存在に意味と目的があると教えます。自分の存在価値を知るなら、必ず人は喜びをもって生きていくことができるようになります。生きることに積極的になるなら、必ず学びや仕事に前向きに取り組んでいけるようになるはずです。私もクリスチャンになる前は、人が死ねばすべてが空しいと思いました。勉強をして、良い学校に入ることも、良い仕事につくことも、すべてが空しく思え、生きていくこと自体が空しいと思いました。そのような時に聖書を読むようになり、キリスト教の信仰を通して、自分の人生には意味があると思えるようになり、勉強にも部活にも何事にも積極的に取り組めるようになりました。

あなたも聖書を開いてみませんか。その時にあなたの人生には意味があることを必ず知るでしょう。その時に、あなたの人生は必ず変わります。今までは人生を何となく生きてきたと思っている人はおられないでしょうか。自分は何のために生きているのかと生きる意味を求めている方はおられないでしょうか。どなたでもぜひ教会へお出かけください。どなたでも歓迎します。そして皆さん方が、「自分の人生も捨てたものじゃないな」と思えたなら、それは牧師である私にとっても大きな喜びです。そのために私は牧師としての働きをしているのですから。

<聖書のことば>
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2019年9月

 夫婦作家である木皿泉さんの「昨夜のカレー、明日のパン」(河出文庫刊)の作品の中に、小学生の女の子が出てまいります。その女の子が、「ずっと友だちだよ、とか言うくせに、損だって分かったら離れていくんですね。」と言い、それに続けて、「その子とつき合うと、自分が目立つとか、そういう特典がないと、付き合わないってことです。」と言います。少し話したり、付き合ってみて、自分の気に入らない人であれば、一緒にいること自体が時間の無駄であり、労力の無駄ということなのでしょう。そうであれば、さっさと見切りをつけて離れてしまったほうがいいということです。

 聖書を見ますと、イエスキリストの周りに取税人や罪人と呼ばれる、社会からのけ者にされ、多くの人たちから嫌われている人たちが集まっていました。それを見て、キリストの弟子たちは「なぜあなたがたの先生は、取税人や罪人たちと一緒に食事をするのですか。」と尋ねられました。もちろん、ここには否定的な意味がこめられていました。ある時などは、そのような人たちとつき合いをしてまで食べたり飲んだりしたいのかと誤解され、「大酒飲みの食いしん坊」と陰口を言われたりもしました。それでもキリストは、そのような人たちと関わることを決してやめませんでした。キリスト自らが、人の目から見れば損と思えるような生き方を選ばれたのです。そして、イエスキリストは神ですから、何の悪いこともしていませんし、罪も犯されない聖い方でした。その方が、人類の罪をその身に負い、十字架にかかって死なれたのです。それは、人類の罪を赦し、信じる者に永遠のいのちを与えるためでした。何の悪いこともしていない者が、身代わりに十字架にかかって死ぬことこそが、損な生き方の極みとも言えるでしょう。しかし、聖書は、そこにイエスキリストの愛を見ます。キリストの損な生き方に貫かれた生涯は、まさに愛に貫かれたものだったというのです。神の愛は、愛する資格のない者を、無条件に、そのまま受け入れます。ですから、この愛で誰かを愛するなら、必ず損をする生涯を送ることとなるでしょう。しかし、この愛によって自分が愛されていることを知れば、必ず変わります。そして、あなたが変わり、あなたが神の愛で回りの人を愛すれば、周りが変わっていきます。

 あなたも神によって愛されています。そのままで、無条件に愛されています。ぜひ教会に来て神の愛を知っていただきたいと思います。そして、あなたが神の愛によって損な生き方を選んだ時に、今まで経験したことのない心の満たしを経験するでしょう。そして、全く新しくあなた自身が変えられ、周りが変えられます。これを読んでくださったすべての人に神の祝福を心よりお祈りしています。

<聖書のことば>
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2019年8月

 7月21日(日)に参議院議員選挙が行われました。私が新入社員時代に言われたことは、取引先では宗教と政治の話しはするなということでした。(私としてはそこにプロ野球も入れたい気もしますが。)恐らく、政治や宗教の話しをして、相手の機嫌を損ねたり、怒らせたりして取引先を失うことにでもなったら大変だということなのでしょう。

 私は、決してキリスト教の信仰を押しつける気は全くありません。例えば、他の宗教を信じておられる方々もいらっしゃいますが、その方々が良いと思って信じているその信仰心は尊重されてしかるべきだと思っています。また、私は仏教の僧侶の方々の書かれた本も多く読ませていただきます。すべての人が私自身の師と思っていますので、僧侶の方々から教えられることも多くありますし、また自らの信仰を客観的に見ることができるので、とても勉強になります。そのようにして、私自身が考え方の異なる多くの方々と対話をしたいと思っています。対話とは、相手の話しを注意深く聞きことによって、相手の考えを知り、それとともに自分の考えを伝える中で、自分の考えも知ってもらうことです。言わば言葉によるキャッチボールです。しかし、これを妨げるのが偏見です。偏見がありますと、この対話がうまくいきません。聖書の中にナタナエルという人が出て来ます。この人は、回りから救い主にあったと聞かされても、そんな田舎から救い主など出るはずがないと馬鹿にして聞く耳を持ちませんでした。その偏見に満ちていたナタナエルにピリポという人が、「来て、見なさい。」と言ったのです。そして、イエスに会ったナタナエルは、イエスキリストがどのような人かはっきりと知ることができたのです。

 教会は、すべての人に門が開かれています。「宗教なんて」「キリスト教なんて」と偏見を捨てて、あなたも教会にいらっしゃいませんか。また牧師の私とお茶を飲みながらお話しをしませんか。ぜひ対話をいたしましょう。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

<聖書のことば>
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(イエスキリスト)

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2019年7月

 「ヨットは向かい風に逆らって進むことができる。乗る人には常識だろうが、ジグザグに走るのだという。風の正面には、進めないものらしい。飛行機の翼にも働く揚力を利用して斜めに進み、また逆向きにと繰り返す。そうして目的地に向かうのだそうだ。」(2019年4月26日付け東京新聞筆洗より引用)

 私たちの人生にも、様々な向かい風が吹いてくることがあります。しかも、それが、思いがけないかたちで吹いてきます。その中で、多くの人々が、何とかして、向かい風の中をまっすぐに進もうと、そのまま転覆してしまうということがあるのではないかと思います。

 そう考えますと、私たちも、ヨットのように、人生を歩んでみてはいかがでしょうか。風の正面に無理矢理進んでいくのではなく、少し斜めに向きを変えて進むなら、目的地へ向かって進んでいけますし、時には、その風が、私たちの人生を進ませる力にさえなることを思わされます。

 聖書に、パウロという人が出てまいります。彼は、回りの人たちからの迫害や反対などでまさに人生の様々な向かい風を経験した人で、時には命の危険をも経験したほどでした。その中にあって、決して、彼は、自分の力で、正面に向かって進もうとせず、むしろ信仰によって、神に頼ることにより、斜めに進むことを繰り返しながら、人生の向かい風の中を進んで行った人だと言うことができるでしょう。あなたも、ヨットで進むような人生の旅の中で、少し斜めに向きを変えて、教会にいらっしゃってみませんか。人生の向かい風は、私たちが進むのを妨げるものではなく、逆に、私たちが、それを利用してさらに前へ進んでいく力と変えられることに気がつくことでしょう。教会は、クリスチャンでない方も、心より歓迎いたします。特別な準備等は必要ございません。どなたでもお気軽にお出かけください。あなたの人生の上に神の豊かな祝福を祈りつつ。

<聖書のことば>
「人に知られてないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2019年6月

 毎日新聞社客員編集委員の近藤勝重氏が、矢沢永吉氏の著書の「アー・ユー・ハッピー?」から次のことを引用されていました。「金も入った、名誉も手にした、だけど寂しさは残った。(中略)そう思ってふと見ると、幸せってレールは隣にあった。オレはそのレールに乗っていなかった。」(「一瞬のハッピーがあれば、また走れる。」毎日新聞夕刊 昨今ことば事情より)

 毎日、幸せを実感しながら生きている人はいないかもしれません。むしろ、矢沢永吉氏が著書で書いているように、ふと気がつくと、自分の人生は何だっただろうかと思えて、今まで幸せだと思えたことがそうは思えなくなったということがあるかもしれません。また、他の人と比べてしまい、自分がみじめに思えて、幸せを実感できないということがあるかもしれません。また、病気や事故などのさまざまな問題は突然やって来ますから、今まで幸せだと思っていたのに、そうは思えなくなるということもあるでしょう。

 私は、キリスト教を信じれば、毎日幸せに生きられますなどと言うつもりはありません。むしろはっきりと言えますが、クリスチャンの人たちでも、幸せを実感できるどころか人生の様々な問題に悩んだり、苦しんだりしながら生きている方々もおられます。牧師である私自身も、悩みの中に置かれることがあります。そのような時に、私たちクリスチャンには祈りがあります。神に祈る時に、私たちは、矢沢氏が書いているように、ふと自分の乗っていない隣のレールを見ることができます。例えば、今日も元気に起きられたこと、自分には勉強や仕事、家事、子育てなどのするべきことが与えられていること、家族がいること、食事ができること、数え上げればきりがありませんが、神に感謝の祈りをささげる時に、たとえ心を乱されることがあっても、そこに小さな、いくつかの幸せを見つけることができ、その一瞬のハッピーによって少し元気になって、もう少し走ってみようかなと思えるようになります。

 これをお読みのあなたが、今どのような状況の中にあるかは、私には分かりませんが、誰であっても神様に感謝をささげる中で、小さな一瞬のハッピーを見つけることができ、明日も、もう少し明るく元気にがんばってみようかなと思えるはずです。あなたも教会にいらっしゃいませんか。そこにあなたに生きる力を与える幸せへの扉が開かれています。

<聖書のことば>
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2019年5月

 一般的に「孤独」とは、他の人々との接触・関係・連絡がない状態を指すと言われています。そして、自分がひとりであると感じる状態が孤独感です。そう考えた時に、多くの人が自分は孤独ではないと言うでしょう。自分には家族がいて、学校には友人がいて、職場にはともに働く同僚がいるの で、孤独ではないと思われることでしょう。しかし、自分のことを本当の意味で分かってくれる人がいなければ、人は孤独になります。ですから、お金や地位があっても、また回りに家族や友人がいても、心が通い合う人がいなければ、人は孤独になるということです。時として、耐えられないような孤独感に押しつぶされそうになることがあるかもしれません。そのような中で、多くの人が、人から認められたり、成功することで孤独を覆い隠そうとしたり、自分のことを分かってくれそうな人の所に、自分の居場所を見つけたり、心の拠り所を見いだそうとすることで、孤独を解消しようと努力します。そのようにして、人から認めてもらえるとか、満足感や生きているという実感により、一時的に孤独を忘れることがあっても、またすぐに孤独感を感じるようになるでしょう。孤独は、忘れたり、薄らいだりすることがあっても、人の心から完全になくなるということはないからです。

 聖書は、私たちが孤独から解放する道があると言います。たとえ、誰も信じてくれなくても、人の言葉に傷つき、寂しさや悲しみが心の中にあふれて来るような時でも、私たちは孤独感を感じることはありません。自分の回りから、人が去って行った時にも孤独感を感じる必要はありません。また、どこかに孤独をいやすための居場所を見つけようとしたり、何かをすることで孤独を忘れる必要もありません。ぜひあなたも教会に来て、聖書のことばに耳を傾けてください。そこにまことの平安と喜びの秘密があります。

<聖書のことば>
「神は われらの避け所 また力。 苦しむとき そこにある強き助け。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2019年4月

 最近は、様々な所でイースターという言葉を耳にするようになりました。東京ディズニーランドでもイースターのイベントを行うようですし、スーパーマーケットでもイースターにちなんだ物を売ったりしています。教会では、イースター礼拝を4月21日に行います。ぜひ教会にお出かけください。ご来会をお待ちしています。

 社会思想家の佐伯啓思氏がその著書において、死後のことは誰にも分からないと言います。そして、人にとって分からないことを考えることに、死の恐怖があると言います。ですから、死について考えるのをやめましょうと言います。つまり、死は、人にとって無意味だということです。その人生の最後である死を、無意味なものとして走り続けていくなら、自分の人生自体が、そして生きること自体が無意味ということにならないでしょうか。そして無意味なものに向かって走り続ける人生は、ただ苦痛の連続にすぎないと思えてくるのではと思います。そこから生きていても仕方がないというような思いが出てくるのかもしれません。

イースターとは、イエスキリストの死からの復活をお祝いする日です。イエスキリストは、私たちの罪を赦すために十字架にかかって死なれました。しかし、その三日後にキリストは、死からよみがえられたのです。ですから、キリストの遺体や墓はどこにもありません。それとともに、イエスキリストを信じるなら、キリストがよみがえられたように、私たちも死からよみがえらせていただき、キリストを信じた者たちの互いの再会が約束されています。ここに死で終わることのない、私たちの人生の希望があり、死の恐れからの解放があるのです。イエスキリストだけが、人が、どんなに考えても答えを出すことのできない死に対して明確な答えを与えます。そして、死の問題が解決されたなら、もはや死を恐れることなく、人生にどんなに苦難があったとしても、それを乗り越えて力強く歩んでいくことができるようにされます。

今年のイースターがあなたの人生を変える時となりますように。
これをご覧の皆様の上に神様の祝福を祈りつつ。

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2019年3月

3月は卒業の季節であり、4月の入学や入社を楽しみにしている方々もおられることでしょう。
 あるご婦人がマザーテレサに「あなたのしていることはすごすぎます。わたしには何もできません。」と言いました。するとマザーは、にっこりと笑って「でも、わたしにできないことが、あなたにはできますよ。」と答えました。一生独身であったマザーには家族のために食事の準備をしたり、子育てをしたりということはできなかったでしょう。そのようなことも、インドのコルカタで貧しい人のために奉仕をするのと同じくらい尊い働きだと言いたかったのかもしれません。人と自分を比べるなら、私たちは、人ができて自分にできないことに目が向いてしまいます。そして、悲観的になり、自分には何もできないと思いこんでしまいます。しかし、私たちにできることがあります。それが、ただ他の人たちと違うだけです。(世界で一番大切なあなたへ PHP研究所より抜粋)

新しい環境に向かおうとしている方々や、普段と変わらず同じような仕事や勉強に励んでおられる方々も、また家族のために家事をし、子育てをされている方々も、誰であっても聖書は、忠実であれと教えます。つまり、自分が、他の人よりどれだけすぐれているかを競おうとしたり、すぐれた成果をあげようと必死になったり、他の人の生き方をうらやむのでもなく、ただ自分の与えられている務めを忠実に果たして、感謝をもって一日を終えるなら、私たちの生涯はきっと、喜び、平安、感謝と幸せにあふれたものとなるでしょう。

もし人生の目標を見失ったり、人生に疲れたり、心が傷ついたり、誰も信じてくれない中で孤独をおぼえたり、何となくでも生きづらさを感じたなら、ぜひ教会にお出かけください。そこで少しでも元気になって、またがんばろうと思えるなら、それにまさる喜びはありません。
これをお読みのお一人お一人の上に神様の豊かな祝福をお祈りしています。

聖書のことば
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2019年2月

1月14日付の東京新聞の筆洗に、成人式にちなんで、脚本家の山田太一氏の言葉が引用されていました。彼は、成人式で用いられる「無限の可能性」が苦手なのだそうです。大人が、若者を無責任に励ましているようで、本当にいやな言葉だと思いますとまで言います。第一に、リアリティーがないと言います。人生はままならず、だれもが無限の可能性を生かして成功を収められるわけではありません。能力も同じではなく、運もあります。しかし、その言葉は、失敗した人に向かって、無限の可能性があったのに「その分の努力が足らなかった」と言うのと同じではないかと言われています。実際に、自分の能力や病気、不慮の事故、家庭環境などによって、自分の可能性をあきらめた人もあったかもしれません。また、自分自身に無限の可能性を見いだすことができず、自分の可能性を信じることができなければ、私たちは人生に対して絶望しなければならなくなってしまうでしょう。

 元韓国代表のサッカー選手に李ヨンピョという人がいました。彼は、英国のプレミアリーグやドイツでもプレーし、2013年に現役を引退したのですが、彼は、選手時代に足に選手生命を脅かすような大けがをしました。サッカーがすべてだと思っていた彼は、大きな絶望の中にありましたが、クリスチャンの友人の勧めでキリスト教会に行き、イエスキリストを信じました。その後、足の怪我は奇跡的に治りましたが、今まで以上の積極果敢なプレースタイルは、人々の注目を集めました。その時に、彼は、神が自分を怪我から守ってくださると信じているし、仮に、再び怪我をして、好きなサッカーができなくなったとしても、神は自分に素晴らしい人生を用意してくださると信じていますと語っていました。

 李ヨンピョ氏が特別なのではありません。イエスキリストを信じるなら、すべての人が神にあって無限の可能性を見いだすことができます。何かによって夢や希望をあきらめないといけなくなっても、神は、自分にもっと素晴らしい人生を与えてくださると、必ず前を向いて、積極的に生きることができるようにされます。あなたも教会にいらっしゃいませんか。その時から必ずあなたの人生が変わります。神様の祝福が豊かにありますように。

聖書の言葉
「わたし自身、あなた方のために立てている計画をよく知っている。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2019年1月

 このニュースレターをご覧の皆様方は、新しい年をどのようにお迎えでしょうか。新しい年の上に神様の豊かな祝福を心よりお祈りいたします。

 ハロルド・クシュナーという人がいます。彼は、自分の著書の中で、聖書では80箇所以上にわたり、「恐れてはならない」もしくは「恐れるな」と記されてあると指摘しています。そして、その理由を次のように述べています。「なぜ私たちはこうも頻繁に恐れてはならないと命じられる必要があるのかと申しますと、それは、神が、どれほど多くのことにより私たちが脅かされているかを認識しておられ、私たちが恐れに打ちのめされた人生を送ることを望んでおられないからだと私は信じています。」(クリスチャン新聞福音版No.496より抜粋し引用)

 恐れるという言葉の意味の一つに、悪い結果になるのではないかと心配するという意味があります。クシュナー氏が指摘しているように、私たちは、日々の生活の中で人間関係、仕事、子育て、将来のことなどに関して実に様々な恐れを持ちます。恐れに囲まれていると言えるかもしれません。もし将来のことに関して、恐れや不安、心配などが心に出て来た時には私たちはどうすればいいのでしょうか。聖書は、私たちに「恐れるな。」と言われる神がおられると言います。なぜなら、この神は、力強く、全能であり、信頼することができる方であり、私たちのことを愛しておられるからです。この神に信仰をもってすべてをゆだねる時に、私たちの心には平安とともに、困難に向かって行く勇気も必ず与えられます。

 新しい年も何が起こるか分かりませんが、ぜひ「恐れるな。」と言われる神を聖書の中に見つけていただき、どんな中にあっても平安な日々を過ごされることを心からお勧めいたします。

<聖書の言葉>
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2018年12月

 テニスの世界的プレーヤーになった錦織圭(にしこりけい)選手のことはご存じだと思います。その錦織選手のコーチがマイケル・チャンです。彼の指導の下、錦織選手は世界ランキングのトップ10に入りました。
 マイケル・チャンは、台湾からのアメリカへの移民だった敬虔なクリスチャンの一族に育ちましたが10代に入ると、教会への姿勢は消極的になり、日曜日の教会の礼拝の時間になるとわざと寝坊をしていたということです。悶々とした悩みを抱えた中、久々に祖父母がいる教会を訪ねました。その教会の礼拝で語られた「神はすべてのことに理由を持つ」という言葉が心に刺さりました。家に戻ると本棚に放置してあった聖書を開き、むさぼるように読んだそうです。まずは思春期の少年が関心を持つ、人間関係、恋愛などについて探して読みました。そして、「すべて答えが書かれている」ことに驚いたということです。

 続いて、彼は聖書からイエス・キリストの生涯について読み通し、「私のいのちのために、十字架で死んだキリストの愛はなんと大きいのだろうか。何が起きてもキリストは、私を捨てない」と確信した。そして、「私の心に来てください。私をあなたの目的のために変えてください。」とイエスに祈った。
また、「私はそのとき、主(しゅ)に従い、主のことを知る生き方をしようと決断したのです」と、マイケル・チャンは言っています。
後に彼は自身の信仰についてこう語っています。「クリスチャンになったことで、テニスのプレーに何か影響を与えたかどうかは分からない。だが人としてどう振る舞うかについては変わったと断言できる。傷ついた人への憐れみの心、善悪の判断、優しい振る舞いについて考えるにようになりました。私にとってのキリスト教の本当の意味は、イエス・キリストと個人的な関係を持つことだ。神を知ること以上の喜びはない」
(以上、「クリスチャン新聞福音版No.471いのちのことば社」より抜粋)

 マイケル・チャン氏が語るように、聖書は人生のすべての問題に答えを与えてくれる書物です。そして彼のように、私たちの内側が変えられて、自分よりも回りの人のことを第一に考えられるようになれば、私たちの人生そのものが変わります。
イエスキリストの信仰は必ずあなたの人生を変えることができます。今年のクリスマスがあなたの人生の大きな転機になりますように。

メリークリスマス!

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2018年11月

 朝日新聞の文化・文芸欄の中に、生物学者の福岡伸一氏の動的平衡というコラムがあります。そこに次のようなことが書かれてありました。「植物は、病原菌にとりつかれても、虫に食われても、ハサミで切られても、その場から逃げることができない。動物のような感覚神経も、リンパ球のような免疫細胞もない。しかし、植物たちは、けなげな、いや、驚くほど巧みな感知と防御のシステムを持っている。(中略)不意にアミノ酸が降りかかってくると、植物は外敵襲来の警戒信号としてうけとる。このシグナルは葉や茎に張り巡らされた通路を駆け巡り、直ちに防衛反応を引き起こす。菌を溶かす酵素を分泌したり、虫が嫌がる化合物を放出したり、細胞壁を厚くしたりする。」

 これを読んだ時に、普通に咲いている植物であっても、偶然にそこから生えてきたのではなく、このような植物を造られた神がおられるということをあらためて思わされました。神がいるなんてと思う方があるかもしれませんが、福岡氏の言う防御のシステムを持つ植物が、偶然に生えてきたことを、神を抜きにして説明するのは、非常に難しいのではないかと思います。私が学生時代に、宇宙工学が専門であった先生が、「私はクリスチャンではないけれども、宇宙のことを研究すればするほど、神が存在していて、この宇宙を造られたのではないかと思えてくる」と言われました。

 私たちの回りは、人間の知恵を越えた、さまざまな不思議なもので満ちています。それは、まさに私たち人間を含めて、回りにあるすべてのものを造られた神がおられることを私たちに示しているのです。

<聖書のことば>
「はじめに神が天と地を創造された。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2018年10月

 教会の中に進行性の難病を患っている方がおられて、いつも私に「病会が治るようにお祈りしてください、」と言っておられました。結局、その方の病はいやされることなく、9月8日にご逝去され、キリスト教式で葬儀が営まれました。

 私たちは、必ずこの地上の生涯を終える時が来ます。ある方がお父様の遺体を引き取りに行く時に「人間は死んだら、物のように扱われますね。」と言われました。古代ギリシャの思想でも「大事なのは魂であって、体は入れ物のようなものだ」と言われていました。実際に火葬されて遺骨を見る時に、存在そのものが消え去ってしまい、忘れ去られるさみしさをおぼえます。

 しかし、クリスチャンは、からだのよみがえりを信じています。今持っている体が、新しい、朽ちることのない、完全な体に変えられます。その時には、もう病気や体の痛みによって悩まされることはありませんし、もちろん死もありません。この体が新しい体に変えられるわけですから、天において、再会した時に、はっきり誰であるかが分かります。ですから、クリスチャンは死の向こうに、愛する方々との再会の希望を持つことができるのです。神は、私たち一人一人の存在を大切なものと思ってくださり、私たち一人一人に与えられた体をとても大切なものと考えて、私たちを、新しいからだにして、よみがえらせてくださるのです。先ほどの難病を患っておられた方も、病が完全にいやされた新しい体が天において与えられた時に、その病気のいやしを願う祈りが、神によって答えられるのを、私たちは見ることができるのです。イエスキリストは、十字架にかかって死なれました。しかし、三日目によみがえられました。その時に、まさにキリストは新しい、朽ちることのない体でよみがえられました。ですから、キリストの墓はどこにもありません。私たちも、キリストのよみえりを信じる時に、キリストと同じように、新しいからだによみがえる希望を持つことができます。イエスキリストを信じる時に、人生が、決して死で終わることがなく、死の向こうに天の希望を仰ぎ見ることができるのです。この希望は、イエスキリストを信じるならば、誰でも持つことができます。すべての人に、死で終わることのない人生の希望を与えるイエスキリストを知っていだだきたいと思います。

<聖書の言葉>
「そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。『死は勝利に呑み込まれた。』

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2018年9月

精神科医の香山リカ氏が「迷える社会と迷えるわたし」(キリスト新聞社刊)という本の中で、「例えば私が精神科医として悩める若者に「君はチャペルに行きなさい」とか言ったりすると、途端に気が重くなってしまう。「いや、私はああいう世界はちょっと敷居が高いから」「そこまで人間ができていないから」とか言われる。キリスト教というとすごく公明正大で人格者で、清廉潔白な人だけが足を踏み入れていい世界であって、そうではなく、心が揺いだり、その場その場で考えが変わる、自分のような人は行ってはいけない場所、敷居が高い場所、むしろそういう自分のような者がいたら、教会でにらまれるのではないかとか、そんなイメージで見られてしまっているのかもしれません。」と書いてありました。牧師をしていますと、教会は、日本人にとっては、敷居の高い場所なのだろうと思うことがよくあります。しかし、教会は、すべての人を歓迎し、クリスチャンでなくても、誰でも来ることのできる場所です。そして、もちろん信仰を強要されるようなことは絶対にありません。それとともに、いつも思わされていることは、クリスチャンは、ごく普通に、どこにでもいる人たちだということです。人間ができているわけでもなく、失敗をして落ち込むこともあり、試験だと言えばあわてて勉強する学生もいますし、子育てや仕事で悩みながら悪戦苦闘し、日々皆さんと同じように生きている人たちです。回りの人たちと違うことがあるとするなら、日々の生活の中で、疲れをおぼえたり、自分でどうすりこともできず悩んだり、困ったことがあれば、それを教会で打ち明けて皆で神に祈ることでしょう。そして祈ることによって、元気づけられ、また新しい一歩を踏み出していくことができるのです。回りの状況は全く変わりませんが、自分自身が変えられるのです。そのような意味で、教会は、まさにクリスチャン一人一人の居場所であり、止まり木なのです。

皆さんもお話を聞いてほしいとか、祈ってほしいということがあれば、少しの勇気を出して、高い敷居を越えて、ぜひ教会にお出かけください。家族や職場の人や友人など誰にも言えない話しでも親身になって聞いて、祈ってくれる人たちがいます。教会があなたにとって新しい居場所となり、人生の止まり木となることを心から願っています。


聖書のことば
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2018年8月

ヘンリー・ナーウエンというカトリックの司祭がいます。彼が自分の著書の中で、過去と未来が絶えず悩ませるので、私たちにとって、現在を生きることはそれほどたやすくないと言います。過去とともにくるのは、とがめや悔いで、未来についてくるのは思い煩いです。例えば「おまえはあんなことをしたが、別のことをすべきだった。あんなことを言ったが、別の言い方をすべきだった。」との思いが心の中に浮かび、この罪責感が私たちを悩ませます。しかし、もっとたちの悪いのは、思い煩いです。思い煩いは、私たちの生活を「もしこうなったらどうしよう」との心配でいっぱいにします。「もし自分の伴侶が亡くなり、一人になったらどうしよう」「もし失業してお金がなくなったらどうしよう。」「もし試験がうまくいかなかったらどうしよう。」「もし子どもの就職がうまくいかなかったら」などなど、言えばきりがありません。これらの「もし」が次から次へと私たちの心を占領してしまうなら、周りの人のかける励ましの声も聞こえなくなり、子どもの笑顔も見えなくなり、美しい花に感動することもなくなってしまうかもしれません。(「いま、ここに生きる」あめんどう社より抜粋)

 ある人が、私たちの思い煩いのほとんどすべてが、想像の産物だと言いました。それはそうだと思います。なぜなら未来はまだ来ていないので、想像するしかありませんから。私たちはまだ来ていない未来についていろいろと想像し、不安や恐れや心配や思い煩いで、心を暗くするよりも、今のこの時を明るく、元気に、楽しく生きて行ければ幸いだと思います。今日という日は、一度しか私たちには来ないのですから。そのためにも私たちは、自分の心の中にある「もし」をすべて神様におゆだねいたしましょう。その時に必ず神様が私たちの暗く沈んだ心を明るくしてくださいます。神様は、あなたのことを愛して、見守っていてくださいます。神様にあなたの心にすべてをおゆだねしませんか。
これをお読みの皆様の上に神様の祝福をお祈りしつつ。

聖書のことば
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださっているからです。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2018年7月

「人生にゲームセットはない。」
―福岡ソフトバンクホークス サファテ投手の体験談―

 プロ野球パ・リーク福岡ソフトバンクホークスに、デニス・サファテという投手がいます。今年は、けがの影響で登板回数が減っていますが、去年までは抑えとして活躍していました。彼は18歳の時に、ドラフトでテキサスレンジャースから指名を受けたにもかかわらず、家庭の事情から契約に至らず、その頃から生活が荒れ始め、試合の前の日にも酒を飲み、朝起きる度に罪悪感にさいなまれるが、どうしていいか自分でも分からなかったと言います。その後、彼はジェイダ夫人と出会い、結婚しましたが、結婚した後も連日パーティーに行って大酒を飲み、自分勝手な生活を送っていました。二人のすれ違いは避けられず、先の見えない真っ暗闇にいるような結婚生活でした。

 2006年にメジャーデビューを果たし、2011年には広島東洋カープへの移籍をきっかけに来日しましたが、ちょうど夫人が出産のために帰国し、異国でひとりぼっちとなり、とてもみじめな気持ちを抱えていました。ある時、どうしようもない感情がわき起り、思わず「神様、あなたの助けが必要です。」と祈りました。それからサファテ選手は、毎日一人で聖書を読み、祈り始めました。すると、今までなかったような安らぎと喜びを感じたと言います。まさに、その時以来、サファテ選手は変わり始めたのです。そして、彼は、自分に起こった変化を次のように語っています。「以前は、ひどい試合をしてしまうと怒鳴り散らし、やけ酒を飲んだりしていたけれど、今は違います。自分は今、神のために野球をしています。たとえ負けても、それで人生が終わるわけではないと思えます。今は、イエスキリストが自分の中に生きていて、それが自分を内側から変えたのです。」

 サファテ選手が変えられたように、あなたも必ず変えられます。あなたも教会にいらっしゃいませんか。そこから新しい人生が始まります。イエスキリストにあるなら、人生に、終わりや絶望は絶対にありません。

<聖書のことば>
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2018年6月

 皆さんは、葉祥明氏をご存じでしょうか。北鎌倉の「葉祥明美術館」を訪れたことのある方があるかしれません。その葉氏の言葉の中に、次のようなものがあります。「人は誰でも幸せの鍵を自分の心の中に持っている。ただそれを忘れているだけ。」

 聖書は、私たちの心を写す鏡と言えます。聖書を読むなら、私たちの心がどのような状態にあるか知ることができるからです。私たちの口にする言葉や行動は、すべて私たちの心から出ています。私たちの心に怒りがあれば、それが言葉や態度、行動となって現れ、争いの原因となります。心の中にねたみがあれば、それも意地悪な言葉や行動となって現れるでしょう。そして、そのような言葉、行動、態度は、回りとの関係を悪くし、回りの人も自分も不幸にすることでしょう。そのような中で、私たちも自分の心を少しでも良くしようとするかもしれませんが、なかなか自分の心は変えられるものではありません。しかし、神への信仰は、必ず私たちの心を変えて新しくします。それにより必ず私たちの言葉や態度も変わります。また、私たちの心の中には悲しみや絶望、苦しみ、痛みであふれているかもしれません。将来のへの恐れや不安があるかもしれません。しかし、聖書の言葉は、必ずそのような心に将来への希望と、前へ向かわせる勇気を与えるでしょう。また聖書のことばは、どんな恐れや不安の中にあっても平安を与えます。

 葉氏の言葉にもありますように、心を見ることを忘れてはいませんか。様々な問題を回りや人のせいにしていることはありませんか。あなたの心が変われば、あなたの行動、言葉、態度、そして、あなた自身が変わります。心にある恐れや不安、悲しみ、痛み、悩み、つらい気持ちを、どうして良いか分からないということはありませんか。聖書の言葉は、必ずそのような状況からあなたを救い出すことができます。

 あなたも聖書を開くことにより、心が変えられる経験をしていただきたいと思います。まさに葉氏の詩にありますように、私たち一人一人の幸せの鍵は、私たちの心の中にあるのです。

<聖書の言葉>
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2018年5月

 東京都江東区の中三の女子生徒が、友人宅から現金一千万円を盗んだとして、窃盗容疑で逮捕されました。2018年4月17日付けの東京新聞によれば、仲間外れにされているような気がして、盗ったお金は、校舎内や通学路で、同級生に配ったと言っていたそうです。お金で他の生徒の気を引こうとしたのかもしれません。それだけでも、なぜそんなことをしたのかとの思いにさせられますが、なぜ、そんなにお金を持っているのかと問い詰めることもなく、お金を受け取っていた生徒がいたということも、私の心を暗く、悲しい気持ちにさせます。

 今の時代は、SNSやLINEなど通信手段の発達により、簡単に連絡が取れるようになったからでしょうか、一人になるということが難しくなってきたように思います。それとともに、人は、一人になることを極端に恐れるようになりました。そして、お金を渡してでも人の関心を引きたい、人を仲間外れにしてでも、犯罪に手を染めてでも、人を中傷してでも、何とかして友達のグループの中にいたいと思う子どもたちも多いように思います。私は、子どもも大人もすべての人が、一人で生きていける強さを、身につけなければならないことを常々思っています。たとえ仲間外れにされたとしても、悪いことは悪いとはっきり言える心の強さを、私たちは持ち合わせているでしょうか。その強さを身につけるために必要なことは、セルフイメージを常に高く保つことです。セルフイメージは、自分の能力を発揮したり、社会的に高い地位を得たり、親や友人など回りの人から愛されていると思えるなど、自らが価値ある存在だと思える時に高くなります。しかし、物事がうまくいかなかったとしても、自分が愛されているのだろうかと思える時にも、信仰により、私たちは、自分を価値ある存在だと確信することができます。そして、信仰により、仮に一人であっても、明るく平安に生きる強さを身につけることができます。それは、神が、私たちを愛してくださり、私たちを価値ある者だと言ってくださっていることを知っているからです。

教会は、いつでも、どなたでもご来会を心より歓迎いたします。そして、心が前より明るくなった、心が強くされた気がする、平安な気持ちになったと思っていただければ、それにまさる喜びはありません。これをお読みになった皆様のご来会を心よりお待ちしています。

聖書のことば
「私たちの父なる神と主イエスキリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2018年4月

 イースターは、イエスキリストの復活をお祝いする日ですが、今年は4月1日です。イースターが、日本でも次第に一般化されてまいりましたので、一度くらい耳にされた方があるかもしれません。

 多くの人が、イエスキリストが、死者の中から復活したと聞きますと、信じられないと思われるでしょう。実際に、イエスキリストが復活したかどうかをめぐって、あちらこちらでさまざまな論争がまき起こりました。しかし、クリスチャンでない人であっても、今は、イエスキリストが復活したことに対して、異を唱える人はほとんどありません。むしろ、論争の中心は、イエスキリストがどのようにしてよみがえったかということに移っています。

 聖書によると、イエスキリストを信じるなら、イエスキリストが死から復活されたように、私たちも、死後、永遠のいのちによみがえり、天国にて、先に天に帰った愛する人たちと再会することのできる希望が与えられます。しかし、それだけではなく、天国への希望は、私たちが、地上での生涯を一日一日ていねいに歩むことができるようにさせるものです。私たちは、死を極力避けようとします。例えば4という数字は、死を連想させるということでなるべく使わないようにします。しかし、以前の私もそうでしたが、自分の意識の中から死を遠ざけると、人は何となく毎日を生きるようになります。逆に、イエスキリストへの信仰による、永遠のいのちの希望を通して、私たちは死を恐れず、死に対して正面から向き合うことができるようになります。そういたしますと、自分は死せる者であるとの意識の中で、仮に、今日、地上の生涯を終わっても悔いのないように生きようとの思いの中で、一日一日感謝をもって、ていねいに生きるようにさせるのです。

 イエスキリストへの信仰は、そのようにして、あなた自身の生き方を変えることができます。あなたも教会にいらっしゃいませんか。そこから、あなたのまったく新しい人生が始まります。

聖書のことば
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。~彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2018年3月

 2018年2月8日付けの毎日新聞朝刊が、英国が「孤独担当相」なるポストを新設したことを報道していました。赤十字や慈善団体が協力して作成した報告書は、英国が「孤独」を巡る深刻な問題に直面していると指摘し、英国の人口6511万人のうち900万人がしばしば孤独を感じている、65歳以上の高齢者のうち360万人が、テレビが友達になっている、75歳以上の高齢者の3人に1人が、孤独感をコントロールできていない、地域社会が、孤独を放置することで、英国経済に320億ポンド(約4・9兆円)の損失をもたらしていると分析しています。メイ首相は、「孤独担当相」の新設理由について、「孤独は現代生活の悲しい現実で、孤独に対して行動を起こしたい」と述べたと言います。

 この記事を読みながら、私も、人生の孤独ということについてしばし考えました。孤独を感じる理由は、人それぞれでしょうし、実際に、すべての人が、孤独を感じているわけではありません。しかし、高齢者だけではなく、人が、間違いなく孤独感を感じるのは、自尊心を傷つけられたり、自分に存在価値があるのだろうかと思ったときです。子どもであっても、自分が親や友人たちの間で、いてもいなくいても同じだと思えば、耐えられないような孤独を感じるでしょう。夫婦であっても、お互いに、自分のことを分かってくれないと思うと、そこに存在価値が見いだせず孤独感をおぼえるでしょうし、病気や高齢などさまざまな理由で働けなくなった時に、自分の存在価値を見失って孤独感をおぼえることもあるでしょう。

 そのようなすべての人に対して、聖書は「あなたはいるだけですばらしい」「何ができなくても、あなたの存在には価値がある」というメッセージにあふれています。ですから、聖書の言葉に導かれる人生を歩むなら、私たちは、仮に一人になったとしても、決して孤独感を味わうことはないでしょうし、孤独感を味わっている人たちを慰めることができる人にされていくことでしょう。
 あなたも聖書をお読みになってみませんか。クリスチャンでない方でも歓迎いたします。皆様のご来会を心よりお待ちしています。


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2018年2月

 キリスト教は、一神教だからかもしれませんが、排他的であるとか、独善的であると言われたりいたします。しかし、宗教には、その性質上、どうしても妥協できない部分があるものです。そうでなければ本当の信仰とは言えないでしょう。そして、自分がそのようにして妥協できない、大事にしているものを持っているがゆえに、逆に他の人の信仰を尊重したいとの思いが出てくるのです。

 それとともに、妥協を許さないほどの強い信仰が、決して揺るぐことのない確信を与え、それがその人の生き方を支える指針となり、どんなものにも立ち向かう強い信念を与えるのです。キリスト教思想家として知られている内村鑑三氏が、「土地もやろう。金もやろう。場合によっては生命もやろう。しかし、良心はやらないぞ。否、決してやらないぞ。いかなる大権をゆだねられたる政府なりとも、われらの良心は決してやらないぞ。」と言いました。まさに、時の政府の権力をも恐れず、間違っていることは間違っていると、はっきりと伝える信念こそは、キリスト教の信仰から出たものです。信仰の与える妥協することのない信念は、何ものをも恐れず正しいと思うことを選び取り、悪に手を染めて後悔をすることない人生を選ばせます。私は、いつも、この信仰の与える信念をもって正しい道を選び取り、何があるか分からない人生にあっても、また悩みや孤独を感じる中にあっても、確信をもって強く生きる人が、数多く起こされることを心から願っています。そして、キリスト教の信仰は必ずそれを可能とさせます。

 あなたも教会にお出でになりませんか。どなたでも心から歓迎いたします。これをお読みのお一人お一人の上に神の豊かな祝福を祈りつつ。


「心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない。」(聖書)

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2018年1月

 新しい年が始まりました。これをご覧の皆様方も良い年をお迎えのことと存じます。新しい年も皆様方の上に神の豊かな祝福をお祈りいたします。

さて、昨年も、私たちの身の回りには、さまざまなことが起こりましたが、その中でも、神奈川県座間市で、自殺願望を持つ人たちなど9人が殺害された事件は、今の私たちの生きる社会の闇の部分を示したように思いました。しかし、「死にたい」などと書き込んでいた人たちも、本当は死にたいなどと思っていなかったと伝えられています。ですから、実際に自殺願望をほのめかしていた人たちも、自分の話しを聞いてくれ、共感する人たちを求めていたのでしょう。

共感は、「他人の考えや感情に対して、まったく同じように感じること。同感」と定義されています。そう考えますと、人は顔が違うように、考え方も違いますから、共感というのは、口で言うほど簡単ではないことが分かります。それは、家族や友人などすべての関係において言えるでしょう。もちろん、私は、例えば親が子の言っていることに対して何でも言うことを聞いた方がいいと言っているのではありません。もちろん親として反対したくなることもあるでしょう。そのようなときでも、なぜこの子が、そのようなことを言っているのだろうかとその気持ちを察することはできるはずです。もちろん「死にたい」と言っていることに対して誰一人として共感できる人はいません。しかし、そのようなことを口にするつらい思いや心の痛みや悲しみには、必ず共感できるはずです。そして、共感するためには時間と、相手を思う愛と寄りそう気持ちが必要です。

私たちは、聖書の中のイエスキリストの姿の中に共感する者の姿を見ます。「日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。」とあります。どれだけの人が、イエスのもとに連れて来られたのかは分かりませんが、大勢であったことは間違いないでしょう。また日も暮れていました。それでもイエスは、ひとりひとりに手を置いていやされたのです。恐らく手を置いていやされるだけではなく、その方が病の故にどれほどの痛みがあったか、つらかったかなど、さまざまな話しをされたはずです。そこにこそ、人と時間を共有し、ともに寄り添い、共感する姿があるのです。

今年は、回りの人に共感することを目標としてみませんか。そして、私たちの教会が、そして、牧師である私自身が、回りの人に共感できる者でありたいと思わされています。

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2017年12月

 群馬県に、画家で関口正人さんというクリスチャンの方がおられます。彼は、中学生時代にささいなことで、クラスの友人たちからいじめを受けるようになり、学校に行くのが怖くなり、いつの間にか行けなくなってしまいました。回りから「あいつは、悪いやつだ、いやなやつだ。」と言われ、親友もいつしか離れる中で、自分は価値のない人間だと思うようになったと言います。学校へ行くふりをして、親のいない間に家に戻って、酒を飲んだり、煙草を吸ったり、ゲームをして一日を過ごすような生活を送っていました。

 高校生になってから、友人と一緒に、生まれて初めてキリスト教会へ行きましたが、最初は、教会の雰囲気になじめず、自分の来る所ではないと思ったそうです。しばらくすると、今度は別の友人から誘われ、再度教会へ行き、その時に語られていた言葉が「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)でした。価値がないと思っていた自分にも価値があると言ってくださっている、そのことばによって、心が暖かくなる思いがして、関口さんは、イエスキリストを自分の救い主として信じました。そして、家に帰ってから洗面所で手を洗っている時に、いじめられてから笑顔を忘れて生きていた自分が、鏡の中で笑っている姿に号泣したと語っておられます。

 あなたには笑顔がありますか。心から笑っていますか。家族の中に笑顔はありますか。関口さんのように、このクリスマスが笑顔になり、また笑顔を取りもどす時となりますように、心から祈りつつ、教会へのお気軽なご来会を心よりお待ちしています。

メリークリスマス!

<聖書のことば>
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節)

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2017年11月

 「何をくよくよすることがある。・・・・突きとばされて転いだら、ついでにひとりで起きあがって歩くところを見せてやらにゃいかん。」(壺井栄:2017年7月2日付 朝日新聞「折々のことば」より抜粋)

 これは、小説『岸うつ波』で主人公の女性が、母の代わりに育ててくれた祖母から言われた言葉だそうです。私も小さい頃に、泣いて帰って来ると、「やられたままで泣いて帰って来るやつがあるか。やり返せ。」と親から言われたものです。人から突き飛ばされて転んでも、自分で起き上がることのできる子どもはいいですが、すべての子どもがそのようにできるとは限らないでしょう。また、競争社会と言われる世の中にあって、互いに人を突き飛ばしてでも、良い学校に入りたい、良い仕事につきたいと思っている中で、転んだまま起き上がれない子どもがいるのではないかとも思います。また、人生にはさまざまなことが起こります。その中で、倒れても不屈の精神で起き上がれる人はいいですが、そうできない人も必ずいるはずです。

 聖書の中にパウロという人物が出てまいります。彼は、キリスト教を大勢の人々に布教する中で、さまざまな困難を経験した人です。その中で、彼は、まさに倒れそうになるようなことをも経験しました。しかし、信仰による力によって、彼は、人生の困難を乗り越えて、人々に聖書の教えを伝え続けたのです。キリスト教の信仰は、パウロに困難を乗り越える力を与えたように、あなたにも人生の困難や問題を乗り越える力と知恵を必ず与えます。まずは教会に来て聖書を開いてみませんか。そこからあなたの新しい人生が始まります。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

<聖書のことば>
「人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2017年10月

 先月のニュースレターでは、故日野原重明氏の「鳥は飛び方を変えることはできないが、人はいつからでも生き方を変えることができる」との言葉を紹介させていただきました。

 今月も、日野原氏の「前向きに何かを期待する気持ちがあるなら、心が健康だということです。病んでいても、健康感を持つことがとても大切です。」(「たった一度の人生だから」いのちのことば社発行より抜粋)との言葉をご紹介させていただきます。恐らく日野原氏は、体が病気であっても、決して心まで病んではならない、病のゆえに、心まで絶望、あきらめ、悲しみ、孤独によってむしばまれてはならないということを言いたかったのではと思います。健康にどんなに気をつけていても、病気になることはあるでしょう。しかし、心は、私たちが気をつけていたなら、常に健康な状態を維持することができるのです。聖書は、私たちの心を写す鏡です。そして、聖書は、私たちの心が、どのような健康状態かを教えてくれます。仮に、私たちの心が弱ってしまい、健康な状態でないことに気がついても、自分では、心の健康を回復することはできないでしょう。しかし、神は、私たちの心の健康を回復してくださるお方です。神への信仰は、私たちが、どうすることもできないような状態の中に置かれたとしても、必ず前向きに何かを期待する気持ちを与えてくださいます。

 いきなり信仰を持つということではなく、まずは、教会にお出かけになってみてください。そして、聖書の言葉に耳を傾けてみてください。そこから、すべてが始まります。教会は、あなたのお気軽なご来会を心よりお待ちしております。これをご覧のあなたに、神様の豊かな祝福がありますように。

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2017年9月

 今年の7月18日に、日野原重明氏が105歳でご逝去されました。日野原氏は、亡くなる数日前まで患者さんを診察し、いろいろなお話しをされていたそうです。そして、日野原氏は、熱心なクリスチャンとしても知られていて、幼少期から聖書に親しんで来られ、折に触れて聖書のことばがふっと心に浮かんでくると言っておられました。

 その日野原氏が「鳥は飛び方を変えることができないが、人はいつからでも人生を変えることができる。」と言われたそうです。恐らく、多くの人々が、どうすれば人生を変えられるのだろうかと思われるでしょう。そのためには、まず、心が変えられなければなりません。心が変えられれば、ものの考え方や価値観が変えられます。そういたしますと、私たちの生き方や人生そのものが変えられるのです。もちろん、自分自身で自分の心を変えることはできませんし、自分の人生を変えることができません。しかし、神への信仰が、私たちの心を変え、私たちの人生を変えて、全く新しい人生を歩むことができるようにされます。日野原氏自身も、神様によって、人生を変えられた方として、105歳までその人生を歩んで来られました。また、教会に集うクリスチャン一人一人は、神によって人生を変えられた経験を持つ一人一人です。この世の中に、神によって人生を変えられない人はありません。ですから、あなたも必ず人生を変えられ、新しい人生を歩み出すことができます。また日野原氏も、「いつからでも人生を変えることができる」とおっしゃっておられましたが、人生を新しく始めるのに、遅いとか早いとかはありません。ぜひ教会へお出かけください。それが、新しい人生の第一歩となります。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

<聖書のことば>
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2017年8月

 今年の7月2日に東京都知事選挙が行われました。その前日の7月1日に、安倍晋三内閣総理大臣が、秋葉原で最終日の演説に臨みました。その時に、一部の人たちから「安倍、やめろ」などと言われたことに対し、「あの人たちに負けるわけにはいかないんです。」と反論したことが報じられていました。 私は、やじを飛ばすことにより、選挙の応援演説を妨害するような行為は、決して許されることではないと思いますし、やじを飛ばすこと自体どうなのかとも思います。しかし、それとともに、やじを飛ばした人たちに対して、「あの人たち」と呼ぶのも考えものではないかとも思いますが、いかがでしょうか。

 聖書の中に、パリサイ人と呼ばれる人たちが出てまいります。彼らは、神の律法を守ることで、正しく真面目に生きていこうとした人たちです。しかし、彼らの心の中に出て来たのは、律法を守ろうとしない人たちに対する優越心であり、回りの人たちをさばく気持ちでした。それとともに、イエスキリストにより、自分たちの心の中にあるさまざまな罪を指摘された時に、彼らはそれを決して認めようとせず、逆にイエスキリストを憎み、亡き者にしようとし、十字架につけることに加担したのです。誰しもが、自分は真面目に生きていると思っていることでしょう。また、自分は正しいと思いながら行動し、自分の考えを口にしていることでしょう。しかし、私たちには一歩下がって相手の意見や考えを謙虚に聞くことも必要であるはずです。そうでなければ、必ず心の中に怒りや憎しみが出て来るようになり、それが口論や争いの元になるからです。恐らく安倍首相の心の中にも、表面には現れないさまざまな思いが、「あの人たち」という言葉になったのだろうと思います。

 私たちはいかがでしょうか。聖書に出てくるパリサイ人のようになっていないでしょうか。逆に、人の言葉に謙虚に耳を傾けているでしょうか。自分に反省すべきところはないか、自分を省みる謙虚な心があるでしょうか。また、心からさまざまな目に見える争いなどが出てくることを考えますと、私たちは、聖書の言葉を通して自分の心を点検する必要があるのではないでしょうか。

 教会では聖書の言葉が語られています。あなたも教会で聖書の言葉に耳を傾けてみませんか。お気軽なご来会をお待ちしています。

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2017年7月

 7月9日(日)に、今高一紀氏をお迎えし、聖書講演会を予定していますので、ぜひお出かけください。ご来会を心よりお待ちしています。

 今高氏は、茨城県の地方銀行で定年までお勤めなさった後、第二の人生として牧師となることを志して、神学校へ行かれ、今は茨城県で牧師として活躍しておられます。

 今高氏は、キリスト教の信仰を持ちながら銀行マンとして働かれておられました。信仰が彼の人生をずっと支えていたのです。社会で働いておられる方は、皆さん経験しておられることとは思いますが、うまくいかないことがあって、心が折れそうになることもあるでしょう。時には、自分はなぜこんなことをしているのだろうかと思い、空しくなることもあるかもしれません。愚痴を言って、憂さを晴らしたいと思うこともあるでしょう。クリスチャンと言えども、多くの社会人の方々が経験することと無縁ではなく、同じようなつらい経験をしています。そのような中で、今高氏を始め、多くのクリスチャンが経験していることは、信仰が自分を支えているということです。

 皆さんは、何を支えに生きていますか。何を支えに仕事をし、何を支えに定年後の生活をし、何を支えに子育てをしているでしょうか。信仰は、すべての人の人生のそれぞれの場面において一人一人を支え、必要な助けを必ず与えてくれます。

 今回、今高氏が語る聖書のメッセージ、また、ご自身の人生の体験談を通して、そのことを深く感じていただきたいと思わされています。

神様の祝福がこれをご覧の皆様方の上に豊かにありますように。

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2017年6月

 私が、学生時代に友人と話していた時に、何かのことで、自分はクリスチャンだと言いました。そういたしますと彼が、「それなら右の頬を打たれたら、左の頬を出すんだよね。」と冗談交じりに言われたことがあります。もちろん、この言葉は聖書のことばですが、クリスチャンでない人であっても聞いたことがあるかもしれません。故三浦綾子氏も著書の中で、彼女がクリスチャンになる以前に、この言葉を聞いて、弱者の倫理だと思ったと述懐しておられます。
 そもそも、この聖書の言葉は何を意味しているのでしょうか。それは、怒りや憎しみにまかせての復讐の禁止です。誰かに右の頬を打たれたら、すぐに怒りにまかせて殴り返してしまうかもしれません。しかし、怒りや憎しみは、必ずエスカレートしてしまい、時には歯止めがきかないこともあります。そのようなことがないように、聖書は、怒りや憎しみをもっての復讐や仕返しを禁じているのです。最近は、あちらこちらで暴力や争いに関するニュースを見聞きします。しかし、怒りや憎しみから来る争いや暴力ではなく、相手を赦すことができたなら、そこにまことの平和が実現していくのではないかと思わされます。そうは申しましても、聖書は、決して万人に向けた倫理や道徳の本ではありません。つまり、「右の頬を打たれたなら、左の頬を向ける」という聖書の言葉を、そのまま実行しようとするなら、私たちは、怒りを我慢して抑えるなど、かなり無理をしなければならないでしょう。しかし、聖書は、私たちの心が、信仰によって、心から人を赦すように変えられる中で、この聖書の言葉を実行するようにと教えているのです。
 信仰は、私たちに赦す心を必ず与えます。あなたの心も信仰によって変えられるなら、あなた自身の生き方や人生までも変えられます。ぜひ教会へお出かけください。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

<聖書の言葉>
「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2017年5月

 2009年に、首都圏で男性三人が不審死を遂げた事件が起き、彼らを殺害した罪などで起訴され、裁判を受けていた木嶋佳苗被告について、このほど最高裁が上告を退けました。その結果、本人は、一貫して無罪を主張していますが、これにより木嶋被告の死刑が確定したことになります。そして、彼女は、拘置所での生活の様子を手記につづっていますが、その中で何度も、自分は「母によって否定された」という恨みや絶望を書いています。精神科医の香山リカ氏は「被告は教育熱心な家庭で子ども時代を過ごしたと言われるが、もしかすると昔から母親に『もっと甘えさせて』『いっしょに遊んで』などと言いたくても言えなかったのではないか」と言います。さらに同氏は「安易に比べることはできないが、大人になってから母親に『もっとかまってほしかった、やさしくしてほしかった』という思いを抱く娘たちは、今とても多い。特に優等生として過ごした女性は、母親の前では子どもっぽく振る舞えず、後になって『ほったらかし』と感じて恨みを抱いたりする。もちろん木嶋被告は特殊なケ-スだが、『母親に素直になれなかった娘』という点のみにおいてどこか共通点がある気もする。」と言います。(毎日新聞2017年4月25日朝刊より一部抜粋)これをお読みの皆様方はいかがでしょうか。もちろん、わが子を愛さない親はいないでしょう。しかし、いくら自分が愛していると思っても、それがわが子に伝わらなければ意味がないように思うのです。そして、牧師である私自身も、親子の関係を深く考えさせられたのですが、大切なのはコミュニケーションであり、そこにどれだけ時間を割くかということでしょう。そして、そのコミュニケーションの秘訣が聖書の中にきちんと書かれてあるのです。

 もし、親子のコミュニケーションに悩まれていたなら、ぜひ教会をお訪ねいただき、聖書をお開きいただきたいと思います。牧師である私の願いは、子どもたちが親の愛を実感しながら成長していくことです。そのためのお手伝いを少しでもさせていただければ幸いです。

<聖書のことば>
「愛は寛容であり、愛は親切です。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2017年4月

 世の中では死はタブーとなっています。ですから、病院には4号室というのはありません。それは数字の4が死を連想させるからです。しかし教会にあっては、普通に死が語られます。しかし死を通して私たちはいのちについて考え、いのちの大切さを思います。それとともに神によって日々生かされていることを感謝し、回りの方々によって生かされていることを感謝できるようにされていきます。それとともに死を見つめながら、自分がいかに生きるべきか人生についても真剣に考えていけるようになるのです。

 それではなぜ教会では死を普通に語るのかと申しますと、死後天国へ行くことができると信じているからです。そして十字架につけられましたが、三日目によみがえられたキリストこそが、私たちが永遠のいのちをもって天国へ行くことのできる保証となるのです。キリストの死体がどこにもないことと、空の墓こそがキリストの復活を雄弁に語っています。ですから私たちは、イースターにキリストの復活を喜びつつ祝い、自分にも天国への希望が与えられていることを心から感謝するのです。

 今年のイースターは、4月16日です。イースターにおいては死といのちが語られます。しかしそこで語られる死は決してすべての終わりではなく、また私たちに恐れをいだかせるものではなく、天国への入り口であるということです。それとともに、ともに生かされていることを感謝し、いのちの大切さをともに考える時です。ぜひイースター教会へお出かけください。どなたでも心より歓迎いたします。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(イエスキリスト)

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2017年3月

 毎日新聞の日曜日版に「新・心のサプリ」というコーナーがあり、心療内科医の海原純子氏が毎週執筆しています。そして、最近の「再会」という題のコラムで次のように言っています。「今、思い通りにいかないからといって子どもを虐待する親の話をきくことが多い。仕事も子育てもテレビドラマで描かれるように楽しく思い通りにはいかない。仕事や子育てを通して自分の心を成長させよう、という意識が仕事や子育てのもう一つの役割なのではないかと思いながら彼女の話をきいていた。」

 心の成長ということに目を向けるのは、さすがに心療内科医だと思いながら、このコラムを読ませていただきました。なぜなら、聖書は常に心を問題にしていますので、牧師である私自身がいつも心について考えさせられているからです。心は、目に見えませんので普段から意識することは少ないでしょう。しかし心は私たちの行動や言葉などに深い影響を与えています。例えば心が暗く沈んでいたなら、表情も暗くなるでしょう。時々心にもないことを言うという人がありますが、心にもないことを言うということはありえません。心に人に対する怒りや憎しみ、悪い感情などがあるからこそ、悪口や中傷、批判などが口をついて出てくるのです。また心の中に欲望があるから人の物を盗んだり、心に憎しみや怒りがあるので、それが暴力となって現れるのです。ですから、聖書はまず心を変えなさいと言います。そして、そのように言われて簡単に変わらないのが人の心です。だからこそ私たちは、神への信仰によって心を変えていくのです。

 教会の案内をしていますとよく「キリスト教を信じて何かいいことがあるのか。」と聞かれます。キリスト教を信じたからといってすぐに病気が治るわけではないですし、お金がもうかるとも限りません。もちろん元気でお金があれば、それにこしたことはありませんが、仮にお金がなくても、病気になっても心穏やかに、一日一日感謝して過ごすことができれば、私はこんないいことはないと思っています。そしてキリスト教の信仰は、必ずあなたの心をそのように変えてくれます。あなたも教会にいらっしゃいませんか。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道

2017年2月

 朝日新聞に益田ミリ氏の「オトナになった女子たちへ」というコラムがありますが、12月23日付けの「人生に ヘコミがまた」と題したコラムを、興味深く読ませていただきました。その内容は、生きていれば恥ずかしいこともするだろうということで、彼女自身がまだほとんど口をつけていないカプチーノを、太ももの上に全部こぼしてしまったエピソードを紹介し、内容は書かれてありませんでしたが、大失態もしでかしたと書かれてありました。そして「人生に、またひとつヘコミができた。ヘコんだところにわたしらしさが息づいている。そう信じることにする。」と結ばれていました。

 私自身が、このコラムを読み終えた後、自分の人生はヘコミだらけだなと、あらためて思いました。私の場合、失態というよりも多くの挫折が人生のヘコミとなっています。例えば学生時代は受験にことごとく失敗し、希望する公立高校にも、大学にも入ることができませんでした。この挫折は、ヘコんだところにわたしらしさが息づいているなどと言えるものではありませんでした。むしろ、人格を否定され、ダメ人間の烙印を押されたようにすら感じました。しかし、幸いなことに、その時私はクリスチャンでしたので、神様がこちらの学校のほうがいいよと言ってくださっていると信じて、何とか立ち直ることができました。そして、今にして思えば、大きな大きな挫折というヘコミも神様への感謝に変えられました。取り返しのつく失態や立ち直れる挫折ならいいですが、はまり込んで動けなくなってしまうようなヘコミが、もし人生にできてしまったなら、ぜひ神様にそのヘコミから脱け出すことができるように祈ってほしいと思います。神様は、私を助けてくださったように、きっとあなたのことも助けてくださいます。

<聖書のことば>
「人に知られないようでも、よく知られ、死にそうでも、見よ、生きており、罰せられているようであっても、殺されず、悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道

2017年1月

 新年あけましておめでとうございます。このニュースレターをご覧の皆様の上に新しい年も神様の豊かな祝福をお祈りいたします。

 私たちが水面をのぞきこみますと、そこにはっきりと自分の顔を見ることができます。それと同じように、自分の言葉や行動を通して、私たちは、目に見えない自分自身の心をはっきりと見ることができます。私たちの普段の行動は、さまざまな私たちの心を映し出していると言えるでしょう。暴言を口にしたり、暴力をふるったりするのは、心の中にいらいらした感情、怒りや憎しみが満ちているからです。心の中に、ねたみや憎い思いがあると、それが悪口や中傷になってしまいます。いかがでしょうか。

 聖書は、私たちの心を映す鏡です。聖書を読むと、私たちの心の状況がはっきりと分かります。そして、もし、私たちが、日々の自分の生活や行動で改めなければならないことがあるなら、まず目に見えない心を変えなければならないと、聖書は教えています。しかし、人間は簡単に心を変えることはできません。しかし、神様は、私たちの心を変えてくださるお方です。新年にあたり、まず聖書を読んでみませんか。聖書は、決して難しい本ではありませんし、教会では聖書を分かりやすく教えます。また教会以外の場所でも聖書の易しい学びがありますので、教会にお問い合わせください。そして、神様により自分の心が新しくされる経験をしていただきたいと思います。その時に必ず行動も言葉も変化していくことでしょう。それとともに自分の回りの人々が変えられていき、皆さんの生活や人生が変えられていくことでしょう。この年、皆様方の人生や生活が聖書を通して変えられていきますようにと切に願っています。


<聖書の言葉>
「顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道

2016年12月

 今年もクリスマスの季節がやってまいりました。皆さんにとって今年一年はどんな年だったでしょうか。うれしいこともあり、悲しいこともあり、いろいろなことがあったことでしょう。

 神を信じているクリスチャンであっても、自分たちには何の災いも起こらないとか人生には何の問題もないということはありません。さまざまな人生の問題にぶつかることもあり、人間関係で悩んだり、病気になったり、事故にあったりすることがあります。しかしキリスト教の信仰は、どんな中にあっても決して平安と希望を失うことなく、さまざまな人生の問題を乗り越えていく力を与えてくれます。

 イエス・キリストを信じるなら、誰にでもこの力が与えられ、全く新しい人生を歩むことができるようにされます。そのためにイエス・キリストはこの地上に人として生まれてくださいました。このイエス・キリストの誕生を祝うのがクリスマスです。あなたも今年のクリスマスは教会に来てともにイエス・キリストの誕生を祝ってみませんか。ここから新しい人生の第一歩が始まります。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。


<聖書の言葉>
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道


2016年11月

 早いもので、皆様のもとに11月号のニュースレターをお届けする時期となりました。キリスト教会では11月27日から12月24日までを降誕節(アドベント)と呼び、クリスマスを迎えるための準備の期間としています。それだけクリスマスがキリスト教会にとってとても大切な意味を持っているのです。

 皆さんは「きよしこの夜」という讃美歌をよくご存知かと思います。「きよしこの夜 星は光り 救いの御子は まぶねの中に眠りたもう いとやすく」という歌詞です。ここに出てまいります「救いの御子」というのは、イエスキリストのことです。何から救うのかと申しますと罪です。私たちを罪から救うために、キリストは、この地上に生まれてくださいました。私には罪がないから関係ないと思われるかもしれません。しかし、聖書は「義人はいない。ひとりもいない。」と言い、すべての人が罪人だと言います。特に、聖書は、私たちが、言葉や思いにおいて罪を犯すと教えます。私たちは、回りの人に対して悪口、陰口、中傷、ののしるような言葉を口に出してはいないでしょうか。また、心の中には怒り、憎しみ、ねたみがないでしょうか。聖書では、それらをも罪だと言います。そして、人は、自分で言葉や心の思いをどうすることもできません。ですから神が、その罪を解決し、罪から救ってくださるために、救いの御子イエスキリストを送ってくださったのです。

 すべてのクリスチャンが、この罪から救われた経験を持っています。ですから、罪から救われた喜びと感謝をもってクリスマスを迎えるのです。あなたもぜひクリスマスに教会へ来て、罪を赦される感謝と喜びを味わうクリスマスであるようにと願います。

<聖書の言葉>
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道


2016年10月

 皆さんは、高倉健主演の「あなたへ」という映画をご覧になったことがあるでしょうか?その映画にビートたけしが杉野輝夫役で出演しています。彼は、キャンピングカーで日本中を放浪している元国語教師で妻に先立たれた人物でした。その彼が、放浪と旅の違いは目的があるかないかであり、芭蕉と山頭火の違いだと言います。さらに、旅は帰るところがあると言います。

 私たちの人生は旅でしょうか?放浪でしょうか?人生に明確な目的がありますか?むしろある時には仕事のため、ある時には家族のため、ある時には趣味のため、ある時には楽しみのためと、あちらこちらを放浪するような人生にはなっていないでしょうか。人生の目的もなく放浪する人生は、どこへ向かっていくのか分からない不安な人生です。それと同時に、人生の旅が終わった後に帰るところはありますか?死後帰るところはありますか?

 聖書にはアブラハムという人物が出てきます。彼は、自分の生まれ故郷を出て、それこそさまざまな地域を渡り歩きます。いろいろな苦労がありました。そして、彼を最も悲しませたのは、60年以上連れ添った伴侶に先立たれたことだったに違いありません。また彼の人生は、地上にあって報われたとは言い難いものでした。しかし、彼は、決して絶望することなく、人生の旅を最後まで歩み続けることができました。それは、神への信仰がどんな中にあっても彼を支え、人生が終わった後には、天国へ行くことができるとの確信があったからです。

 神を信じるなら、誰でも天国へ行くことができます。あなたもぜひ、天国を自分の人生が終わった後に帰る場所とする人生を歩み出してください。神様の祝福を心よりお祈りしています。



<聖書のことば>
「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」



湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道


2016年9月

 これをご覧の皆様は、星野富弘さんという方をご存知でしょうか。中学校の体育教師でしたが、クラブ活動中に、生徒の前で模範演技をしている時に失敗して、頚髄を損傷し、手足の自由を失いましたが、入院中にキリスト教の洗礼を受け、その後口に筆をくわえて、詩や絵を書いておられる方です。群馬県みどり市東町には彼の作品を集めた富弘美術館が建設され、今でも多くの人々が来館され、その作品を通して大きな慰めと励ましを得ています。

 星野富弘氏は、「自分のためだけに生きようとしたときは、ほんとうの意味で自分のいのちを生かしているのではない。」と言いました。彼は重度の障害者です。回りの方々のサポートがなければ生活することができません。しかし、星野氏の詩画によりどれほど多くの人の人生に慰めと励ましを与えているかを思えば、彼ほど自分のいのちを生かしている人はいないのではと思います。そして、彼の人生の土台にあるのがキリスト教の信仰であり、聖書です。信仰により新しい人生を歩み出す中で、彼の人生、価値感、考え方などすべてが変えられ、そこからすべてが始まったのです。

 キリスト教の信仰は、自分中心の人生を他者中心の人生へと変換させます。しかし、それは、決して何かを我慢したような生き方ではなく、むしろ感謝と喜びをもって、自分のいのちを生かしていると言える生き方です。そのような新しい歩みをぜひ始めていただきたいと思わされます。


聖書のことば

「自分のことだけではなく、他の人のことをも顧みなさい。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道


2016年8月

 最近、殺人事件のニュースを耳にすることが多くなったように感じます。しかも、何の理由もなく人を殺したとか、人を殺してみたかったというような、以前は考えられない動機で人を殺す若者が増えています。

 ノートルダム清心学園理事長の渡辺和子氏が、その著書の中である学生のメモを紹介しています。「最近、こんなCMがありました。いのちは大切だ。いのちを大切に。そんなこと、何千回、何万回言われるより、あなたが大切だと誰かにそう言ってもらえるだけで、生きてゆける。近頃、この言葉の意味を実感しました。私は大切だ。生きるだけの価値がある。その思うだけで、私はどんどん丈夫になってゆきます。」(「置かれた場所で咲きなさい。」幻冬舎刊p68参照)

 皆さんは、ご主人や奥様、そしてお父さんやお母さん、お祖父さんやお祖母さんから「あなたは大切だ。」と言われたことがありますか。もちろん口先だけで言えば、すぐに気づかれるでしょうし、うれしくもないでしょう。聖書の中には、「あなたは大切だ。」「あなたは愛されている」とのメッセージがあふれています。それは、神が私たち一人一人のことを愛してくださっているからです。神は、私たちが何もできなくても、私たちの存在そのものを喜んでくださり、私たちを大切だと言ってくださるのです。もちろん、神など信じられない、神を信じるのは非科学的だと思われる方もあるでしょう。しかし、まず教会に来て、聖書を調べてから、神はいないと結論づけても遅くはないでしょう。しかし、願わくはこれをお読みの皆様方一人一人が、神によって自分が愛されていることを知り、その愛を持って、回りの人々に「あなたは大切だ」と愛の言葉をかけるお一人お一人になっていただきたいと思わされます。そうするなら、必ず家庭が変わり、職場が、地域が、学校が変わっていきます。そして私たちの回りにいる子どもたち、若者たちが必ず変わっていきます。
 神の祝福が皆様方お一人お一人に豊かにありますように。

聖書のことば
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道

2016年7月

 田名夢子さんという人は、東京都世田谷区砧で「笑恵館」というコミュニティーセンターを運営し、地域に住むお母さんやお年寄りに場所を提供しています。

 田名さんは、もともとミッションスクールに行っていて、その学校で、自分は聖書のことなら何でも知っているというような人たちを、やりこめてやろうと思って聖書を読み始めました。そして、聖書を読み始めると、生活のいろいろな場面で、聖書の言葉が思い出されて、やはり聖書は真理だと思うようになり、もっと聖書を読みたいと思うようになり、教会に行きクリスチャンになったそうです。

 そして、クリスチャンになった後の田名さんは、自分からも人からも物からも自由になったと言います。それは、自分でどうすることもできないことをすべて神にゆだねることができるようになったからです。例えば、自分でできることは、もちろん一生懸命するけれども、できないことは神にゆだねると言います。こだわりはあるけれども、できないことをくよくよ悩んでも仕方がないとも言われます。

 自分の生活を振り返ってみると、私たちは、かなり不自由な生活を送っているのではないでしょうか?私たちは、決して自分が変えられない人に振り回されて、勝手に怒ったり、悩んだり、ねたんだりして、余計なストレスを抱え込んでしまっているように見えます。また、自分ではどうすることもできないのが分かっていても、自分の持つこだわりを捨てられず、そこに縛られて不自由な生活を送っているということもあるでしょう。

 あなたも、すべての悩みや思いわずらいをゆだねることのできる神の存在をぜひ知っていただきたいと思います。教会は、どなたでも歓迎いたします。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道

2016年6月

 西田小夜子氏が、ある姉妹のことを書いていました。姉の夫は、一度転職し、再就職した先の会社も、給料は安かったが楽しく働き終えました。その一方で、妹の夫は、有名企業の管理職を務め上げたので、姉の夫の年金とは大違いのようです。しかし、妹が姉に「おねえちゃんち、夫婦仲がよくてうらやましい。うちの夫は私にかまわず、ゴルフ三昧だもの。私は買い物依存症かもしれない。」と言ったそうです。帰宅して夫に妹のことを話すと、「おれんちは金がないけど面白い。他人比べりゃきりがないし。ま、人生いろいろでいいんだな」と言ったそうです。(東京新聞「妻と夫の定年塾」2016年5月18日付けより)

 私たちは、自分自身と回りの人とを比べてしまいます。また、自分の夫や自分の妻、自分の父親や母親、自分の子どもを他の人々と比べます。そして、もしいやなところや劣っているところが目についたなら、不平や不満が心の中に出てきますし、もし優っているところがあれば、優越感が出てきます。しかし、劣等感を持つにしても、優越感を持つにしても、私たちは、いつも感謝することを忘れてしまいます。私もクリスチャンになってから、神様は自分を自分らしく造ってくださり、生かしてくださっているのだから、日々自分らしく生きればいいと思えるようになり、生きることが楽しく、また満ち足りた心で一日一日を過ごせるようになってまいりました。自分と回りを比べて一喜一憂する人生ではなく、自分は自分らしく生きる中で、満足のいく人生を歩めれば本当に幸せだと思わされます。

 私も神に出会った時から変えられたように、あなたも神によって全く新しい人生を歩めるようになります。それは、一日一日感謝と満足をもって生きることのできる人生です。あなたもぜひ教会にお出かけください。クリスチャンでない方も心より歓迎いたします。お気軽なご来会をお待ちしています。

<聖書のことば>
「すべての事について感謝しなさい。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道

2016年5月

 5月8日は母の日です。この母の日がキリスト教から始まったことを知らない方もおられるかもしれません。米国において、1905年5月9日に母親を亡くしたアンナジャービスという女性が、3年後の1908年5月10日に、母を偲んで、フィラデルフィアの教会で母親が好きだった白いカーネーションを配りました。そこから母の日が始まり、1914年の米国議会において、5月第二日曜日が母の日と制定されました。日本では、大正時代に青山学院教授であったアレクサンダー女史が紹介したと言われています。そして、このアンナジャービスは、「あなたの父と母とを敬え」との聖書の教えを実践するために、教会でカーネーションを配ったと言われています。

 ロバートブラウニングという人が、「母性愛。すべての愛はそこに始まり、そこに終わる。」と言いました。しかし、ある母親が「私は愛された経験がないので、自分の子どもをどのように愛していいか分からないのです。」と心理カウンセラーに訴えていました。その方がどのような生い立ちをたどられたのかは定かではありません。しかし、確かに愛された経験のない人に、子どもを愛するように求めるのは酷だろうと思います。しかし、聖書は、神は愛だと言います。そして、神の愛は、「全く自己中心ではなく、自分の満足をその関係において求めず、そして、愛を与えたことに対する応答を期待せず、愛する者の最高の幸福を願う愛」として定義できます。この神によってすべての人が愛されています。ですから、神に愛されていることを知り、この神の愛を知るならば、どのように愛していいか分からないということは決してありません。聖書は言います。「神の愛。すべての母性愛はそこに始まり、そこに終わる。」

<聖書のことば>
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道

2016年4月

 昨年12月に、広島県の中学三年生の男子生徒が自殺していたことが発覚し、マスコミにより、大きく報道されました。多くの人々が、このニュースに衝撃を受けるとともに、なぜもっと相談してくれなかったのかと言いますが、自分自身のことを振り返ってみても、それほど何でも回りの人に相談していたわけではなく、何か問題があっても、自分で解決していたことのほうが多かったように思います。

 しかし、何よりも私にとって残念であったことは、中学生が簡単に死を選ぶ現実です。死を選ぶ前に、他の選択肢がいくらでもあったのではと思わざるをえないのです。しかし、何のために生きているのか分からず、ただ目の前のことだけに一生懸命になっていたなら、自分の思うとおりに物事が進まなければ、絶望感から自ら命を絶つということもあるのでしょう。だからこそ、牧師として私は、すべての若者たちに、神様は、一人一人に大切な目的を持って命を与えてくださり、その目的を果たすために、他の人と違った個性が与えられていることを語り続けていきたいと思っています。仮に、自分の思い通りにいかなくても、必ず神様は、もっとすばらしい将来を、すべての子どもたちに備えてくださっているので、日々明るく歩んでほしいと言いたいのです。私自身も、生きる意味や目的が分からず、悶々としていた時にキリスト教に出会い、そして、神を信じることにより、生きる意味と生きる希望を見出すことができました。誰もが、どのように生きるかということについては、学問や知識として教えることはできるでしょう。しかし、なぜ生きるか、人はどこから来て、死んだらどうなるのかという大切な問いに関しては、明確に教えることができるのは宗教しかありません。だからこそ人の根本的な問いに答え、人に生きる希望を与える正しい宗教が必要なのです。

 4月から進級や進学、就職で新しい歩みがスタートしますが、いろいろな困難にぶつかることもあるでしょう。そのような時でも、絶望することなく、神様がいてくださるから大丈夫と、思ってくれる子どもたちが一人でも増えてくれることが、私の心からの願いです。

<聖書のことば>
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道


2016年3月


 皆様方は、人生の中でさまざまな労苦をしておられるでしょう。勉強の労苦、仕事上の労苦、子育ての労苦、介護の労苦、病との戦う労苦などさまざまなあることでしょう。その中で自分の労苦が報われたなら、大きな喜びがありますが、自分の労苦が報われなければ、がっかりし、生きる気力がなくなるということがあるかもしれません。人生において自分の労苦がむだでなかったかどうか最後に考えるのは、私たちが、死の床に着く時です。死の間際にあっても、人生において、自分がなしてきた労苦は、むだではなかったと言える人は、本当に幸せな人だと思います。

 パウロという人は、労苦が「主にあってむだでない」と言います。主というのは神様のことですが、彼は、神を信じる信仰のゆえに、自分の労苦がむだではないと言うのです。なぜなら自分の人生は、死で終わることがなく、永遠のいのちにより天国に導かれると信じているからであり、天において神が、自分の労苦に報いてくださると信じていたからです。皆様方も、イエスキリストを信じる信仰によって、天国への希望を持つことができるなら、人生において、耐えられないような労苦の中を通されても、必ず希望をもって乗り越えていくことができることでしょう。そして、私たちに、永遠のいのちと希望を与えるのが、キリストの復活であり、それを祝うのがイースターです。今年も、3月27日にイースターが行われます。あなたも教会にいらっしゃいませんか。そして、この希望を自分自身のものとしてください。教会は初めてという方でも、聖書のことがよく分からないという方でもどなたでも歓迎いたします。

 お一人お一人の上に神の祝福を祈りつつ

聖書の言葉
「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上 正道

2016年2月


 アレキサンダー・セルカークという名を聞いても、多くの方々がピンと来ないかもしれませんが、実は、この人物は、デフォーの名作ロビンソン・クルーソー(ロビンソン漂流記などとも呼ばれますが)のモデルとなったと言われている人です。もともとこのセルカークは、荒々しい手のつけられない男でした。同じ水夫の仲間たちが、我慢できなくなって彼を無人島に置き去りにしてしまったほどです。わずかばかりの身の回りの品といっしょに、ひとりで島に取り残された彼は、今度は、絶望のあまり荒れ狂いました。それから長い年月が経って、通りかかった船に救助された時には、彼は、全く生まれ変わったような人となっていました。彼を一冊の本が変えたのです。セルカークの母が、彼がいつか読んでくれることを願いつつ、荷物の中に隠すように入れておいた聖書でした。セルカークは、しばらくして落ち着いてから、身の回りの整理を始めました。そして、荷物の中から聖書を発見しました。何もすることのない無人島で、絶望の中、一人で聖書を読み始めましたが、その聖書こそが、回りがどうにも手のつけられなかった一人の水夫を変え、彼の人生を変えたのです。

 皆様方が、セルカークのように絶望の中で聖書を開くにしても、悲しみや心痛む中で聖書を開くにしても、また興味本位で聖書を開くにしても、聖書は必ずあなたの人生を導く道しるべとなることでしょう。聖書は、最初は難しそうに思えますが、学んでいくなら、とても興味深い書物です。また、教会では聖書を一度も読んだことがない方でもよく分かるようにお教えいたします。また、聖書を読んでみたいという方のために、無料で新約聖書もプレゼントいたします。ぜひお気軽に教会へお問い合わせください。2016年も始まりましたが、この年は聖書を読み、学ぶ年にしてみませんか。

聖書の言葉
「幸いなことよ。全き道を行く人々、主のみおしえによって歩む人々。」



湘南のぞみキリスト教会
村上 正道




2016年1月


 明けましておめでとうございます。新しい年の上に、神様の恵みと祝福を心よりお祈りしています。

 さて新年になりますと、多くの方々が神社や仏閣に詣でます。そこで願うことは、家内安全や商売繁盛、無病息災ということが多いのではないでしょうか。また受験生ですと、合格祈願に出かけることもあるでしょう。もちろん、そのようなことを願ってはいけないということはありませんが、どんなに願っても物事がうまくいかなかったり、病気になったり、事故にあったりすることはあるものです。キリスト教の信仰は、決して家内安全や商売繁盛、無病息災を保証するものではありませんし、すべての願いをかなえてくれるというような信仰ではありません。しかし、例え、自分の願う通りに物事が進まなくても、絶望することなく、前向きに生きていく力を与えるのがキリスト教の信仰です。また、クリスチャンであっても、病気になったり、思わぬ事故や災いに遭遇することがあります。その中にあっても、なお思いわずらったり、不安になったりすることなく、平安に過ごすことのできる力を、信仰によって与えられることができます。

 この信仰による力は、例外なく誰にでも与えられます。ぜひ、すべての人に、この困難を乗り越える力を経験していただきたいと思います。ぜひ、お気軽に教会にお出かけください。クリスチャンでない方でも、心より歓迎いたします。新しい年の私どもの教会へのご来会を、教会員一同心よりお待ちしています。

<聖書のことば>
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。


湘南のぞみキリスト教会
村上 正道




2015年12月


聖書のクリスマスの記事の中に、博士たちが星に導かれて、幼子イエスキリストに出会う場面が出てきます。そこには、星を見て彼らはこの上もなく喜んだと記されています。

 クリスマスの記事に限らず、聖書の中には喜びという言葉が何度も出てきますが、この聖書の語る喜びの一つが、私たち自身がイエスキリストへの信仰によって変えられる喜びです。暗かった性格が明るくなる。自分には生きる価値があるのかと思っていた人が自分の存在価値に気がついた、自己中心であった自分が、人に感謝できるようになったり、人を心から愛せるようになることによって、人は今まで経験したことのない喜びを経験することができます。あなたも、そしてあなたの家族も変えられて、今まで経験したことのない喜びを必ず味わうことができます。

 当教会では、クリスマスにあたり、様々なプログラムをご用意しております。子どもからお年寄りまで、はじめての方もどうぞお気軽に教会に足をお運びください。
皆様の上に、神様の祝福とクリスマスの喜びがありますように。

湘南のぞみキリスト教会牧師
村上 正道


2015年11月


 10月16日は、国連が制定した世界の食糧問題を考える日でした。私どもの教会も、国際飢餓対策機構を通じて、飢えに苦しんでいる人々に食料を届ける働きに協力させていただきました。国際飢餓対策機構のホームページによりますと、現在の世界人口は70億人でそのうちの10億人が飢餓に苦しみ、5秒に一人の子どもが、飢餓により命を落としているそうです。私たちも、この現実を前にして自分さえよければということではなく、少しでも分け与えることを知らなければならないことを思わされます。

 しかし、その一方で、私たちのうちに心の貧困はないでしょうか。マザーテレサも「この世界は、食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです。」と言われました。例えば自己中心で、自分さえよければ相手がどうなってもかまわないというような気持ちで日々生きていることはないでしょうか。人への感謝があるでしょうか。私たちは、心から回りの人たちを愛しているでしょうか。そして、回りの人の過ちを赦しているでしょうか。私たちは、いつしか自己中心となり、愛も感謝も相手を思いやる気持ちもない心の飢餓状態に陥っているのです。そして、最も悲惨なことは、その心の飢餓状態に気がつかないことです。特に、心の中は私たちの目に見えませんから、気がつきのいくいということがあるでしょう。しかし、聖書は、私たちの心の中を映す鏡です。聖書を通して、私たちは、自分の心の中がどのような状態かが分かります。そして、私たちの心が飢餓状態から救われ、心が変えられるなら、必ず私たちの人生が変わり、私たちの人間関係が変わります。

 自分の心が今どのような状態か知るために、あなたも聖書を開いてみませんか。教会はクリスチャンでなくても、どなたでも歓迎いたします。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

聖書の言葉
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」

湘南のぞみキリスト教会牧師
村上 正道


2015年10月

 「ニ学期の学校が始まるのがつらい子は、学校を休んで図書館にいらっしゃい。」との鎌倉市図書館のツイートが話題になっています。それで、牧師の私としては「学校へ行くのがつらい子は、教会にいらっしゃい。」と言いたいと思います。教会に子どもを集めて何かをしようということではありません。ただ子どもたちを元気にしてあげたいのです。

 この世の中は、大人から子どもまで生産性重視です。大人であれば、いかに能力があって、仕事ができて、生産性をあげられるかが評価の基準であり、子どもであれば、成績が良く、スポーツもできて優秀な子が評価されます。ところが、どんなにがんばっても、仕事や勉強やスポーツのできない大人や子どももいます。そのような中で、自分は生きていても仕方がないのではないかと思ったり、仕事や学校に行けなくなってしまったという人の話をしばしば耳にします。特に、学校でいじめなどを受けてしまったり、会社でパワハラ等を受けてしまうと、自分の存在自体を否定されたような気持ちになって、家から出られなくなってしまったり、死にたいという気持ちになってしまうのかもしれません。その一方で、聖書はその人の存在自体が尊いと教えます。何ができなくても、その人が存在しているだけでうれしいとのメッセージにあふれています。それはとりも直さず、命に対する価値であり、命の重さと言うことができるでしょう。ですから、何ができなくても、聖書はいつまでも変わることなく、あなたの存在は尊いと言い続けるのです。

 マザーテレサが「今のような開発の時代に人は皆急いでいて、何かを追いかけているみたいで、道端には競争に耐えられなかった人たちが倒れていくのです。こういう人たちを私は大切にし、こういう人たちに仕え、世話したいと思っているのです。」と言いました。私たちの教会も彼女のように、そのような人たちを大切にし、仕え、お世話したいと思っています。お子様からお年寄りまで、自分の存在の意味を見失ってしまっている人たち、そして、少し生きることに疲れたなと思われている方や、学校に行けなくなったお子様がおられましたら、ぜひお気軽に教会へお出かけください。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

聖書のことば
「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している。」

湘南のぞみキリスト教会牧師
村上 正道

2015年9月

 まだまだ暑い日が続いていますが、今年の夏は、私には特別暑いように感じました。他の方々もそのようにおっしゃっておられ、お会いした時のあいさつが「暑いですね」でした。暑い日が続く中で、熱中症への注意喚起が常になされていました。脱水症状が熱中症を引き起こす危険があることから、水分補給をするようにとの呼びかけです。特にこわいのが、自分が気がつかないうちに脱水症状になる、隠れ脱水症状なのだそうです。

 聖書を見ますと、私たちの心も渇いてしまい、脱水症状になる危険があります。心の中は、普段注意をいたしませんし、目に見えないので、心が渇いてしまっていても気がつかないのです。それでは、心が脱水症状になっていないかチェックしてみましょう。①いつも心の中に喜びがありますか?②逆に、心の中に不平や不満がありませんか?③心の中にいつも満足感がありますか?もし一つでもNOがあれば、それは、心の脱水症状になっている危険があります。いつも喜んでいられるはずないではないかとか、何かしら生活の中に不満があるだろうと、思われる方があるかもしれません。しかし、イエスキリストに対する信仰は、必ずあなたの心をどんな状況の中にあっても、喜びと感謝と満足で満たします。それが聖書の約束です。そして、私も、心がイエスキリストによって満たされる経験をしました。何を目的に生きていけばいいのか分からなかった私の心は、本当に渇いていて、生きることに空しさを感じていましたが、教会に行き、イエスキリストを信じた時に、私も心の脱水状態から救われ、今は生きることが本当に喜びとなりました。教会には、私と同じように心の脱水状態から救われた人たちが集まっています。私もそうでしたが、誰一人として最初からクリスチャンであった人はいません。ですから、教会ではクリスチャンでない方であっても歓迎いたします。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

イエスキリストのことば
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」

湘南のぞみキリスト教会
村上 正道

2015年8月

 8月になりますと、「平和」という言葉をよく耳にするようになります。今から70年前の8月6日に広島市に、そして8月9日に長崎市に原子爆弾が投下され、8月15日に終戦を迎えたからでしょう。戦争によって多くの人命が失われたことにより、私たちは平和の大切さを痛感させられます。

 聖書は、キリストこそ私たちの平和であると語ります。それは、ユダヤ人と異邦人との間にあった隔ての壁を打ちこわし、敵意を廃棄されたからです。その隔ての壁であるとか、敵意は、ユダヤ人の選民意識から来る優越感によってもたらされたものでした。しかしキリストの前に出れば、ユダヤ人も異邦人も同じ罪人であることを示され、もはやそこには優越感もないわけですから、隔ての壁も敵意もなく、ともにキリストにある罪の赦しを求めるようになるということです。

 国同士の争いも結局は、自国の利益を守るとか、自分の国の正当性を主張することで、隔ての壁を作り上げ、敵意を生むようになります。また私たちの人間関係に目を向けてみても、自分は正しいとばかりに相手を攻撃し、相手のことを考えず、理解しようとしない時に、そこに自分と回りの人たちを隔てる壁ができ、時には敵意すら生まれることがあります。しかし私たちがキリストの前に出るなら、100%正しい完全な人など誰もいません。感情的になっていたり、誤解があったりして、自分にも非があることにしばしば気がつかされ、まさにキリストによって隔ての壁が打ちこわされ、敵意が廃棄されることを知るのです。

 私は、世界中の人々がキリストを知ることにより、真の平和がもたらされると信じています。そして私たち一人一人が真の平和をもたらすキリストを知ることにより、回りの人との人間関係にも必ず真の平和と和解がもたらされると信じています。ぜひあなたもキリストに出会うために教会へお出かけください。お気軽なご来会をお待ちしています。

聖書のことば
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」

湘南のぞみキリスト教会牧師
村上 正道

2015年7月

 昨年、ドラえもんが始まってから45年になりました。それを知って、自分も年を取るはずだと思わされた次第です。私は、子どもの頃、ドラえもんをよく読んでいました。遅刻しそうになって学校まで走っている時に、どこでもドアーがあればいいのになどと思ったものです。

 ドラえもんにいつも出てくる場面は、のび太が泣きながらドラえもんの所へ行くと、ドラえもんが、いつも色々な機械をポケットから出すところです。しかし、のび太だけでなく、今の時代は子どもから大人まで、誰もが泣きながら色々なことを訴えたいと思っているのではないでしょうか。クリスチャンは、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。」と言われている神を信じ、祈りを通して、その神に様々なことを訴えることができます。もちろん、神のもとへ行けば、何か便利な機械が出てくるわけではありませんし、すぐに悩みが解決するわけではありません。しかし、泣きたい時に泣ける場所があり、不安や恐れ、心配がある時に、神に祈って励まされたり、平安をいただいて、今日からまたがんばろうと思って立ち上がれる幸いを、いつも経験させていただいています。確かに困った時の神頼みかもしれませんが、困った時に助ける神がいてくださり、折れそうな心が支えられて、また前を向いて、歩き出せることは本当に幸いなことだと思いますし、私は、ここにこそ他にはない、キリスト教の信仰の価値があると思っています。

 神は、クリスチャンだけではなく、すべての人をご自分のもとに招いておられます。すべての人に「苦難の日にわたしを呼び求めよ」と呼びかけてくださっています。あなたも、この神様を知るために、ぜひ教会へお出かけください。教会は、すべての人に開かれていて、どなたでも歓迎いたします。お気軽なご来会をお待ちしています。


湘南のぞみキリスト教会牧師
村上正道

2015年6月

  5月31日(日)午前10時から、「終活してますか?聖書から見た終活」と題してメッセージが語られますので、ぜひお出かけください。

 皆さんもご存知かとは思いますが、終活とは「人生の終わりのための活動」の略です。言わば、人が、人生の最期を迎えるにあたって行うべきことを総括したことを意味する言葉です。そして、この終活に当てはまるのが、生前のうちに、自身のための葬儀や墓の準備をしたり、残された者に迷惑がかからぬよう生前整理をするとか、また財産の相続を円滑に進めるための計画を立てておくことなどが挙げられます。そのためにはエンディングノートや遺書を書くとか、自分史などの記録を残しておくというようなことが大切な作業となっていきます。

 それとともに、私は、ぜひ聖書を通して終活をしていただくことをお勧めいたします。あるアンケート調査によりますと、「あなたは死後の世界があると思いますか。」との質問に対して「ある」と答えた人が23%で、「ない」と答えた人が30%、「わからない」と答えた人が47%でした。死後の世界において、分からないという答えが多いのが日本人の特徴と言えます。そのようにして、あいまいな死生観を持っていることが、日本人が死を恐れたり、死をタブー視したりする原因ではないかとも思います。もちろん、死後のことに関しては、誰にも分かりませんし、証明したりすることはできませんから、ただ信じるしかないのですが、聖書は明確に、イエスキリストを信じる者に対する永遠のいのちを約束しています。そのことにより、クリスチャンは、どんな中にあっても、人生を明るく、希望を持って歩んでいくことができるのです。身の回りの身辺整理をする終活だけではなく、自分が死後どこへ行くのかを確認するための、聖書から見る終活をお薦めさせていただきます。ぜひ教会へお出かけくださり、聖書をお開きください。そこには必ず私たちの知らなかった死後の世界はあるかということに対する答えがあります。


湘南のぞみキリスト教会牧師
村上正道


2015年5月

  1995年3月20日に地下鉄サリン事件が発生してから20年が経過しました。この事件に関する多くの人々の思いは、なぜ、あのような優秀な人たちが、オウム真理教のようなカルト宗教に入信してしまったのだろうかということでしたが、オウム真理教の信者たちは、自分たちの存在が認められるものを求めていたので、教祖である麻原彰晃の教えに陶酔していったのです。今の多くの若者たちが求めているのは、自分らしさです。自分の存在価値を認めてもらえること、生きていることを実感できることを求めて生きています。

 ちょうど私も、中学生の時に、生きる目的を求めていました。人が苦労しながら生きていく意味は何だろうかとか、どうせ人は死んでいくのであれば、勉強したり、あくせく働かなくてもいいのではないかなどと思いながら、中学校生活を送っていたのです。確かに学校では、どのように人が生きるかということは教えてくれましたが、なぜ人が生きなければならないのかということは、誰も教えてくれませんでした。そのような中で、私は新約聖書を手にする機会を得て、聖書を学ぶために教会へ行き、洗礼を受けてクリスチャンとなりました。それ以来、生きることが喜びとなり、嫌いだった勉強にも真剣に取り組むようになりました。そして、回りには悪友も多くいましたが、そのような友人の誘いに乗ることもなく、決して一線を越えることのない歯止めが心の中にありました。確かに、自分の人生を振り返ってみると苦しいことも多くありましたが、それでも明るい心で希望をもって生きることができたのも、信仰のゆえと感謝しています。

 そして、一人でも多くの人々に聖書を通して、人が生きることの意味と目的を伝えたいとの思いをもって牧師となりました。あなたの人生の悩みの答えは聖書の中に必ずあります。聖書は、あなたの存在自体に価値があると教えます。あなたも教会に来て、ぜひ聖書を開いてください。必ずあなたの人生が変えられます。そして、最後に、さまざまなカルト宗教に入信する前に正しい宗教観を身につけることは大切なことです。ぜひ大切なお子様を教会へお送りください。

<聖書のことば>
「あなた方の会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせられることはなさいません。むしろ、耐えられるように試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」



湘南のぞみキリスト教会牧師
村上正道

2015年4月

  NHKの朝の連続ドラマで「マッサン」が放送されました。その主人公のエリー(本名はジェシー・ロベルタ・カウンで、実際にはリタと呼ばれていた。)がクリスチャンだったということはあまり知られていません。実際には、夫の竹鶴政春さんも、妻リタさんの影響でクリスチャンになりました。特に、彼がクリスチャンになったきっかけは、自分も死後妻と同じ所に行きたいという願いからでした。クリスチャンは天国へ行くことのできる希望を持っています。そして、聖書によりますと、天国の描写の中に「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なせなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」とあります。私たちは、悲しみの涙を流すことが多くあります。地上にあっては、回りにいる多くの人々の死に立会い、そして、自らもいつかは分かりませんが、死をもってこの地上の生涯を終えます。そして、地上にあっては悲しみがあり、叫び出したくなるような思いを抱えることもあり、そして、多くの苦しいことも経験するでしょう。しかし、天国にはそのようなものが何もありません。天国は、誰もがあこがれるすばらしいところです。

 天国は、罪ある人は入ることはできません。自分は、悪いこともしないで、まじめに人生を生きてきたから大丈夫だと思われるかもしれません。しかし、聖書は、行いにおいて、言葉において、思いにおいて、人は罪を犯していると言います。私たちは、汚い言葉や下品な言葉、人を傷つけたり、中傷するような言葉を口にしてはいないでしょうか。心の中に憎しみや怒り、ねたみなど悪い思いがないでしょうか。そのようなものを持ったままでは天国へ行くことができませんが、イエスキリストを自分の罪からの救い主として信じれば、誰でも天国へ行くことができます。それは、イエスキリストによって私たちの罪が赦されるからです。

 死後どうなるのか不安な方や自分も天国へ行きたいと思われた方がありましたら、ぜひ教会へお出かけください。天国の門はすべての人に大きく開かれています。

<聖書のことば>
彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。


湘南のぞみキリスト教会牧師
村上正道

2015年3月

  2015年3月11日で、東日本大震災発生から4年が経ちます。震災の時に、私は、仙台にいました。激しい揺れが1分半ほど続いたようですが、私には、永遠に続くのではないかと思えるほど長く感じました。さらには揺れている間に、空がオレンジ色に変わっていったのを、今でも忘れることができません。そして、ライフラインが完全に途絶えた状況の中で、寒さと空腹に耐えていました。

 震災を通して、私たちは、日ごろの危機管理がいかに大切であるかということを、思い知らされました。しかし、震災から4年が経とうとしている今、いつの間にか震災が遠い過去のようになってしまっている気がいたします。それでも、東南海地震や首都直下型地震が来るかもしれないと言われていることを心にとめて、防災意識を常に高く持っていかなければならないと思わされています。

 それと同時に、私たちは、人生の危機管理はできているでしょうか。いつ何が起こるか分からないのが人生です。病気になるかもしれませんし、事故に遭うかもしれません。仕事上のさまざまなトラブルをかかえることもあるでしょうし、家族の中に思いもかけないような問題が出てくることもあるでしょう。そのような中で、私たちは、誰に助けを求めればいいのでしょう。どこに助けを求めることができるでしょう。聖書は、神に助けを求めよと言います。なぜなら聖書の神は、全能の神ですから、危機の中にある私たちをも助けることができます。さらに、神は、私たちのことを愛してくださっていて、私たちを助けたいと思っておられます。クリスチャンとは、この神を信じることによって、人生の危機に備えている人たちです。まずは、ぜひこの神様を知っていただき、自分の人生の危機に助けてくださるお方かどうか、確かめていただきたいのです。教会は、あなたのお気軽なご来会をお待ちしています。クリスチャンでなくても歓迎いたします。ぜひ教会へお出かけください。

<聖書のことば>
神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。

湘南のぞみキリスト教会牧師
村上正道

2015年2月

  埼玉県深谷市に「さんあい」という児童養護施設があります。この「さんあい」という名前の起源は、神を愛し、人を愛し、土を愛するというところから来ているそうです。その名のとおり、恵まれた自然環境のもと、35名の子どもたちが元気に暮らしています。

 この児童擁護施設に高瀬一使徒さんというクリスチャンの職員がおられます。彼が、ある時一人の不良高校生と出会いました。誰もその高校生を相手にしない中で、彼は何とかしてその高校生を愛そうとしました。ところが、自分の意に反して、その高校生を心から愛せなかったと言います。特に、その高校生が反発すればするほど、ますます怒りや憎悪などさまざまな思いが出てきたのです。その時に、高瀬さんはこのようにして人を心から愛することのできない自分を愛してくださる神の愛を知ったと語っておられました。

 私たちは、誰しも良好な人間関係を求めているはずです。夫婦間で、親子間で、友人同士、職場の仲間など、さまざまな人間関係を平和に送りたいと誰もが願います。そして、その中で多少のことは我慢しなければと目をつむることもあるでしょう。また悪いところばかり見ないで、いい面をなるべく見ていけば、その人のことを好きになれるかもしれないと思うことがあるかもしれません。確かに、自分に親切にしてくれる人を愛することはそれほど難しいことではありません。しかし、自分に反発したり、恩をあだで返したるするような人を愛することはそれほど簡単なことではないでしょう。

 神は、例外なく、すべての人に恵み深くあってくださると聖書は語ります。しかし、多くの人が神を無視し、神など信じないと公言し、むしろ神の前には罪人として歩んでいます。しかし、聖書は、そのようなすべての人を神は愛してくださっていると言い、ここにまことの愛があると教えています。ぜひまことの愛を知ってください。この愛で、周りの人を愛していくことができれば、あなたの人生は必ず変わります。この愛は、聖書の中に記されてあります。あなたもぜひ教会に来て、聖書のことばに耳を傾けてみてください。お気軽なご来会をお待ちしています。

<聖書のことば>
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。


湘南のぞみキリスト教会牧師
村上正道

2015年1月

 あけましておめでとうございます。新春のお慶びを申し上げます。それとともに、これをお読みくださっている皆様方お一人お一人の上に、神様からの豊かな祝福を心よりお祈りしています。

 さて、新約聖書の中にも新しいということばが出てまいりますが、それには、二種類の新しさがあります。一つは時間的な新しさであり、もう一つは質的な新しさです。時間的な新しさは、よくお分かりいただけると思います。新年も時間的な新しさです。その一方で質的な新しさは、なかなかピンとこないかもしれませんが、これは、もともと存在していたものが、全く異なるものへと変えられるということです。私自身が神を信じることで、この新しさを経験しました。私は、クリスチャンになる前には、人はいつかは死んでいくのに、勉強したり、働くことに何の意味があるのだろうと考えているうちに、生きることが空しくなりました。むしろ苦労して生きるより、毎日楽しく好きなことをして生きたほうがよっぽどいいと思い、そのように生きていました。その私が、キリスト教会へ行き、イエスキリストを自分の罪からの救い主として信じた時に、私の心から空しさが消えました。逆に生きることが喜びとなり、今できること、今しなければならないことを全力を尽くしていこうと思えるようになったのです。まさに私は、イエスキリストによって別人へと変えられました。全く新しい自分に生まれ変わりました。そして、教会には、私だけでなく、イエスキリストにより新しく変えられた人たちがたくさん集っています。ですから、誰であっても、イエスキリストによって必ず変えられると、私は確信しています。

もし、自分自身が、父親、母親として、夫、妻として、社会人として、学生として、さまざまな立場において変えられたいと願われるのであれば、ぜひ教会へお出かけください。クリスチャンでなくても、他の宗教を信じている方でも心より歓迎します。そこからあなたの全く新しい人生が始まります。

<聖書のことば>
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。



湘南のぞみキリスト教会牧師
村上正道


2014年12月

 皆さんの中には旅行が好きな方もおられると思います。現代は、交通機関も発達したことで、自由で手軽にいろいろな所へ行けるようになりました。まだ見知らぬ土地へ行くことは、私たちに期待感を与え、さまざまな楽しみを与えます。

 クリスマスによく開かれる箇所ですが、マタイの福音書2:1~12を見ますと、東方の博士たちが星に導かれて旅をしてきたことが記されています。そして彼らは星に導かれてついに幼子イエスキリストを見つけることができました。そして家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげたのです。この博士たちをお生まれになったキリストのもとへ導いた星がどのような星であったのかということに関して多くの学者が議論していますが、星そのものが東方から来た博士たちを導いたというよりも、神様が博士たちをイエスキリストのもとに導かれたのです。私たちを導かれる神は、人生の途中で私たちを見捨てたり、離れたりすることは決してありません。人生の最後まで私たちを導き続けてくださるのです。そして神が私たちを導かれるということは、決して私たちが何の問題もなく無病息災な人生を送ることを約束するものではありません。むしろ神の導きを信じて歩んでいても、人生のさまざまな問題の中を通されることもあるでしょう。しかしもし神が自分を導いてくださると信じることができるなら、人生において何が起こっても、不安や恐れにとらわれることはありませんし、絶望して一歩も進めないということはありません。なぜなら私たちの信じている神は、力と知恵に満ちたお方なので、自分でどうすることもできないことも神は解決してくださり、すべてを最善にしてくださると信じることができるからです。

 旅をする時には地図が必要です。地図で自分の現在地と目的地を確認しながら進んでいかなければなりません。私たちは何に導かれて人生という旅をしているのでしょうか。何か信頼できるものを持たないで人生を歩むということは、まさに地図も持たないで旅をするのと同じことではないでしょうか。そうなると必ず人生という旅において迷うことがあります。そして不安になったり、恐れたり、心配や思いわずらいが心の中に出てきます。またいろいろなトラブルが旅において起こるように、人生においてもさまざまなトラブルが起こることがあります。その時にどう対処されるでしょうか。ぜひ神を人生という旅の道しるべとし、何が起こるか分からない人生において神を信じることが最善の危機管理であることを知ってください。あなたも神に導かれて、新しい人生の第一歩を踏み出しませんか。

聖書のことば
「見よ。東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」


湘南のぞみキリスト教会牧師
村上正道

2014年11月

先月に引き続き、今月も明治学院大学の創立者のジェイムス・カーテイス・ヘボン博士のことをご紹介させていただきます。
 ヘボン博士は、日本語の聖書翻訳事業に関わり続けましたが、それは20年もの歳月をかけた一大事業でした。なぜ、ヘボン博士が、そこまでして聖書の翻訳に情熱を傾けたかと申しますと、聖書が、彼の生き方に大きな影響を与えたからです。それで、ヘボン博士は、ぜひ聖書を日本語に翻訳して一人でも多くの人に読んでほしいと考えたのです。
私も、中学二年生の時に始めて聖書を手にしました。聖書を手にした時、不思議な感動と喜びがありました。それまで聖書を手にすることが全くなかった私は、聖書を読めば何か良いことが書いてあり、これからの自分の人生を支えてくれるかもしれないと思い、さっそく読み始めましたが、自分にはとても理解ができないと思いました。聖書を読むことをあきらめかけていた時に、キリスト教会に行く機会があり、それをきっかけに牧師と個人的に聖書を学び始め、高校一年生の時に洗礼を受けました。これまで聖書のことばは、道をはずれそうになった時には厳しく私を叱責し、悲しみや失望の時には優しく励まし、常に心に喜びを与え続けてくれました。それと同時に、聖書は移ろいやすい世にあって、決して変わることのない真理として、私の人生を導き続けてくれました。そのことに、今も心から感謝しています。
多くの人が、聖書は難しいと感じていますし、その厚さに圧倒される方も多いことでしょう。しかし、聖書は学べば必ず誰でも理解することができます。そして、必ず聖書は人生のいかなる時にも、あなたを導く最良の書となるでしょう。ロバートE・リーも「私の困難と悲しみの時、聖書は常に光明と力を与えてくれた。」と言いました。もし、聖書をお読みになりたい方があれば、お気軽にご連絡ください。無料で新約聖書をプレゼントいたします。そして、あなたも教会においでになり、聖書を開いてみませんか。それが必ずあなたの新しい人生の第一歩となります。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

<聖書のことば>
「あなたのみことば(=聖書のことば)は、私の足のともしび、私の道の光です。」



湘南のぞみキリスト教会
村上正道



2014年10月



ジェームス・カーティス・ヘボンという人物をご存じでしょうか。日本で医療活動に従事し、辞典の編集と聖書翻訳に力を尽くした米国人の宣教師です。ヘボン式ローマ字の考案者であり、明治学院大学の創始者と言うと、多くの方が思い出されるのではないかと思います。

 ヘボン博士は、最初、日本に来た時に、自分のすべての財産を売り払って、すべての人に無償で分け隔てなく治療しました。それは、彼の体験がそうさせたのです。彼は、宣教師を志して、妻とともに小さな捕鯨船で出発しましたが、船に揺られ続ける中で奥さんが流産してしまいました。シンガポールで生まれた長男も生後すぐに亡くなり、アモイ(現在のマカオ)で子どもと奥さんはマラリアとなりニューヨークへ帰国しました。医者でありながら、自らも病に苦しみ、最愛のわが子を亡くすことで神の愛と慰めを経験し、1859年、横浜開港と同時に来日し、早速、医療活動に従事しました。まさに、それはすべての人を分け隔てなく受け入れ、どんな犠牲をも喜んで払うキリストの愛に裏打ちされたものでした。

 私たちは、自らが望まなくても人生において予期せぬ悲しみや苦しみ、痛みの中を通されることがあります。そのような時に、神の愛は、すべての悲しみや痛みをいやします。讃美歌の歌詞に「天の力にいやしえぬ悲しみは地にあらじ。」とあるとおりです。そして、神の愛によっていやされたなら、今度はキリストの愛によって悲しんでいる人たちを慰めることができるのです。これが神の愛であり、神の愛はヘボン博士を変えたように、あなたをも変えることができるのです。聖書を通して、誰もが神の愛を知ることができます。あなたも教会にいらっしゃいませんか。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

聖書のことば
「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にある人をも慰めることができるのです。」



湘南のぞみキリスト教会
村上正道

2014年9月


 まだまだ暑い日が続きますが、いかがお過ごしでいらっしゃいますか?
ヨハネの福音書に、真夏の一番暑い時に、井戸まで水を汲みに来たサマリヤ人の女性のことが記されてあります。この当時は、井戸に水を汲みに行くのは女性の仕事であり、誰もが暑さを避けて早朝とか夕方の涼しい時間帯を選んで、水を汲みに行きました。ところが、この女は一日のうちで一番暑い時に、人目を避けるかのように水を汲みに来たのです。その理由は、5人の男性との結婚と離婚を繰り返し、現在は夫ではない人といっしょにいたということでした。なぜこの女性がこのような生活を送っていたのか、その理由は分かりません。しかし、自分の心を男性によって満たそうとしたことは間違いありません。

 もし、私たちの心が満たされているかどうかを知りたいならば、自分の日々の生活や人生に、満足感と喜びがあるかどうかを考えてみてください。もし、それらがなければ、私たちは必ず自分を満たしてくれるもの、自分に喜びや楽しみを与えてくれるものを求めようとします。それが時には現実逃避というかたちになって現れることもあるでしょう。

 そして、この女に対してイエスキリストは「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠へのいのちの水がわき出ます。」と言われました。つまり、イエスキリストは、決して渇くことのない水を心に与えることのできるお方だというのです。イエスキリストを信じるなら、誰でも常に心を満たされ、喜びにあふれた生涯を送ることができるようにされます。そのようにしてイエスキリストはあなたとあなたの人生を全く変えることのできるお方です。私もキリストを信じる前には、人生の目的が分からず、何もしたくないという思いで生きていました。まさに私の心は渇き切っていました。その私が高校一年生の時にクリスチャンとなりました。クリスチャンになってからも、私の人生は挫折の連続でしたが、私の心は満たされ続け、私の心から満足と喜びが消えることはありませんでした。

 あなたもキリストにある新しい人生を歩んでみませんか。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

聖書のことば
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、私が与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のへのいのちの水がわき出ます。」(イエスキリスト)

湘南のぞみキリスト教会
村上正道

2014年8月


 サッカーのワールドカップもドイツの優勝で終わりました。ご覧になった方も多いのではないかと思います。

 そのサッカーワールドカップに出場した日本チームの選出たちを空港で暖かく迎えたファンの姿に対して精神科医の香山リカ氏が、「負けを喫した人たちにも「よくがんばった。」とねぎらいの声をかけ、「次があるよ。」と励ますことができるというやさしさ、寛大さは、私たちの長所ではないかと思うのだ。」と言い、さらに「日本には判官びいきといわれる独特の“弱い者びいき”がある。がんばったのに結果を残せなかった人にひときわ大きな拍手を送ってたたえる、というこの姿勢は、他国にはあまり見られない日本が誇るべき文化なのではないかと思っている。」と語っています。(2014年7月15日 毎日新聞 香山リカのココロの万華鏡より引用)下位に低迷し続けていた阪神タイガースを応援し続けていた私としては大いに共感するところがあります。

 実際に、自分自身のことをふりかえってみた時に、何もかもがうまくいったということは少なく、逆に、がんばったのに結果を残せずがっかりしたということも多くありました。もっと自分はできるはずなのに、どうしてできないんだとイライラしたり、もうダメだとあきらめることもありました。皆様方にもそのような経験はございませんか。聖書を開いてみますと、キリスト教の神は完全な“弱い者びいき”です。うまくいかずがっかりしている者たちを励ましたり、慰めてくださいます。そして、もし私たちが自分の弱さや限界を自覚し、真実な心をもって神に助けを求めるなら、必ず神様は私たちのことを助けてくださいます。

 私は人として弱くてもいいと思います。うまくいかないこと、できないことがあるのが当たり前だと思っています。すべての人がスーパーマンではないのですから。そのような中で当然落ち込んだり、がっかりすることもあるでしょう。そんな時にも、祈りにより私たちが、神の慰めや励ましにより前を向いていくことができたり、自分はダメだと下ばかり向いていないで、神を信じる信仰により、神の助けをいただきながら、力強い一歩を踏み出すことができたなら、こんな幸いなことはないと思っています。そしてこれがキリスト教信仰が与える幸いであり、信仰を持つことの意味です。多くのクリスチャンが信仰によって強くされて、新しい歩みを神にあって始めています。ぜひあなたにもこの信仰のすばらしさと幸いを知っていただきたいと思います。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

聖書のことば
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道




2014年7月


 小国綾子氏によると、インターネット上で言われて、あなたが悪口と感じるのは「まじめだね」「おとなしいね」「天然だね」「個性的だね」「マイペースだね」のうちどの言葉?との質問に対し、静岡市立中のある2年生のクラスでは「個性的だね」が一番多かったのだそうです。他人と同じであることに価値を置く人間関係では、ほめ言葉のはずの「個性的」すら悪口になってしまうのかとコメントしています。(2014年6月10日付 毎日新聞 「コラム発信箱」より引用)

 少し自分自身と回りの人とを比べてみましょう。例え親や兄弟であったとしても似ているところもあるかもしれませんが、考え方や性格など違うところもずいぶんあります。もちろん自分の友人たちとは育った環境も違うわけですから性格や好み、考えなどが違っても当然と言えます。その中にあって、最近は大人であっても子どもであっても、回りの人から変わっているとか、個性的だとか言われないように、なるべく自分の考えを押し殺し、無理をしてでも回りの人たちに合わせようとして、人間関係に煩わしさを感じたり、疲れてしまうということもあるようですし、そのようにすることが苦手であったり、できない人たちは、人間関係を築くことが難しくなっているような世の中になってきていると感じています。

 聖書に、「あなた(=神)が私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」と記されてあります。それは神様が私たち一人一人にいのちを与え、そして他の人と同じではないユニークで特別な存在として造られたということです。つまり社会や人間関係においては個性的であるのが当たり前であって、皆が同じであらなければならないということはないはずです。私はぜひ一人一人が他の人にはない自分の個性を活かしながら生きてほしいと願います。あなたも他の人と違っているからこそ、一人一人はかけがえのないすばらしい存在であるとの聖書の変わらない私たちに対するメッセージに耳を傾けてみませんか。お気軽なご来会をお待ちしています。

聖書のことば
「あなたはわたし(=神)の目には、あなたは高価で尊い。」

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道



2014年6月



私は、2006年から2010年までオーストラリアのシドニーにある神学大学に留学していました。ちょうどその時に、「七段の階段」ということばを知りました。それは、すべての人には七段ある階段があって、七段目までのぼりつめたならば、それが最高の幸せを意味するというのです。言葉の真偽は定かではありません。もしかしたら、誰かが、勝手に考え出したものかもしれませんし、どこかの地域で言い伝えのようにして残ったものかもしれません。
いずれにいたしましても、私は、確かにすべての人が最高の幸せを求めて階段をのぼり続けているように思います。もちろん人として、最高の幸せを追い求めることを悪いとは思いませんし、そのような人々の向上心を否定するつもりもありません。しかし、最高の幸せを求めつつ、自分はもっと幸せになりたいと思うあまり、大切なものを犠牲にしてはいないだろうかとも思いますし、さらなる幸せを求めるあまり、小さな幸せに目をとめることを忘れてしまっているように感じるのです。私自身も幸せだなと感じる時はどのような時だろうかと考えてみました。例えば、朝、元気に目覚めることができた時、元気で仕事をすることができたことを神に感謝する時、家族で食卓を囲んで感謝の祈りをささげる時、日曜日に教会の方々と礼拝をささげることができた時、そして、私は、妻と祈りをささげる時に本当の幸せを感じます。
七段までのぼりつめなくても私たちの回りにはたくさんの幸せがあるはずです。そして、それらの幸せに目をとめて感謝をささげる時に、私たちの心は幸せな気持ちで満たされるはずです。そして、私たちは人生において多くのものを失うことがあります。時には失って初めて、自分がいかに幸せによって取り囲まれていたか気づくことがあります。しかし、それでは遅すぎます。今日から、私たちは小さな幸せを見つけて、感謝する生活を始めてみませんか。そして、すべての人にそのような幸せを与えてくださっている神様に感謝をささげるために、あなたもぜひ教会にいらっしゃいませんか。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

聖書のことば
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」


湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道

2014年5月


5月の第二日曜日(5月11日)は母の日です。今では、日本にもすっかり定着していますが、母の日は、もともとキリスト教会から始まりました。アメリカのフィラデルフィアに住んでいたアンナ・ジャービスという人が、教会の日曜学校の先生をしていたお母さんを偲びつつ、「あなたの父と母とを敬いなさい。」との聖書のことばから、お母さんへの感謝をどのように現せばよいか考えていた時に、お母さんの好きだった白いカーネーションの花を教会堂いっぱいに飾ったことが始まりだと言われています。このことがアメリカ全土に広がり、後に、5月の第二日曜日が母の日として、国民の休日に制定されました。

聖書に「あなたの父と母とを敬いなさい。」とありますように、誰でも子どもに尊敬されるような親になることを願うことでしょう。しかし、子どもに敬われるような親になるにはどうすればいいのか分からないという方もいらっしゃるでしょうし、そんな親になれれば理想的だが、なかなかそうはいかないと思われる方もあるでしょう。そのことに関してバーバラ・バウマン氏は、まず子どもを尊敬するように勧め、子どもたちも大人と同じように尊敬されるべき存在であることを親自身が知らなければならないと言います。親の基本的な問題の一つは、自分がいつも正しいと考え、物事を親の観点から考えてしまうことです。子どもを尊敬するためには、まず子どもの言うことに耳を傾け、子どもの観点から物事を見つめ、考えることから始めなければなりません。(「見つけた 子育てのよろこび」バーバラ・バウマン・龍野さおり共著 発売元ファミリーフオーラムジャパンより引用)そして、敬うということがどういうことであるかを知った子どもたちは、自分の両親や回りの人々をも敬う子どもとなり、将来にわたって美しい人間関係を築いていく子どもとして成長していくことを確信しています。

このように聖書には、さまざまな子育ての知恵が詰まっています。あなたも聖書を開いてみませんか。ぜひ教会にお出かけください。信仰を強要されることは絶対にありませんし、様子を見に来られるだけでも結構です。お気軽なご来会を心よりお待ちしています。

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道



2014年4月


皆様いかがお過ごしでしょうか?私たちも1月22日に大船の地に引っ越してまいりました。夫婦ともどもこの地が気に入り、ここに住むことができますことを本当にうれしく思っています。そしてこの地に住む方々との出会いを心待ちにしています。ぜひご遠慮なく教会にお出かけください。
さて、4月20日はイースターの日曜日です。イエスキリストが十字架にかかって死なれましたが三日目によみがえられました。そのキリストの復活を祝うのがイースターです。欧米では国をあげてお祝いいたしますが、なぜクリスチャンはキリストの復活を祝うのでしょうか。それはキリストの復活を通して私たちにも永遠のいのちの希望が与えられていて、自分の人生は死で終わることがないと信じているからです。

私は脳腫瘍で亡くなった謙君の話しを読んだことがあります。彼は9歳の時にある出来事から良心の呵責をおぼえて、イエスキリストを罪からの救い主として信じました。その彼が10歳になってから脳に腫瘍が見つかり、本人にとっても、家族にとっても、長い闘病生活が始まりました。夜は付き添いが許されないために、「風がヒューヒューって吹くとき、ボク、さびしいんだよ。」と言うこともありましたが、謙君は医師や看護士に「ありがとうございました。」とあいさつをし、病床では他の教会の人たちのために祈っていました。彼の手を握りながら牧師が「謙ちゃん、イエス様を信じているね。心に平安があるね。」と問いかけると、その都度、謙君はギュとその牧師の手を握り返したのです。しかしそのような闘病生活の末の1986年7月9日、彼は天に帰っていきました。教会の告別式には多くの方々が集い、牧師は苦しみの中でキリストによって圧倒的な勝利者としていただいた謙君について語るとともに、天国の門をVサインをしながら入って行く彼の姿を思い浮かべさせていただきましたと語っています。(「こひつじと小さな羊飼い」インマヌエル出版局 p64~66詳述)

誰しもが人生を長く生きたいと願うでしょうし、人生にあって成功者でありたいと思うことでしょう。しかし、謙君の話しを読んだ時に、人生の勝利者とは健康で長生きした人とは言い切れないのではないかと思いますし、さまざまな功績や成功をおさめた人とも言えないのではないかと思いました。実際に彼にはそのような機会は与えられませんでした。むしろキリストによって苦しい闘病生活の中にあっても平安を失わず、天国への希望によって短い人生を生きぬいた謙君こそ人生のまことの勝利者だろうと思わされています。謙君はどこにでもいるような野球好きのごく普通の男の子でした。その彼がイエスキリストへの信仰によって人生の勝利者となることができたのです。ということは、男性であっても女性であっても、老いも若きも、子どもであっても、キリストへの信仰によって誰であっても死に勝利することによって人生の勝利者となることができるのです。ぜひこれをお読みのすべての方が、死に勝利することによって人生の勝利者となる道を歩まれることを心から願っています。

聖書のことば
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)

湘南のぞみキリスト教会
牧師 村上正道


2014年3月


 この度、湘南のぞみキリスト教会の牧師として赴任いたしました村上正道と申します。どうぞよろしくお願いいたします。ぜひご遠慮なく教会の諸集会にお出かけください。お気軽なお問い合わせも歓迎いたします。皆様方に教会でお会いできることを楽しみにしています。

 私は、愛媛県松山市で生まれ育ちました。キリスト教とは関係のない家で育った私は、中学二年生の時に初めてキリスト教会に行きました。その当時、私は生きることの意味を求めていました。特に、人はもしかしたら明日死ぬかもしれないとの思いの中で、熱心に勉強して将来少しでもよい仕事を得るために、いい学校に入ることに何の意味があるのだろうかと思っていました。ちょうどそのころ聖書を手にする機会があり、もしかしたら聖書のどこかに自分の人生にためになるようなことが書いてあるかもしれないと思い、読み始めましたが、聖書のことばは私には難解だったので、聖書を学ぶために教会へ行き始めました。

 高校生なった時に、三浦綾子氏原作の「塩狩峠」の映画を見ました。クリスチャンの鉄道員が自分のいのちをかけて暴走する列車を止めて、乗客のいのちを救うという内容でした。私は、自分もこのような愛に貫かれた生き方ができるのであれば、キリスト教を信じたいと思いました。そしてイエスキリストを自分の罪からの救い主として信じ、高校一年生のクリスマスに洗礼を受けました。クリスチャンになって私の人生は変わりました。以前は常に何かにいらだち、その感情を回りの人々にぶつけていましたが、クリスチャンになってからは、自分で感情をコントロ-ルできるようになりました。またイエスキリストを信じているので、永遠のいのちをいただいて死後天国へ行くことができるとの確信により生きることが喜びと変わりました。もちろん人生にはつらいことも苦しいこともありますが、神への信仰が私を支えていることは本当に感謝なことです。そして私が持つことのできた幸いな人生を多くの人に知っていただきたいと思い、教会の牧師となりました。

 石井希尚氏は、ご自分の著書の中で恋人のことや仕事や子育てのことなど、将来のことで悩むのは、生きている幸せを味わいたい、仕事の中で生きている目的を見出し、充実した人生を送りたい、少しでも自分の子をいい子に育てたいとの内なる欲求があるからにほかならないと言います。(「誰とも同じでないあなた」三笠書房p21 一部加筆)そしてこの欲求は例外なく、すべての人にあるはずです。もし生きることに何か悩みがあれば、また少しでも充実した人生を送りたいと願うのであれば、ぜひ教会にお出かけください。充実した人生のスタートがそこにあります。

聖書のことば
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。」

湘南のぞみキリスト教会牧師
村上正道

神のものは神に
2013年3


 春まだまだ寒い日が続きますが、一雨毎に春の陽気が近づいているようです。いかがお過ごしでしょうか。
 今日は、大切なお知らせがあります。湘南のぞみキリスト教会の牧師として奉仕をさせていただいていた山中が、聖書翻訳の働きに専従するため、 この3月をもって退任させていただくことになりました。皆様には、温かなご指導とお交わりをいただきましたことを、心から感謝申し上げます。湘南のぞみキリスト教会は、この春からしばらくの間、専任の牧師を持たない歩みをはじめさせていただきます。出来るだけ早くに専任の牧師が与えられるようにと祈りつつ、皆様にその報告をさせていただける日を待ち望んでいます。
尚、毎週日曜日に行われている礼拝は、諸教会の牧師先生方がメッセージを語って下さいますので、これまでと変わらない場所と時間で行われます。どうぞ、礼拝に足をお運びくださいますよう、お願いいたします。また、英語クラスとサフラン会も、これまでと同じように行われます。

今月の31日の日曜日は、イエス・キリストの復活を祝うイースターです。今日は、イエス・キリストの十字架と復活に焦点を当てつつ、「神のものは神に」と題して、マルコの福音書12章からのメッセージをお届けします。

 十字架の死を目前にしながらも、イエス・キリストは心を込めて人々と向き合い、救いのメッセージを語り続けておられました。ところが、人々はこのイエス・キリストと誠実に向き合おうとせず、口先の言葉で罠にかけ、退けようとしたと言います。宗教的指導者、政治的指導者たちが共謀し、主イエスのもとに来てこう言いました。「カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか。納めるべきではないのでしょうか」。

危険な質問でした。もし、納めるべきだ、と答えれば、ローマの重税に苦しんでいたユダヤ人たちの激しい怒りを買う事になります。しかし、納めるべきではない、と答えれば、ローマの役人に捕らえられることになります。ところが、この問いに対して、主イエスは彼らが驚嘆して黙らざるを得ないお答えをなさいました。「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」。目先の金銭やちっぽけなメンツや口先の言葉よりももっと大切なことがあるはずだ。あなたのたましいが本当に神に立ち返っているかどうか、本当に神のものとされて神と共に歩んでいるかどうか。

そのことに誠実に向き合うべきではないか。主イエスはそう言われたのでした。

神のものは神に。すなわち、私たちが本当に神のものとされ、神と共に歩むために、そのためにイエス・キリストはこの世に来られたと聖書は言います。目先の事柄に目を奪われ、口先のことばで神を退けようとする私たちを救うために、神のもの、神の最愛のひとり子であるイエス・キリストは、ご自分のいのちを救いの代価としてお与えくださったのです。

あなたを救うために十字架にかかり、よみがえって今も心を込めてあなたに語りかけておられるイエス・キリストに、どうぞ、誠実に向き合って下さいますように。今年のイースターは、是非、教会にお越し下さい。あなたを救い、あなたを真に神のものとしてくださるイエス・キリストを、どうぞ知ってくださいますように。


教会では、あなたのお越しを、心よりお待ちしています。

湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義


行動することの大切さ
2013年2


 春の陽気が待ち遠しい今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。関東では一月に久しぶりの大雪があり、教会の前では子どもたちが雪だるまを作っていました。今しばらく厳しい寒さが続くことと思いますが、どうぞ、お体を大切にお過ごしください。

 さて、今月のバイブルメッセージは「行動することの大切さ」と題して、創世記41章よりお届けします。

 旧約聖書創世記41章には、エジプトの王パロが不思議な夢を見たというエピソードが記されています。その夢には、神様がこれから成そうとしておられた大切なことが示されていました。ところが、パロにも、国中のすべての呪法士や知恵ある者たちにも、その夢の意味がどうしても分かりませんでした。そんな中、ヨセフという若者が、パロのもとに連れてこられます。ヨセフは、「私ではなく、神がその夢の意味を知らせて下さいます」と断った上で、確信をもって夢を解き明かしました。これからすぐに、エジプト全土に七年間の大豊作が訪れ、その後に七年間の大飢饉が訪れる。夢はそのことを示していると、ヨセフはパロに告げました。そればかりでなく、ヨセフはさらに、これから起こるその出来事に対してどのように行動すべきか、その対策についても、確信をもって進言しました。大豊作の間にしっかりと食糧を保管し、大飢饉に備えるよう、今すぐに準備を始めなければならない。そう告げたのでした。

 神様からのメッセージを確信をもって語り、そのメッセージに基づいて真剣に行動しようとしたヨセフ。そのヨセフを見たパロは、この人物こそエジプトに不可欠な人物だと認め、なんと、彼をエジプトの宰相に任命したと言います。そうして、夢が示していた通りの大飢饉がエジプトを襲った時、ヨセフはエジプトの国中の人々を飢餓から救うことができたのでした。

 神様が与えて下さるメッセージには、行動することで応答しなければならない。その大切さを、この物語は教えているように思います。

 聖書のことばには、大切なメッセージが示されています。大豊作の後に訪れた大飢饉のように、どれだけ豊かな人生を歩んだとしても、死後には審判の時が訪れると聖書は教えています。そして、生かされている今の内に、私たちはその備えをしなければならないと聖書は教えているのです。 
 神様は、私たちが滅びることなく救いを得るようにと、救い主イエス・キリストを遣わしてくださいました。私たちは、この救い主を信じ、このお方に聴き従って生きることで、救いをいただくことができる。聖書はそう教えています。

どうぞあなたも、信じるという行動をもって、神様に応答して下さいますように。


教会では、あなたのお越しを、心よりお待ちしています。
湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義



穴に落ちたら
2013年1月


新年あけましておめでとうございます。 新しい年が始まりました。旧年中のご愛顧に心から感謝しつつ、皆様に新年のご挨拶を申し上げます。
どうぞ、今年もよろしくお願いいたします。

 新年はじめの聖書からのメッセージは、「穴に落ちたら」と題して、ルカの福音書14章1-6節よりお届けします。

自力では抜け出す事ができない。そんな深い穴に落ち込んでしまうことが、人生には時に起こるのではないでしょうか。新約聖書ルカの福音書十四章にこんなエピソードがあります。

ある安息日に、(イエスが)食事をしようとして、パリサイ派のある指導者の家に入られたとき、みんながじっとイエスを見つめていた。そこには、イエスの真っ正面に、水腫をわずらっている人がいた。イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と言われた。しかし、彼らは黙っていた。(ルカ14:1-4)

安息日には、すべての仕事を止めて神との交わりに専念する。それが決まりでした。では、安息日に人をいやそうとすることは、神の前に相応しいことなのかどうか。当時の宗教家たちは、この問いに頭を悩ませ、答えを見いだせずにいました。それは、その病の程度やいやしの動機、そのいやしがもたらす周囲の人々への影響など、様々な問題が複雑に絡み合うので、神様がその時々に何を願い求めておられるのか、一概に答えを出す事が出来なかったからです。

さて、彼らはこの重要かつ難解な問いに答えを出せなかったわけですが、実は聖書がここで本当の問題として描き出しているのは、彼らの知恵や知識の不足などではなく、彼らがひたすらに沈黙を続けたことでした。彼らは、自分では解決できない問題に直面し、深い穴に落ち込んでいたと言えます。ところが彼らは、彼らに語りかけ、彼らを教え導こうとしておられた神であるイエス・キリストに、教えを求めることも、その語りかけに素直に応答することも拒絶してしまっていたのでした。

どう考えればよいのか、どうすれば良いのか、本当に分からない。そんな深い穴に落ち込んでしまうことが、私たちにもあります。そんな時、大切なのは、助けることのできるお方に助けを求めることです。そして、差し出された助けの手を、素直に受け取ることです。

どう考えればよいのか、どうすれば良いのか、本当に分からない。そんな穴に落ちた時には、どうぞ、神様に助けを求めてください。そして、神様が与えてくださる語りかけと助けの手を、素直に受け取ってください。神様が、あなたを助け出してくださるのです。


教会では、あなたのお越しを、心よりお待ちしています。
湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義

ふたつのしあわせ
2012年12月


Merry Christmas!

きょうダビデの町で、 あなたがたのために、
救い主がお生まれになりました。 この方こそ主キリストです。
ルカの福音書2章17節

 今から約二千年前、異なる方法で人を幸せにしようとした二人の人物がいました。
 一人は、時のローマ皇帝アウグストです。彼は、全世界の住民登録せよとの勅令を出し、人々を上から、力をもって治めようとしました。彼は、自らが思い描く世界、自らが思い描く幸せを人々に与えようと格闘しつつも、どうしても叶えることが出来なかったと言えます。アウグストの姿に、私たちの生き方を重ねることができるように思います。

 一方、そのアウグストの時代に、ベツレヘムの馬小屋で一人のみどりごが生まれました。この方こそ、神の御子、イエス・キリストです。イエス・キリストは、私たち人間の傍らに立つために、全てを捨てて下さったと聖書は言います。偉大な支配者としてではなく、弱く貧しい一人の人としてお生まれになり、すべての貧しさ、弱さ、苦しみを味わってくださった。上から、力をもってということではなく、下から、愛をもって私たちを幸せにしようとされた。

そして、私たちを罪と絶望の闇から救い出すために、ご自分のいのちを十字架にお与え下さった。それが、イエス・キリストであると聖書は言うのです。
 私たちに必要なのは、より強くなることでも、より豊かに、より偉くなることでもない。いのちを与えるほどに私たちを愛して下さる神様の愛をしっかりと受け取ること。それこそが、私たちが真に必要としていることだと聖書は教えています。

神様は、あなたを幸せにするために、イエス・キリストを遣わして下さいました。クリスマスのこの時、どうぞあなたも、このイエス・キリストを心に迎え入れて下さいますように。

 どうぞ、クリスマスの諸集会に足をお運びください。教会員一同、心よりお待ちしています。

湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義


苦しみの意味
2012年11月

 実りの秋を迎え、爽やかな秋の日々を健やかにお過ごしのことと存じます。
今月のバイブルメッセージは、「苦しみの意味」と題してお届けいたします。

私たちが体験する苦しみや悲しみには、意味があるのでしょうか。
旧約聖書創世記40章に登場するヨセフという人物は、説明がつかないような、度重なる苦しみを体験していました。彼は、兄弟たちから不当な憎しみを受けて奴隷として売り飛ばされてしまいました。さらに、奴隷として働いたエジプトの地でも、理不尽な裏切りを受けて牢獄に入れられてしまいました。ところが、その牢獄の中で、彼の人生を大きく変える出会いが与えられました。

エジプト王に対して罪を犯した二人の大臣が、ヨセフがいた牢獄に入れられたのです。そして、審判の時を待つ間、この二人の世話をヨセフがするようになったのです。ある夜、その二人の大臣がそれぞれ夢を見ました。その夢にはそれぞれ特別な意味がありましたが、当の二人にはその意味が分からず、心が騒いだと言います。そんな時、彼らの夢をヨセフが解き明かすことになりました。ヨセフには、夢を解き明かすという不思議な力が、神様から与えられていたのです。そして、まさにヨセフの解き明かしの通りのことが、二人の大臣の身に起こったのでした。

その後、ヨセフはこの出来事を通して牢獄から救い出されました。そればかりではなく、神様を信頼する誠実な人柄と、神様から与えられた賜物の故に、ヨセフはエジプトの宰相にまで上り詰めたのでした。そして、深刻な食糧危機がエジプト全土を襲った時、ヨセフは多くの人の命を救ったのでした。
ヨセフは後に、すべては神様のご支配の下にあった、と告白しています。奴隷として売られたことも、裏切られて牢獄に入れられたことも、最善が成されるために神様が許された事柄であったと告白したのです。
私たちの体験する苦しみや悲しみにも意味がある、と聖書は言います。神の最善が成されるために、何よりも、私たちの魂の救い主であるイエス・キリストによる救いを得るために、神様は私たちが体験するどんな事柄をも用いて下さる、と聖書は教えているのです。

その時その時にはなかなか分からないとしても、神様は最善の時に最善の事を成していてくださるお方です。どうぞあなたも、最善を成そうとしていてくださる神様を信頼し、神様に目を向け、神様の最善を待ち望んで歩んで下さいますように。神様の不思議な守りと導き、神様が成し遂げてくださる最善が、あなたにも差し出されているのです。

あなたのお越しを、心よりお待ちしています。
湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義

主が共におられるなら
2012年10月

 朝夕の涼しさが心地よい時期になりました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。湘南のぞみキリスト教会の礼拝には、大人約30名、子ども約10名が集っていますが、最近は、新しく礼拝に集ってくださる方々が増えてきました。教会にとって、イエス・キリストの素晴らしさを一人でも多くの方に知ってもらえることは、何よりの喜びです。後述する今月の予定にもあるように、10月28日には、教会ははじめてという方々のために「秋の特別集会」が行われます。この機会に是非、礼拝にお越しくださいますよう、お願いいたします。
さて、今月のバイブルメッセージは、「主が共におられるなら」と題してお届けいたします。

人に誤解されたり、裏切られたり。人生には、心が折れそうになる時があるでしょう。ですが、それでも諦めず、前向きに歩み続けるための秘訣がある、と聖書は教えています。
旧約聖書創世記39章に登場するヨセフという人物は、心が折れて自暴自棄になってもおかしくない状況にありました。兄弟たちから不当な憎しみを受け、奴隷として売り飛ばされるという、言いようもない苦しみを体験していたのです。
ですが、遠い異国の地であるエジプトで奴隷としての生活を始めたヨセフは、度重なる苦境にも決して腐る事なく、前向きに生き続けたと言います。その秘訣を聖書は、「主がヨセフと共におられた」からであると教えています。主が共におられたから、神様が共にいてくださったから、ヨセフは希望を持ち続け、前向きに生き続けることができた。聖書はそう言うのです。

私たちの人生にも、もうだめだ、どれだけ頑張っても意味がない、と言わざるを得ない状況、自暴自棄になってすべてを投げ出したくなる状況が訪れるかもしれません。ですが、全知全能の神様が共にいてくださり、助け導いてくださるなら、私たちはどんな状況の中でも、何度でも希望を持って立ち上がり、前向きに生き続けることができる。否、そればかりでなく、神様がその歩みを守り導いて下さり、苦しみや悲しみにあまりあるほどに報いを与え、素晴らしい道を開いてくださる。聖書はそう教えているのです。

人生を諦めず、前向きに歩み続けるための秘訣。それは、神様と共にいること、神様と共に歩み続けることだと、聖書は教えています。神様を信じ、神様と共に歩もうと願う人と、神様は必ず共にいてくださいます。

どうぞあなたの目を神様に向け、神様のことばである聖書のことばに耳を傾け、神様に祈ってみてください。また、日曜の朝には、教会の礼拝にお越し下さい。神様が共にいてくださる。そんな素晴らしい歩みが、あなたにも約束されているのです。

あなたのお越しを、心よりお待ちしています。
湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義


果たすべき務め
2012年9月

 厳しい残暑が続いていますが、皆様、いかがお過ごしでしょうか。教会のこどもたちは、それぞれに元気に夏を過ごし、日焼けして真っ黒になっています。熱中症等には注意が必要ですが、私たちも、元気に夏を過ごしたいですね。
さて、今月も教会からのお便りをお届けいたします。今月のバイブルメッセージは、「果たすべき務め」と題してお届けいたします。
人は誰も、「果たすべき務め」というものを持って生きているように思います。
旧約聖書創世記38章に登場するユダという人物は、果たすべき務めをないがしろにしたことで、一人の女性を大変苦しめてしまいました。ユダには3人の息子がいました。その長男に対してユダは、タマルという女性を妻として迎え入れることにしたと言います。ところがその後、その長男と次男が、神様に対して罪を犯し、命を失うという事態が起こってしまいました。当時のしきたりによれば、ユダは残された三男によってこのタマルに子どもをもうけてやる務めがありました。ところがユダは、もしかしたらこの最後の息子まで死んでしまうかもしれない、と恐れ、タマルを息子から遠ざけてしまったと言います。それも、タマルに嘘をつき、彼女をやもめのままに捨て置こうとしたのでした。ユダは、家族として迎え入れたはずのタマルに対して果たすべき務めをないがしろにし、彼女に大変な苦しみを負わせようとしたのでした。
ところが、そのタマルが、思い切った行動に出ました。彼女は遊女を装ってユダを騙し、何とユダの子どもをその身に宿したのでした。当時のもう一つのしきたりによれば、このような場合には、死んだ息子に代わって父親が子どもをもうけてやる必要があったのです。家族として迎え入れたはずのタマルに対する責任を果たそうとしないユダに対する、タマルの必死の行為であったと言えます。さて、何も知らないユダは、タマルがみごもったということを聞くと、「タマルを引き出して焼き殺せ」と激怒しました。しかし、その子どもはユダによるものだということが明らかにされました。するとユダは、タマルが抱えていた苦しみにようやく気づき、「あの女は私よりも正しい。私が彼女にわが子を与えなかったからだ」と告白し、自分の罪を認めるに至ったと言います。タマルの必死の行動がユダに果たすべき務めを思い起こさせた、そんな物語です。
さて、私たちも、果たすべき務めをないがしろにしてしまっているということはないでしょうか。特に、神様に対して果たすべき務めをないがしろにしてはいないでしょうか。神様のひとり子イエス・キリストは、人となってこの世に来てくださり、十字架にかかることで、果たすべき務めを私たちに思い起こさせてくださったと、聖書は教えています。イエス・キリストのいのちがけの行動、あの十字架の愛が気づかせてくれた私たちの務め、それは、私たちを愛してやまない神様と共に歩むということだと聖書は教えています。

あなたのお越しを、心よりお待ちしています。
湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義

深いうめき
2012年8月

暑い日が続きますが、秋の気配も少し感じられるようになってきました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。
今月も、教会からのお便りをお届けいたします。今月のバイブルメッセージは、新約聖書ローマ人への手紙から「深いうめき」と題してお届けいたします。

私たちの人生には様々な苦しみがあります。そんな中で私たちは、一体なぜこんな苦しみがあるのか、一体誰がこの苦しみを理解していてくれるのか、と呻くことがあるのではないでしょうか。心から、そして唇から、呻きがもれてくる。そんなことはないでしょうか。
 そんな私たちに聖書は、神様が私たちのために呻いていてくださる、と教えています。新約聖書ローマ人への手紙8章26節にこう記されています。「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」。ここでは、二つの呻きが語られています。一つは、私たちの呻きです。どのように祈ればよいのか分からない。苦しみの意味が分からず、誰にどう祈れば良いのかも分からない。そんな呻きです。しかし、もう一つの呻き、神様の呻きには明確な意味があり、明確な目的がある。聖書はそう教えています。聖書はこの後、神様のこの呻きは、私たちを神の子どもとするための呻きである、と教えています。神を知らずに生きてきた私たちが本当に神を知り、神の子どもとして幸いな歩みをする。その実現のために、神が忍耐をもって、深く深く呻いていてくださり、私たちの歩みに関わっていてくださる。聖書はそう教えているのです。この神様の熱意と深い愛は、丁度、親の愛が分からずに反抗を続ける子どもに対し、忍耐をもって深く呻き続ける親の愛のようであると言えます。
 私たちの歩みには様々な苦しみがあり、呻きがあります。しかし、覚えて於いて頂きたいと思います。そのあなたのために、神が、誰よりも深く呻いていてくださるということ。神はあなたを深く深く愛し、あなたの本当の幸いのために、妥協することも諦めることもせず、最善を願い続け、あなたの人生に関わり続けていて下さる。そのことをどうぞ、覚えていてください。そして、心と唇から呻きがもれるそんな時、あなたのために呻いていて下さる神の語りかけに、あなたの耳を傾けてください。その時、あなたの呻きは喜びに賛美に変えられていくのです。

あなたのお越しを、心よりお待ちしています。
湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義

今の時の苦しみは
2012年7月

 梅雨の時期になりました。いかがお過ごしでしょうか。雨が続くとうっとうしい思いを持つこともありますが、必要な雨を与えて下さる神様の恵みを思うとき、神様の御愛とご配慮に感謝の思いが湧いてきます。人生にも、時に雨や曇りの時が訪れますが、それも神様からの恵みとして正しく受け止めていきたいですね。

 今月も、皆様に教会からのお便りを差し上げることができることを感謝しています。今月のバイブルメッセージは、「今の時の苦しみは」と題してお届けさせていただきます。

 新約聖書ローマ人への手紙8章18節にこんな言葉があります。「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます」。

 この聖書の言葉は、まず、人生には様々な苦しみがあるということを教えています。確かに、私たちは生きていく中で様々な苦しみを味わいます。生まれた国や生まれた時代、あるいは家庭環境や人間関係によって苦しめられることがあります。また、自分の内側にある悪い思いや愛のなさというものに苦しむことがあります。自然災害や事故や病というものによっても、苦しむことがあるでしょう。そんな中、私たちは「なぜこんな苦しみがあるのか」と、呻くことがあるのではないでしょうか。しかし、聖書は、すべての苦しみには意味がある、と教えます。その呻きや嘆きを補って余りある意味があると、聖書は言うのです。その意味とは、「苦しみを通して、栄光が現されることだ」と、先述の聖書の言葉は教えています。

 栄光という言葉には、重んじる、重んじられる、という意味があります。私たちは、苦しみを通してこそ、神様に重んじられているということ、神様に深く深く愛されているということを知るようになっていく、と聖書は教えているのです。私たちの目はどうしても、今の時、この世の事柄だけに捕らわれがちではないでしょうか。そんな私たちが、苦しみの中で、永遠の事柄、そして神様へと目を向けるようになっていくと聖書は言います。そして、呻きが祈りに変わり、その祈りが本当の喜びと感謝へと変えられていく。聖書はそう教えています。人生には苦しみがあります。しかし、その苦しみを通してこそ、私たちは神の愛を知り、神と共に歩むようになっていきます。あらゆる苦しみを、取るに足りないと言わしめる神の愛があります。どうぞあなたも、神様の愛に目を向けて、歩み続けてくださいますように。。

あなたのお越しを、心よりお待ちしています。
湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義

朝の食事
2012年6月

新緑の美しい季節になりました。いかがお過ごしでしょうか。今月も、皆様に教会からのお便りを差し上げることができることを感謝しています。今月のバイブルメッセージは、「朝の食事」と題してお届けさせていただきます。

朝の食事をしっかり取ると、その日一日をしっかりと生きる体力が得られますよね。では、その日一日をしっかりと生きるたましいの活力は、どうすれば得られるのでしょうか。
新約聖書ヨハネの福音書21章には、その秘訣が記されています。イエス・キリストの十字架と復活から一週間が経った頃、弟子たちは、力を失った状態にありました。イエス・キリストをそれまでと同じように目で見て、共に過ごすということが出来なくなったことで、彼らはこれからどうやって生きていけば良いのかが分からなくなり、生きる目的や原動力を見失った状態に陥っていたのでした。
そんな中、彼らはかつての生業であった漁に出てみるのですが、夜通し働いても何もとれず、空しさは深まるばかりでした。すると、夜が明け始めたその時、イエスが岸辺に立ち、彼らに語りかけられました。「子どもたちよ。食べる物がありませんね」。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます」。弟子たちには、それがイエスであることが分かりませんでした。ですが、とにかくその言葉通りに網をおろしてみたと言います。すると、網を引き上げることができないほどのおびただしい魚がとれ、その時、弟子たちは喜びと感動に満たされ、それがイエスであることに気付いたのでした。
そうして、イエスは彼らにこう言われました。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」「さあ来て、朝の食事をしなさい」(21章10,11節)。「朝の食事をしなさい」。これから始まる一日をしっかりと生きるために、必要な力を得なさい。イエス・キリストはそう彼らを励まし、力づけ、彼らを新しい歩みへと送り出して下さったのでした。
一日をしっかりと生きるためのたましいの活力。それは、神のことばを聞き、神のことばに従う時に、日々必ず与えられると聖書は約束しています。そして、死者の中からよみがえられたイエス・キリストは、今も生きておられ、聖書のことばを通して、日々あなたに語りかけておられます。朝の食事を取る。丁度そのように、朝毎に聖書を読み、読んだことばに聞き従って歩んでみてください。喜びや感動に満たされるたましいの活力が、あなたにも差し出されているのです。

あなたのお越しを、心よりお待ちしています。
湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義

内側にあるものを
2012年5月

桜の季節も終わり、少し汗ばむような陽気が心地よい季節になりました。
いかがお過ごしでしょうか。今月も、皆様に教会からのお便りを差し上げることができることを感謝しています。
今月のバイブルメッセージは、「内側にあるものを」と題してお届けさせていただきます。

外側を取り繕うことよりも、大切なことがある。聖書はそう教えています。新約聖書ルカの福音書11章に、イエス様とあるパリサイとのやりとりが記されています。パリサイ人というのは、宗教的なきよめの儀式に特に熱心な人々でした。その彼を、イエス様は次のように厳しく戒められたと言います。「なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、(あなたがたの)内側は、強奪と邪悪でいっぱいです」。また、こうも言われました。「あなたがたは、公義と神(へ)の愛はなおざりにしています」。あなたがたは、内側にある本質的な欠けをごまかしたまま、表面的な事柄に終始して歩んでいるではないか。そして、それは本末転倒な生き方ではないか。イエス様はそのことを真剣に訴え、問題の根は神をないがしろにして歩んでいるところにあることを鋭く指摘されました。

自分で作り上げた基準ばかりに目を向けて一喜一憂しているので、いつまでたっても満ち足りない思いでいるのではないか。一番大切な神の愛をないがしろにして歩んでいるので、心に本当の喜びと平安がないのではないか。神を無視したまま表面的な部分ばかりを取り繕って生きる生き方は、完全に間違っている。イエス様はそう指摘されたのでした。

これは、あまりにも厳しい叱責にも思えます。実際、このパリサイ人はイエス様に対する激しい怒りを覚え、他の人々と共にあらゆる事柄についてイエス様に敵対するようになりました。ですが、イエス様は、彼のそのような応答を十分に承知しておられた上で、それでも彼を戒められたと言えます。たとえ憎まれ、恨まれ、十字架につけられたとしても、何とかして誤りに気づかせ、その人のたましいを救おうとされた。イエス様のことばの内側、イエス様の心の内側には、いつも、ご自分のいのちさえ厭わないほどの深い愛が込められています。

内側がきよめられるために、大切なのは、聖書のことばに示されている神様の愛にしっかりと耳を傾けることだと聖書は教えています。どうぞ、心を込めて聖書に耳を傾け、その内に溢れている神様の深い愛に気づいて下さいますように。その時、あなたの内側は、神様によって造りかえられていくのです。

あなたのお越しを、心よりお待ちしています。

湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義



死中に活を求めて
2012年4月

いよいよ桜の季節になりました。いかがお過ごしでしょうか。大船駅から湘南のぞみキリスト教会へと向かう道の途中、坂を上った先に、とても大きく枝振りの良い桜の木が沢山あります。毎年、息をのむほど美しい景色を見せてくれる隠れた名所です。是非、ご覧頂ければと思います。

さて、今月は、「死中に活を求めて」と題して、聖書からメッセージをお届けさせていただきます。


絶体絶命の窮地に立たされたその時、打開の道はどこにあるのでしょうか。

創世記35章に登場するヤコブは、絶体絶命の窮地にありました。まず、家庭崩壊の危機が、彼を苦しめていました。その時のヤコブは、息子たちとの間にどうしようもないほど深い溝を作っており、家庭は崩壊寸前の状態にありました。さらに、ヤコブは民族存亡の危機にも立たされていました。実は、ヤコブの息子たちがしてはならないやり方で、ある町を襲って全てを略奪したことから、一族は周囲の民族に憎まれ、根絶やしにされるかもしれない危機に立たされていたのです。
家庭が崩壊しつつある中で、民族としても根絶やしにされてしまうかもしれない。ヤコブはまさに、絶体絶命の窮地に立たされていました。

ところが、そんなヤコブに、神からのことばがあったと言います。旧約聖書創世記35章1節。「神はヤコブに仰せられた。『立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、…神のために祭壇を築きなさい』」。ベテルに向かうということは、その時のヤコブにとって、常識とはまるで逆の行動を意味していました。ベテルは、ヤコブら一族を根絶やしにしようとする民族の真ん中を突き抜けていかなければ、たどり着けない地であったからです。また、そこに祭壇を築き、真の神だけを礼拝するということも、その時のヤコブには考えがたいことであったと言えます。実はヤコブの家の者たちは異国の神々を信頼し、偶像を持っていました。崩壊しそうになっている家族に向けて、偶像に依り頼むことを止めて真の神だけを信じて生きよ、と呼びかけることは、かえって溝を深めることになりかねない行為であったと言えます。

しかし、それでもヤコブは神のことばに従った、と聖書は言います。絶体絶命の窮地の中、死中に活を求めるようにして、彼は神のことばに従ったのでした。するとその時、不思議なことが起こったと言います。真の神だけを信頼して生きようと呼びかけたヤコブに、一族の皆が素直に応答し、手にしていたすべての偶像を捨てたと言うのです。さらに、ベテルに向かって彼らが歩み始めると、神からの恐怖が周囲の民族に下り、彼らはヤコブらのあとを追わなかったと言うのです。

絶体絶命の窮地の中、打開の道はどこにあるのか。それは、神のことばに従うことである、と聖書は言います。神のことばに聞き従うことこそ、絶望を希望に変える道である。聖書はそう教えているのです。

いかがでしょうか。自分の知恵と力に依り頼む生き方に別れを告げ、真の神を信頼して神のことばに従って生きる。そんな幸いな生き方を、あなたもしてみませんか。あなたも是非、教会においでになり、神のことばである聖書のことばに耳を傾けてみて下さい。あなたにも、神様の守りと祝福は約束されているのです。

聖書のことば。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」。旧約聖書詩篇37篇5節


あなたのお越しを、心よりお待ちしています。

湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義



人生を変える出会い
2012年3月



まだまだ寒い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。昨日、被災地支援のために茨城県にある幾つかの教会を訪問させていただきました。その道中、多くの屋根にブルーシートがかけられているのが目に留まり、復興途上の苦しみの中にある方々が多くおられることを改めて思わされたことでした。東日本大震災発生から一年が経とうとする今、神様が与えて下さる希望に改めて心を留めつつ、神様の恵みを少しでもお届けさせて頂きたいと願わされています。

今月は、「人生を変える出会い」と題して、聖書からメッセージをお届けさせていただきます。

 旧約聖書創世記31章に、人生を変えた出会いのエピソードが描かれています。 主人公はヤコブと言い、その名前には「かかとにしがみつく」という意味がありました。そして、彼はまさに、そんな生き方をしてきた人物でした。自分の考えと自分の力を過信し、時に人を欺き、時に人を傷つけ、神も人も押しのけて生きてきた。それがヤコブでした。
 そんなヤコブが、ある夜、とうとうすべてを失い、自分が犯した罪のゆえに明日には殺されなければならないというところまで追い詰められてしまいます。絶望の闇に一人残されて苦悩するヤコブ。そんな彼に、不思議な出会いがあったと聖書は言います。
 神様が彼に現れ、夜が明けるまで彼と格闘してくださったと言うのです。ここでの「格闘した」という言葉は、「ちりにまみれた」という言葉です。神様がちりにまみえるようにしてまでヤコブと徹底的に向き合おうとしてくださった。そうして、ヤコブの魂を取り扱い、ヤコブの生き方そのものを変えようとしてくださった。
 聖書は、何とかして人の魂を救おうとする神様の深い愛と熱心を描き出しています。そして、そのようにして神様と向き合ったヤコブは、真に変えられなければならないのは表面的な状況などではなく自分の魂であり、神様に対する自分の生き方そのものなのだということにようやく気づかされたのでした。
 すると、そんな彼に神様はこう告げられたと聖書は言います。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ」。「イスラエル」という名前は、「神が戦ってくださる」「神が治めてくださる」という意味です。神様と本気で向き合うという体験をし、神様の愛と憐れみを体験したヤコブは、神も人も押しのけて生きるような生き方ではなく、神の守りを信頼し、神にしがみついて生きる者へと変えられたのでした。  

人生を変える出会い。それは、神との出会いであると聖書は言います。そして、その出会いはあなたにも、確かに用意されていると聖書は約束しています。どうぞ、教会へお越しくださり、神様の豊かな恵みを体験してくださいますように。

あなたのお越しを、心よりお待ちしています。


湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義

救い
2012年2月


 厳しい寒さが続きます。いかがお過ごしでしょうか。厳しい寒さを経て温かな春が来る。そんな当たり前に思える事柄の中にも、神様からの慰めや励ましがあるように思います。神様を信頼しつつ、希望を持って日々の歩みを続けさせて頂きたいと思わされます。
さて、今月は、「救い」と題して、聖書からメッセージをお届けさせていただきます。

 救いとは何でしょうか。イエス・キリストはある時、次のたとえを話されました。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」。(ルカの福音書10章30-35節)
 傷つき、動くことも出来ずただ死を待つ男性の姿に、私たち一人ひとりのたましいの状態が重ね合わされているように思います。祭司たちが彼の側を通り過ぎて行きましたが、無理もない話だと思います。関わっていると自分まで強盗に襲われかねない、また、助けるためにはとてつもない自己犠牲が強いられる状況でした。しかし、あるサマリヤ人が、そのとてつもない自己犠牲を払ったと言います。彼は、倒れて死を待つその男性を見て「かわいそうに思」ったと言います。この「かわいそうに思う」という言葉は、腹の底からわき上がってくるどうしようもない感情を指す言葉です。傷つき滅び行く人に対する無条件の深く熱い思い。それが、その人を救うことになりました。そして、この深く熱い、どうしようもない思いこそ、イエス・キリストが私たちに向けて持っていてくださる思いだと聖書は教えています。イエス様は私たちのたましいを見つめ、愛し、何とかして救おうとご自分のいのちを身代わりとして十字架でお与え下さったと聖書は言うのです。
 救いとは、私たち人間が自力で勝ち取るものではありません。私たちを愛し、何とかして救おうと懸命に手を差し伸べていて下さる神の御子イエス・キリストの手をしっかりと握りしめる。その時に与えられるものなのです。そして、あなたの前にも、イエス様の手は差し伸べられています。「私をお救いください」。そう祈りながら、あなたも、イエス様の手を握りしめてくださいますように。

湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義


苦しむ時 そこにある助け
2012年1月


 新年のご挨拶を申し上げます。昨年は、東日本大震災をはじめ、様々なことがありました。悲しみと苦しみと向き合わされている今こそ、闇の中に輝く光をみつめつつ、新しい年を歩ませて頂きたく願います。皆様の上に神様からの祝福をお祈りいたします。本年も、どうぞよろしくお願いいたします。
 今月は、「苦しむ時 そこにある助け」と題して、17年前の阪神淡路大震災を通して思わされたことを書かせて頂きます。

 今から17年前、1995年1月17日、阪神淡路大震災が起こりました。6,300人以上の死者を出したあの震災は、多くの人々の生活を一変させ、すべてのものを揺り動かしました。その日、私(著者)もまた、被災地で大きな揺れを体験し、かつてない災害と混乱の中を過ごすことになりました。

 地震の直後、外に出た私はいつもとは全く異なる風景を目にします。ようやく夜が明けかかる中、すべての電気が止まって不思議な静けさが覆う町を、多くの人々が不安と動揺を抱えた表情で歩き回っていました。当時一人暮らしをしていた私は、やはり被災地にあった実家の両親が心配になり、オートバイを走らせました。信号の止まった道、崩れ落ちた家やビル、行き交うパトカーや消防車のサイレン。目の前の現実がまるで夢の中の出来事のようで、不思議な感覚を覚えました。辿り着いた実家は、建物こそ無事でしたが、家の中はまるでミキサーにでもかけられたように散乱していました。土足のままでガラスや食器の上を歩きながら声をかけたのですが、返事はありません。もしかすると大けがをして運ばれたか、あるいはもっと大変なことが起こったかも知れない。それまでに感じたことのない不安を覚えたことでした。ですが、離れに行くと、祖母と父がそこにいました。祖母は大腿骨を骨折し、父も疲れてはいましたが、二人とも何とか無事でした。母のことを訪ねると、母は私の安否を心配して私が住んでいたアパートに車で向かってくれたとのことでした。後で聞かされたことですが、多くの家屋が無残に倒壊しているのを見ながら車を走らせていたとき、母は私がもう死んでしまったかもしれないと思ったそうです。

 昨日までそこにあった生活が一変し、それまで何気なく捉えていたすべてのものが揺り動かされる。そうして、体験したことのない不安と混乱の中に放り出される。そんな体験の始まりでした。そして、あらゆるものを揺り動かしたあの震災は、私のたましいも揺り動かすことになりました。震災直後からの3ヶ月間、私は避難所でボランティアの働きをさせていただくことになりました。私が最初にさせて頂いた仕事は、遺体を運ぶというものでした。硬く、冷たくなった遺体を素手で運びながら、それまで漠然と考えていた「死」というものが、私に迫って来ました。私もまた、明日さえ分からない死ぬべき存在である。その現実に、初めて感じる恐れと不安を覚えさせられました。また、家と財産のすべてを失われた男性と真夜中に焚き火にあたりながら、私の内側には真の希望がないことを強く思わされました。目に見えるものが失われる時、揺り動かされ、打ちのめされ、希望を失って途方に暮れる。それが私という人間の現実であることを知りました。さらに、3ヶ月間のボランティア活動を通して何よりも教えられたことは、自分の内側に巣食う偽善、愛のなさでした。傷つき悲しむ方々を愛して仕えようと思っても、どうしてもそれができない。良いことをしようとすればするほど、それとはかけ離れた自分という現実を知らされる。自分の内側にある惨めさ、汚なさを嫌と言うほど思い知らされました。

そうして、あの震災を通して私のたましいは打ちのめされ、立ち上がることができないほどに弱っていったのでした。しかし、その経験を通して、私の目は、揺り動かされることのないものへと向けられて行きました。明日さえ分からない死にゆく者だからこそ、永遠のいのちを与えるイエス・キリストの手を握りしめるように。何も持たない弱く小さな者だからこそ、真の希望と喜びを与えてくださるイエス・キリストにすべてを委ねて生きるように。どうしようもなく惨めで愛のない者だからこそ、そんな者を愛していのちまで与えてくださったお方、そして、死を打ち破ってよみがえり、今も生きて導き続けてくださるイエス・キリストと共に生きるように。神様は私にそのことを教え、励まし、再び立たせてくださったのでした。

すべてのものは揺り動かされ、過ぎ去って行く。しかし、イエス・キリストだけは何があっても変わることがなく、愛を貫き、依り頼む者の魂を必ず守り導いてくださる。聖書の約束が真実であることを、あの震災を通して深く体験させられたことでした。

 イエス・キリストを避けどころとする。そんな生き方があることを、今の私は心から喜んでいます。そして、この生き方は、あなたにも差し出されています。どうか、教会にお越しくださり、共に神様の恵みを味わって下さいますように。

聖書のことば
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。
それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。

たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても」。 旧約聖書 詩篇 46 篇 1-3 節


湘南のぞみキリスト教会牧師 
山中直義