わたしがクリスチャンになった理由 of 湘南のぞみキリスト教会

中西さおり

証(オアシス礼拝にて)

2007年のクリスマスに洗礼を受けました。

 教会へ行くようになったきっかけは、夫の家庭がクリスチャンだったことです。結婚の前から、彼の実家を訪れた時には、日曜日に教会へついていくようになりました。夫のお母さん、同居のお兄さんやその子どもたちも含め、家族で「日曜日は教会に行く」というのが当たり前のことだったので、ごく自然に教会についていきました。

 その時は、牧師先生の言葉、聖書の言葉は、何だか難しく、自分とは遠いところにあるお話のように感じられていました。

 ただ、教会の雰囲気、そこに集う人々のあたたかな笑顔に惹かれて礼拝に参加していました。何より不思議に感じられたのは、歌詞の内容もよく分からずに歌う歌が、心を満たし、毎回涙があふれてくることでした。そして、神様とは、信仰とはどういうことか知りたい、と言う気持ちをおぼろげながら持つようになりました。

 しかし、それからすぐに教会に通い始めたわけではありませんでした。その頃実家に介護の必要な父がおり、病院のことや自分の仕事のことで毎日手一杯、頭も一杯で、自分から進んで教会へ行ってみようという、気持ちになれずにいました。信仰のことは、結婚したら夫から教えてもらえるでしょう、とずっと先送りにして毎日を過ごしていました。

 それから数年が経ち、父を看取った翌年結婚しました。結婚後半年で夫が外地へ転勤となり、私も同行しました。外地での生活が落ち着いた頃、夫の母が折にふれて送ってくださる本から、聖書の言葉に触れるようになりました。その時はじめて、「神様、あなたのことを私にも教えてください」と心から願いました。それから程なく現地の日本語教会へと導かれました。

 教会に通い始めてからの日々は、今までの経験してきたことの、謎解きを受けているようでした。礼拝の中でのメッセージや家庭集会などの学びのうちに、これまで自分に起きてきたことすべてが、神様の御手の中でのことと、素直に感じられました。

 私の両親は体が弱く、入院や通院など頻繁でしたが、その度に理解のある周りの方々に恵まれ、たすけられてきました。父の介護が必要になったときには、神様は、夫となる人を与えてくださっていました。また、親の病を通じて、わがままなで自分勝手な自分に向き合うことを余儀なくされ、整えてくださっていました。

 正直に申しますと、20代前半で介護を目の前にしたときは、さまざまな葛藤がありました。親を支えていかなくてはならないプレッシャー、この先何年、何十年続くかわからない先の見えない不安。まだ自分勝手に自由に生活をしたいという、わがままな気持ち。特に、父という支えを失った母から、不安な気持ちや不満を投げかけられることで、「こんなに一生懸命やっているのに。」「私は悪くない」などと、いらだちを抱え、母の辛さを受け止めることができずに、優しくできないことに苦しみました。自分の内側には、こんなにも自分を正当化する傲慢さや、痛みに寄り添えない狭い心があることを思い知らされました。介護の日常を経験していくうちに、自分がほんとうに狭く小さな人間であるということを知らされました。

 また、抑えようのない心の苛立ちを経験する中で、自分ではそれまで社会の中で割合上手に生活してきたつもりでしたが、いかに弱い一人の人間であるのかということにも思い知らされました。そして、親の病気や死と、人生そのものと共に向き合う時間が与えられたことを通し、不平や不満の中で生きるのではなく、自分たち家族がいかに恵まれた中で過ごしてきたのかということを考えさせられました。父を看取った時には、自然と心が落ち着いていました。

 教会に通い始めてからまもなく、これらのことは全て、神様のみ手の中であったことを知るようになりました。気づかないうちに、神様のご愛によって支えられており、変えられてゆきました。そして、このような小さく弱くわがままな罪深い自分のために、イエス様が十字架にかかられたことを知りました。
また、このような恵みが、神様を知らなかったにも関わらず与えられていたことを知り、どれほどまでに一方的で深い愛の中で、自分が日々生かされているのか、ということを思い心から感謝いたしました。

このようにして、信仰を持つようになりました。


 2007年に受洗してクリスチャンとして歩み始めましたが、その中で、私たち家族にとって大きな出来事がありました。2009年に我が家に与えられた二人目の子どもが、生後三週間でこの世を去り、天国へ召されてゆきました。ほんとうにかわいい赤ちゃんでした。しかし私たち夫婦は、愛する我が子をその病の為に天国へ送らなければなりませんでした。それは辛く悲しいことでした。しかしまた、その子のいのちを受け取った時の喜び、小さな爪のひとつひとつまで丁寧に創られたその姿に神様のご愛を知り、最後は優しく抱き取って天国へと連れて行ってくださったことを思いました。傍に主が共にいてくださり、ともに歩んでくださる、それはほんとうに大きな慰めと平安でした。またどんな時にも背後で祈っていて下さる兄弟姉妹のあることを、これほどまでに強く感じたことはありませんでした。


それから暫くして、苦しみの中にいらっしゃる方にお会いしました。しかし、私はその時その方にどのように接することが相応しいのかと迷いました。大きな苦しみの前に沈んでおられるその方に、人間的に何かできるとは思えず、神様からの慰めが届いて欲しいという思いでいっぱいになりました。しかしクリスチャンではないその方に、今その話をするのは相応しくないように感じられました。

そのようなことを思いめぐらせていた時に、ある聖書の箇所に立ち止まりました
IIコリント1:3~4 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。

「自分たちが受ける慰めによって慰める」とは、自分にとってどういうことなのでしょうか。との思いが起こりました。

その時に、たまたま読んでいた本、クリスチャンの方が書いた本の中の言葉に目が留まりました。
著者は二人のお嬢さんをお持ちでしたが、下のお子さんを1歳8か月の時に亡くされています。
ある時、姉である幼いお嬢様が、亡くなった妹への思いが募り、「神様、また凉ちゃん(亡くなった妹)をくださいませ」と熱心に祈ったそうです。この時著者は、「亡くなった子どものふたたび与えられることがなくても、それに代え得べきだけの慰めを神はかならずこの子にあたえてくださるであろうということをかたく信じた」と記しています。

この記述から、私は気づかされました。

 ここに書いてはありませんが、きっと、著者は我が子の死に臨み、深い慰めを経験されたのでしょう。その中で、妹を亡くした娘の悲しみに、どんな形であれ、神が必ず慰めを与えてくださることを「かたく信じる」ことができたのではないか。ということです。
そしてまた、神様からの慰めは、親ですらその領域に立ち入ることのできない個人的なものなのだ、とも思わされました。

 その思いに至った時に、私はその方のために何かお伝えしなくてはならないのではないか、という焦る思いが、非常に傲慢な思いであるように思いました。

 また同時に、深い慰めを受けたものであるからこそ、苦しみや悲しみの淵にいる人に慰めを与えられるのは、「やはり神様だけである」という真実な思いと、必ずやその方に主が届いて下さり、必要な慰めを与えて下さるという、確かな信頼をもって祈ることが出来るのかも知れない。とも思いました。

マタイ5:4 「悲しむものは幸いです。その人たちは慰められるからです。」
という聖書のことばがあります。悲しみに出会うことは幸いとは思えず、できれば今でも避けて通りたいと思うものですが、しかしまた、その中でしか知ることのできなかった慰めがあったことも事実です。

自らの受けたこれらのことが、悲しみや苦しみの中におられる他者へのとりなしを祈るものとして用いられるのであれば、こんな幸いな歩みはありません。

 改めて、教会へ導かれる前からこれまでの歩みの背後に、どれほど多くの方の祈りがあり、その中で支えられてきたかと思います。祈りの足りなさを日々覚えるような、恥ずかしいものではありますが、少しでも周りの方の為に祈るものへと変えていただきたいと思わされます。

 信仰を得てまだ11年ほどで、知らされていないことがどれほど多くあることかと思います。また日々遣わされてゆく場所で、迷いや罪の思いに立ち止まることも多くありますが、神様から目をそらさずに日々を歩んでゆくことを願っています。

(2019年2月17日オアシス礼拝にて)

五月女紀子

証(2017年6月オアシス礼拝にて)

 私は、五月女紀子と申します。
 私が初めて聖書を手に致しましたのは、夫の転勤で青森県に住んでいた時に近所の友人のクリスチャンに誘われて宣教師宅で開かれておりました家庭集会でした。そこでは宣教師夫人がテキストを用いて、月2回5~6名の方が参加しておりました。その頃の私は聖書の話は余り良く理解出来ませんでしたが、神様の裁きの事を話されるときの宣教師夫人の美しい顔が急に恐ろしく変わり、私は裁きはとても恐ろしいものだという事だけは判りました。当時そのお宅では珍しく井戸水を使っておられ、集会の終わりに出して下さるコーヒーのおいしかったのは今でも覚えております。

 そして一年も経たないうちに夫の転勤により新潟に移る事になりました。
 新潟で2年程してから以前から入っておりました友の会という主婦の団体で月一回聖書勉強会が開かれており神様はそこに導いて下さいました。

 新潟福音キリスト教会の牧師が来て下さり、10数名が毎月聖書を学んでおりました。その中から次々に教会の礼拝に導かれる方が起こされ救われた方々の喜びにあふれた笑顔を見るにつけ、私もいつか教会の礼拝に行きたいと思うようになりました。でも夫が日曜日には家に必ずいますし私は教会にはとうてい行けないものと半ば諦めておりました。でも神様は不思議なチャンスを与えて下さいました。夫が社内のテニス大会ため、二週続けて不在の日曜日が与えられたのです。

 私は絶好のチャンスとばかり教会の礼拝に初めて恐る恐る出席することが出来ました。
礼拝のメッセージは2回共とても心に響く事ばかりで、もっと続けて出席したいと思うようになりました。
ある日の説教で聖書のヨシュア記の中でヨシュアがヨルダン河を渡るに際して、神様はヨシュアに「今いるところから一歩踏み出しなさい」との声をかけた箇所で私の心は一瞬くぎ付けになってしまいました。

 その時の私は受洗準備の学びを受けておりましたが、まだまだ私には早過ぎるのではないかとか、夫の親族、私の親族にはクリスチャンが一人もおりませんでしたし、夫が受洗を認めてくれるだろうかとか不安が一杯ありました。クリスチャンの友人達に相談いたしましたら友人達も同様な不安を持ちながらも神様を信じてその時その時に良い方法で導いて下さるので何も心配しないで受洗を受けた方が良いからと多くの友人達がその為に祈って下さり又励ましてくれました。

 そして受洗の事を夫に話すと思っていた以上簡単に、信教の自由があるからと認めてくれました。
 聖書を繰り返し繰り返し読んでいると神様の愛の深さ広さそして聖さに圧倒される思いがいたしました。救われる前の私の心は暗闇の中を歩いているようなみじめな心で一杯になっている事に気付きました。
自分中心のわがまま高慢不平不満の固りのような心を自分ではどうすることも出来なく思いわずらいの多い生き方をしてきました。でも神様はこんな欠けだらけの私を導いて下さり、イエス様が私の罪のため十字架にかかって下さり、私の罪を赦して下さった事を信じて救いの恵みに与らせて頂きました。

 ふり返ってみますと救われてからの私の心は少しづつではありますが神様によって変えられてきたと思います。
”すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 ”(マタイ11:28)
のみことば通り、背負っていた重荷は軽くなりました。どの様な時にもイエス様が共にいて下さることで安心感と平安が得られるようになりました。

 今迄、暗やみを歩いていた人生から神様によって明るい光の道を歩くことにより、いつも神様に感謝と喜びと希望をもって人生を歩むことが出来るようになりました。

 そして2000年に今から17年前に、この湘南のぞみキリスト教会に導かれました。これからも神様のご栄光を表す者として神様の恵みと憐みの中を聖書のみことばを人生の基として一歩一歩歩んでゆきたいと思っております。

最後に私の大好きなみことばを読んで終わらせて頂きます。
”しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。”(イザヤ40:31)

(2017年6月 オアシス礼拝にて)

香川温子

受洗の証(洗礼式にて)

 この度受洗を決意し、ここに至るまでの歩みを振り返ってみました。そして驚いたことは、私には幼いころからずっとキリスト教の神様と出会う環境が十分に与えられていたのだと気付かされたことです。

 例えば、幼児の頃に親から聖書の物語を読み聞かせして貰っていたこと・・小学5・6年の時に一人で近くの教会の日曜学校に通っていたこと・・それ以後は音楽、美術、文学を通してキリスト教にふれていたこと等が思い出されました。そして圧巻は、今から27年前に玉縄の地に転居してきたわが家の向かいの家が昔の“湘南のぞみ教会”だったということです。そこではウォルター先生ご夫妻から婦人会や家庭集会を通して聖書の学びをしていただきました。また同じ頃知り合った城廻の友人のお宅での家庭集会は今でも続いています。

 しかし、これほど永く関わっていたにもかかわらず、私のキリスト教に対する理解は断片的で表面的であったように思います。何か願い事がある時はお祈りし、うまくいけば、神様が私の努力に報いて下さったと感謝し、その逆の場合は「何故神は・・?」と恨み言を言っていました。それでも事が重大でなければそれで済んでいました。

 その後、私共は転勤によりしばらくこの地を離れていたこともあり、のぞみ教会とのお付き合いは途絶えていました。時は移って、今から7年ほど前に、私は個人的に大きな心配事を抱え、自分ではどうすることも出来ない窮地に立たされていました。色々思い悩んでいる時に、私の眼の中に飛び込んできたのが、以前にお世話になっていた、 あの“湘南のぞみ教会”の看板でした。長らく本郷台方面に移転していたようですが、再び玉縄に隣接する岡本に戻ってきていたのでした。何というご縁でしょうかと思いました。私は不安を抱えながらも、ここに来れば何とか解決の道が開かれるのではないかという思いで、その門を叩いてみました。今は亡き伊藤稔先生が私の悩みの一部始終を温かいまなざしで聞いて下さり、先生との聖書の学びが始まりました。学んでいくうちに、実は、私は聖書のことを何も分かっていなかったということに気付かされ、初めから学び直したいと痛切に感じるようになりました。しかし重い病を得た稔先生が、次にいらした伊東道夫先生に私の聖書の学びを託して下さり、更にその後、のぞみ教会の牧師になられた山中直義先生に引き継がれ、今日に至っております。私は、このように贅沢で恵まれた学びの機会を与えられてきました。三人の先生方による専門的で懇切丁寧な聖書の読み解きに知的好奇心を覚え、充実した学びの時を過ごさせていただきました。しかし、更に知識を増やしたいという思いが先に立ってしまい、先生方が熱心に導いて下さっていた神様の声に聞き従うという肝心なことを真に理解していなっかたようです。

 そんな“的を外した” 歩みをしていた私の目を覚ませるきっかけの一つとなったのが、2011年3月11日の東日本大震災でした。あの恐ろしい津波の光景を見て、大自然の脅威の前の人間の無力さを思い知らされた気がしました。これは豊かさ、便利さばかりを求めて来た人間の罪に対する厳しい神からの罰ではないかと私は考えて、山中先生に尋ねてみました。すると「それは因果応報ではなく、産みの前の苦しみです。苦しみの背後には神様の深い愛と恵みがあります。希望を失って諦めるのではなく、希望をもって神様に悔い改めることが大切です。」と教えて下さいましたので、心の平安を取り戻すことが出来ました。

 しかし、それと同時に、これは東北地方の人々だけの問題ではなく、実は自分の問題であるとも感じました。私は、神様のご愛を理解せず、人間的な思いでこの世の悲劇を解釈していたからです。神様のみこころに委ねて祈るということをしていなかった自分の罪に初めて気付かされ、悔い改めたいと思いました。こうしてこの日を境に私は日曜日の礼拝に導かれました。

 ここまで導かれたにもかかわらず、私はまだその先の一歩が踏み出せずにいました。いざとなると、「クリスチャンになるには聖書の理解も足りないし、悔い改めて立派な人間になる自信もまだない。」等と律法主義的な考え方をしてしまいました。しかし、次第にそのような自分にいらだちを感じるようになって来ていました。自分はいったい何をためらっているのか。今まで聖書から一体何を学んできたのかと自問する毎日でした。

 そのうち、聖書は心で読むもので、人知を超えた神の業は人間の頭では理解しきれないことだと分かりました。一番大切なことは、語りかけて下さる神様の声に耳を傾け向き合うことだったのです。神様が私たちの救いのために遣わして下さった救い主イエス・キリストの十字架と復活を信じることで、神様に日々応答していく者でありたいと思い、ようやく受洗を決意しました。本当に永い道のりでしたが、幼いころからの神様との関わりの一つ一つが全てここで繋がったように感じます。こういう心境になれたのも、祈って導いて下さった先生方、教会の信徒の皆様のお蔭と心より感謝いたします。

 受洗をするということは、一度霊的に死に、神の子として生まれ変わるということだと言います。神様に全てを委ねて歩み始めるという意味で、現在大切にしていることばは以下の聖句です。

「招かれるようなことがあって行ったなら、末席に着きなさい。誰でも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからである。」 ルカ14:10-11

 謙虚さを誇示するために身を低めるのではなく、最後まで神様のご指示を待ち望み、  神様と共に生きる喜びを感じつつ、歩んで行きたいと思います。

(2013年3月31日)


S.S(20代女性)

救いの証し(洗礼式にて)

<イエスさまを信じる前の自分>
 イエスさまを信じる前の私は、いつも周りの目や評価を気にしていました。私にとってそれは全てでした。相手によって態度や意見をころころ変え、心には不安と恐れが常に付きまといました。他人の価値を図るものさしは、内面ではなく学歴という肩書でした。生活していて何か自分にとって都合の悪いことが起こると、真っ先に他人や状況のせいにして悪口と批判と文句を言うばかりで、自分の言動を省みることをしませんでした。「私は全然何もしていないのにあの人が性格悪いから…!」といった具合です。私は「絶対的で信頼できる、頼れる何か」を探していました。また「もっと愛されたい」、「ありのままの自分を受け入れてもらいたい」と願っていました。
<どのようにイエスさまと出会ったか?>
 私はクリスチャンホーム出身ではありません。そのような私がどのようにしてイエスさまと出会ったのかをお話しします。2001年、小学校6年生のときに、中学受験をすることになって、第一志望校だったミッションスクール(バプテスト)の面接で質問されるからと、あくまで面接対策のために、「クリスマスの本当の意味」について予め答えを用意したり、イエス・キリストの生涯が漫画で描かれたものを読み込むところから、イエスさまのことを知るようになりました。

 晴れてその学校に入学し、中学・高校6年間、毎日礼拝があって、信者であろうとなかろうと強制的に学生も礼拝でメッセージを担当しなければならなくなって、聖書の授業も6年間必修…という環境が与えられました。しかし、私は当時、クリスチャンの先生方は偽善者だと思っていて、尊敬したことなどありませんでした。聖書の授業では旧新両訳ほとんど勉強しましたが、伝道師の先生から教えられる内容は専門的すぎて難しく、頭の悪い私には何も面白くありませんでした。聖書が「神のことばである」と信じることはなく、聖書は書物に過ぎないと思っていました。挙げ句の果てには聖書の授業で赤点を取って、進級が危ぶまれ、学校から呼び出されてしまったので、「聖書が大嫌い」、「聖書なんて無きゃいいのに」とその頃の私はよく友人にこぼしていました。


<どのようにイエスさまを信じたか?>
 一つ目の転機が訪れたのは2004年、中学3年生(15歳)のときです。教会に通い始めたのです。生まれて初めての教会でありながら、とても居心地が良かったのを覚えています。礼拝が終わると、魂が奥深くから満たされて、エネルギー補充されたことに気づきました。学校の聖書の授業も礼拝も嫌いだった私ですが、とにかく教会が良くて、礼拝も交わりもお祈りも全て大好きでした。

 教会に通い始めて1年も経たない頃、ある日曜日の礼拝で直球の伝道メッセージがなされました。その教会は創世記から黙示録まで、毎週一章ずつ進む説教スタイルでしたが、その日のメッセージは偶然にも、イエスさまが十字架に向かう箇所で、「ザ・伝道メッセージ」がなされました。それまでイエスさまのことを自分のこととして捉えることは一度もなかった私が、一時間のメッセージを通してじわりじわりと罪が示され、耳が痛くなりました。けれども牧師先生の話に引き込まれていく自分がいました。

私を愛してくれている人がいる。その人の名前はイエス・キリストと言うらしい。私には罪があって、それが彼を殺したらしい。そして「信じないのなら、あなたには滅びが待っています。しかし、信じ受け入れるなら、あなたの全ての罪が赦されます。永遠の命が与えられます。」との言葉が繰り返し語られ、「罪を赦してもらいたい」と思いました。メッセージが終わると、最後に牧師先生が具体的な「招き」をされました。「さあ、今キリストを主として受け入れることを決心する方は立ち上がってください」。

私は(うまく言葉で表現できませんが)、受け入れることに何の疑問も持っておらず、「ああ、信じたい」と思い、すっと立ち上がって賛美しました。その場で教会のみなさんに救いのお祈りをしていただいて、イエスさまを私の内側にお迎えしました。喜びの涙を流す兄弟姉妹がいて、「私たちの神の家族にようこそ!」と言っていただき、小さな新しいスタートを切りました。

しかし当然のごとく、だからといってしっかりした信仰生活が確立されたわけではありませんでした。毎日聖書を読んでいませんでしたし、読んでいたとしても「通読」からは程遠く、同じ箇所に留まって読んでいました。イエスさまとの個人的交わりも、状況が良いときは神に頼ることなく自分の力に頼って神無き歩みをし、「困ったときの神頼み状態」でした。私が神様のしもべなのではなく、むしろ私が神様の上に立って「神様を利用している」かのようで、そこに謙遜さ・ひれ伏して拝む姿勢は全くと言って良いほどありませんでした。

 けれども、二つ目の転機が訪れました。高校2年生(17歳)でイギリスに留学したときのことです。たった一年間の留学でしたが、そこで日本での10年分の人生経験を積むことになりました。未だかつてないほどの挫折。苦しみ。悲しみ。不条理への怒りを感じる出来事に多々遭遇しました。周りは敵だらけで、私のことを信頼してくれる人もなく、先の見えない暗闇の中、神様だけが共にいてくださいました。毎日聖書に必死にすがりつき、みことばと格闘しました。「くるしくて、神様の臨在が感じられない日々を送っています。どうか祈ってください!」とEメールで日本にいる牧師先生にお願いしたりしました。

 ある日曜日、教会での賛美で、
「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。』」
と、イザヤ書6章8節からとった賛美を歌っているとき、神様が目的を持って私を遠くイギリスまで遣わされたこと、神様が必死に私を支えてくださっていること、神様が私を必死で導いておられること…などが分かり、これまでの「状況が良いときは賛美し喜び、感謝をささげ、状況が悪くなると神様に疑問と怒りをぶつけ、信仰が弱まる」という自分の態度を改めて、今度は「どんなときでも主についていく者」になろうと決めました。「嵐の中で主を賛美すること」を経験させていただいたのです。

死の谷を歩くことがあっても、与えられた試練の中で成長させていただけるのだから感謝しよう、渦中のなかでこそ主を賛美しようと示されました。自分が何も持たず本当に空っぽになって、裸になって神様しかいなくなったとき、本当に自分の罪と主の愛の大きさが理解できるようになったのです。今でもイザヤ書6章8節とこの賛美は私にとって意味深いものとなっています。この「二度目の従います宣言」は私の信仰の原点です。

 また、イギリスの高校は日本でいうところの大学のような場所で、自分で勉強する科目や先生を選んで時間割をつくるのですが、私は「宗教学」の授業を専攻し、プロテスタント信仰を持つ先生の下について「キリスト教学」を学びました。履修生徒は熱心なクリスチャン、サンデークリスチャン、キリスト教が嫌いな人、無宗教の人など様々でした。授業の中心は議論することそのものなので、週2回の授業の準備のために常に文献をあさる毎日でした。議論に参加しないと、たとえ授業に出席していたとしても、私は存在していないも同然と考えられてしまうので、なんとか背景知識や意見を持てるように「神様」をもっと知る努力をしました。


 授業だけでなく、毎週宿題として課される論文のテーマはどれも深い内容で、「そんなこと考えたことなかった!」とか、「17歳にそんな難しいこと分かるわけがないじゃん!」と反応してしまうようなものばかりでした。たとえば、

『ペンテコステ派やカリスマ派は、現代的で明るくポップな音楽を使って、手を上げて体全体で自由に賛美する。このような賛美スタイルは神に完全に心を向けるというよりはむしろ、自分が楽しく気持ちよくなるだけではないか。まずこの意見の問題点を指摘してから、あなたの考えを述べなさい。その際、賛美の本質やキリスト教界の賛美スタイルの多様性について必ず言及すること。』

のような問いが与えられました。日本の学校の聖書の授業はただ知識をインプットして、それを試験でアウトプットするだけだったので面白くありませんでしたが、イギリスの授業でこの「神」という存在について、「あなたの意見はなんですか」と問われ迫られて、「あれ、私はどう思ってるんだろう」と考えるようになって、より神様と個人的な関係になることができました。一年間のこの学びもまた、私を神様のもとへと近づける大いなる助けとなったのです。

<信じたあとの自分>
 イエスさまを信じたあとの生活ですが、2008年に大学に入学してから、親の反対があり2011年10月まで教会に通えていませんでした。なぜ教会に戻って来られたかというと、兄がカトリック信者の女性と結婚をしたことで、神様が両親のかたくなな心をほぐして下さったからです。

 教会から離れている間も、平日礼拝や土曜日の礼拝に参加したり、インターネットで一週遅れでメッセージを聞いたりしていましたが、やはり安息日である日曜日の礼拝に、このからだを献げに行きたいと願い続けて葛藤していました。日曜日の朝は心が痛み、泣いて目覚めることも多かったです。「神様、ごめんね。行きたいんだけど行けないの。本当につらいよ…。」と神様に話しかけていました。

 しかし、憐れみ深い神様は、私に逃れの道もお与えになりました。教会に通えていない間、大学生対象のキリスト教伝道団体である、キリスト者学生会(通称KGK)で交わりが与えられ、弟子訓練を受ける恵みにあずかりました。しかし何よりも恵みだったのは、多くの兄弟姉妹のとりなしの祈りに支えられたので、私の信仰の火が消えずに済んだということです。ハレルヤ、私は主をたたえます。

 イエスさまを信じ受け入れたとき、私は15歳でした。そして今、22歳です。神様の不思議な導きと摂理によって、クリスチャンになった7年後に受洗の恵みにあずかります。今日の日まで長い道のりでしたが、全てをご存じの神様が選ばれたこの日は、時にかなって美しく、天の下で定められた最善の時であることを思わされます。ハレルヤ、主を賛美します。

最後に、一か所、聖書を分かち合わせていただきたいと思います。


詩篇116
私は主を愛する。
主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。
主は、私に耳を傾けられるので、
私は生きるかぎり主を呼び求めよう。
死の綱が私を取り巻き、
よみの恐怖が私を襲い、
私は苦しみと悲しみの中にあった。
そのとき、私は主の御名を呼び求めた。
「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

主は情け深く、正しい。
まことに、私たちの神はあわれみ深い。
主はわきまえのない者を守られる。
私がおとしめられたとき、私をお救いになった。
私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。
主はおまえに、良くしてくださったからだ。

まことに、あなたは私のたましいを死から、
私の目を涙から、
私の足をつまずきから、救い出されました。

私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。
「私は大いに悩んだ」と言ったときも、
私は信じた。
私はあわてて
「すべての人は偽りを言う者だ」と言った。
主が、ことごとく私に
良くしてくださったことについて、
私は主に何をお返ししようか。
私は救いの杯をかかげ、
主の御名を呼び求めよう。
私は、自分の誓いを主に果たそう。
ああ、御民すべてのいる所で。
主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。
私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。
あなたは私のかせを解かれました。
私はあなたに感謝のいけにえをささげ、
主の御名を呼び求めます。

私は自分の誓いを主に果たそう。
ああ、御民すべてのいる所で。
主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。
ハレルヤ。

(2012年4月1日洗礼式にて)

中西英三郎(会社員)

イースター記念礼拝 あかし

 おはようございます。中西英三郎と申します。愛する家族を天に送った時のことを皆様と神様の前でお話しできることを感謝いたします。

 私たち夫婦には5歳になる長男がおりますが、2年半前の2009年9月11日に次男が与えられました。艱難辛苦によく練られ神様によって練成されたものになってほしいとの思いから「練」という名前を準備していましたが、出産時に脳内出血をおこしたため、長くは生きられない、万一生きたとしても重度の障害が残ることが判明し、その名の通りいきなり大きな試練に直面することとなりました。

 皆さんの祈りに支えられ、また、夫婦ともに信仰を持っておりすべて神様の手の内にあると信じておりましたので幸いなことに平安な気持ちではおりましたが、神様はいったいどのような計画があってこの試練を私たち家族に与えたのか思い悩み、聖書を読んでおりました。

 聖書の中の人物で、家族を失ったものと言われてまず頭に浮かぶのはヨブではないでしょうか。ヨブは息子娘たちと家畜を失っても、神様に愚痴をこぼさずこう言いました。


“私は裸で母の胎から出てきた。また、裸で私はかしこに帰ろう。
 主は与え主は取られる。主の御名はほむべきかな。“


 大変すばらしい告白ではありますが、残念ながら、この後ヨブは自分の生まれた日を呪い、神よりも自分が正しいと主張し、せっかくの告白は台無しになってしまいました。

 「神様は私たち家族に何をされようとしているのか」と思いつつ会社、自宅と病院を行き来する日々の中で、一つの聖書の言葉が私の心をうちました。ヤコブの手紙4章13節から15節を読みますのでお聞きください。


“聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。
 あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。
 むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」“


 このみ言葉を読んだとき、私は二つの誤りを犯していることに気付かされました。
 一つは、傲慢にも、自分が生きていることを当然と考えていたことです。今病院にいる練の命だけではなく、自分の命も神様の手の内にあり、明日、私が先に息絶えていたとしてもおかしくはありません。これまでも、神様から生かされていると信じて日々感謝してはいましたが、今にも消えそうな命に毎日触れることにより、どの命もすべて等しく日ごとに神様から与えられていることを痛切に感じました。
 二つ目は、自分を神よりも正しいとしたヨブと同じように、自分の計画を神様よりも優先し、正しいとどこかで考えていたことです。

 そもそも、私は突発的な行動も好みはしますが、どちらかというと計画的に物事を進めることを好むタチです。先のことを考え、計画を立て、順序良くこなしていって物事を完結させたときに喜びを感じます。仕事や用事をこなすには結構な性質かもしれませんが、日々の歩みも、同じように自分の力をのみより頼んではいなかっただろうか、と考えました。

 神様の計画は私たちにはわかりません。練の事を通じて神様がなにをされようとしているのか思いめぐらすことは、私の人間的な考え、計画と比較しようとしていたからに他ならないことに気付いたのです。

 今回のことだけではなく、日々の生活を送るうえで、神様に徹底的にゆだねることが出来ていませんでした。もちろん、無計画に生きるという意味ではなく、先ほどの聖書の言葉に「みこころなら生きていて」とあるように、神様のご計画がまず最初にあって、自分のやるべきことを行いなさいと教えられたのです。

 自分を正しいとするヨブにたいして、神様は人の無知と無力を示し、そのうえで、「天の下にあるものはみな、わたしのものだ」とおっしゃいました。すべてを支配する神様が私たち家族と練を愛してくださっているのですから、神様が何をなさろうか知る必要も、心配する必要もありません。

その後、練の症状が多少改善した日もありましたが、3週間後の9月29日に天に召されました。

 それから我が家の朝の祈りは少々変わり、最初に、その朝を迎えられたことを感謝するようになりました。神様によって与えられたこの日を、神様の証をするものとして御心に沿って歩むことが出来るよう、まず祈ります。何しろ忘れやすい人間ですから、できるできないは別として、一日の初めにこう祈り自分への戒めとしています。

 最後に、私たちには神様のご計画はわかりませんが、わからない分だけ、ご計画がなされた時の喜びも大きいと知った時のことをお話しします。私の妻の母は以前カトリックの信者でしたが、数十年にわたり教会から離れていました。練の告別式の後しばらくしてから母はプロテスタントの教会に通いはじめ、そののち改めて信仰告白をしてその教会員になり、今は喜びの日を過ごしています。

 神様がこれから私たちに何をしてくださるのか楽しみにまちつつ、日々与えられた務めを果たしていきたいと願っています。


以上
(2012年4月8日)

S.O(40代女性)

私が神様を信じて生きるようになったわけ

 特別に自己中心で,自分ではどうすることも出来ない心の中の罪を抱えているこの私が,神様の計画や,イエス様の死と復活という事実によって解決が与えられ,神様との和解が与えられたということは,驚きでしかありません。心の中の醜さを知るにつけ,神様に「ごめんなさい…そして救いを与えてくださったこと,本当にありがとうございます。」と言わずにはいられない気持ちです。

 私が聖書や教会に出会ったのは小学校3年生の秋でした。幼なじみの友人と2人で自宅前で遊んでいると,笑顔の女性たちから教会のチラシを渡され,「お母さんに渡してね。教会には子どもの教会学校というのもあるのよ。」と言われました。その言葉になんとなく「何かあるかも。」と思い,チラシの地図を頼りに教会を探し,教会学校に通い始めたのです。母が結婚前に教会でオルガニストをしていたことや,当時すでに亡くなっていた母方曾祖父が聖公会教会の牧師をしていて,ハンセン氏病の方の中で伝道をしていたことなどを漠然と聞いていたので,「教会」という響きになんとなく憧れがあったのかもしれません。ただ母は,キリスト教を信じていない父との結婚後,教会生活から離れてしまっていました。

 私が教会学校に初めて通い出したときの感想は,教会学校の先生(今から思えば信徒の方々が先生をしてくださっていたのだと思いますが)や教会の人たちの笑顔が素敵だった,ということです。当時の私は人生経験の浅い小学生ではありましたが,「うん!この人たちの笑顔は本物だぞ。裏がない。なんでだろう…」と感動しました。

 運動神経がない私は,当時,ドッチボールが苦手で,私が入ることになったチームのメンバーに「お前なんかいらないのに…」というげんなりしたまなざしを向けられることもしばしばでした。そのような小学校生活を苦痛に感じていたので,教会の暖かい雰囲気が魅力でした。
また,我が家では,専制君主のような父が,「この世の中の女はすべて馬鹿だ」と豪語し,私の母に対しては,「妻なんてものは女中かそれ以下でいい。人間以下だ。」という姿勢でした。その点だけでも,「教会の人たちの雰囲気の方がいい。教会はなんか違うぞ。」と思ってしまったのです。

 そして教会学校に通うようになりました。しかし聖書のことを全く知らない私は,教会堂に貼ってあった「全世界に出て行き,すべての造られた者に,福音を述べ伝えなさい。マルコ16章15節」という大きな壁紙を見ては,当時テレビマンガでやっていた「母をたずねて三千里」の主人公のマルコが言った言葉なのかな?でも教会学校の先生には聞きづらいな…などと考える,ピントのはずれた子でした。

 ただ,教会学校の先生が両手を示しながら,「イエス・キリストは,ここ,ここに釘を打たれて血を流して死なれたのよ。それはあなたのためなのよ。」と,涙でぐちょぐちょになりながら,話していらっしゃる姿を見ると,「この人格的にすばらしい,優しい先生がここまで真剣に話していることだから,真実に違いない。」と感じるようになりました。そして,教会学校で,「聖書を一日一章ずつ読みましょう」と促され,内容もわからないまま,せっせと聖書を読み進んでいました。

当時,何かの拍子ですぐに母のことを怒鳴っていた父でしたが,その怒鳴り声を聞くと,臆病だった私はがたがた震えて自室で一人で泣いていました。そして詳しい内容も知らないまま,好きだった「ルカの福音書6章21節 いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。」という箇所にしがみついて,勝手にセンチメンタルな気持ちになっていました。また,父から「大したこともしていないのに。金だけを取る医者と坊主は大嫌いだ。牧師なんて坊主と同じだ。」と言われたときにも,迫害されたキリスト者の気分になって,泣きながら先ほどの箇所を読んだりしていました。

 中学に入り,思春期にはだれでもぶつかる問題である,「自分は何者か。人間の原罪とは何か。」という問題にぶつかりました。自分が人より劣っていること,優しくできないこと,どうあがいてもずるい心で自分のことばかり考えてしまうことが,原罪と結びついており,もはや,自分の力ではどうすることできないことだと思わされたときには,愕然としました。罪にがんじがらめになっている自分にほとほと嫌になり,どこかに消え入りたいような気持ちにおそわれることもありました。
 そんなとき,聖書の,「もし,私たちが自分の罪を言い表すなら,神は真実で正しい方ですから,その罪を赦し,すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」という言葉に出会いました。神様の前に言い表すだけできよめてくださるなんて…つまり,「私はこんなに汚い心を持っているんです。神様のことを神ともせず,すべて自分中心の考えで行動してきたのです。ごめんなさい。」と告白し,お祈りするだけで許してくださるなんて…そんなんでいいのかな,とも思いました。「まずは祈ってみることだよ。」との助言を得て,告白のお祈りをすると,どこからともなく涙が出て止まらなくなりました。そして,お祈りを終えるとほっとしたというか,平安な気持ちにさせられたのを覚えています。

高校生になると,生物の授業などで,この世の生きとし生けるものがもののみごとに整然と生態系の中で生きており,人間の細胞や遺伝子,葉っぱの一枚一枚の細胞や呼吸の様子等を学習しました。そういった知識に触れるたび,「この世には何か必然というものがある,この世には何らかの秩序がある,偶然と偶然の重なり合いだけではここまで巧妙,精巧,精密には出来ないはずだ…だから絶対者なるものは,必ずや存在する…」と思うようになってきました。
当時の私は,決して品行方正な高校生ではありませんでした。ディスコにも行くような生活をしていた私でしたが,一方で,「あ,私が漠然と思っていた絶対者って,あの,聖書の神様じゃないか。」と思わされる瞬間がありました。

さらに,聖書の特異性について,客観的視点からも改めて心動かされました。多くの筆者たちが,数千年の期間に,違う場所で書いた書物の集まりなのに,すべての文書が唯一絶対の神を焦点に据えて書いてあり,不思議です。まさに人間わざではありません。そして,その後,世の中の歴史が変わろうとも,聖書はベストセラーとして読まれ続けているのです。しかも聖書の中心である「イエス・キリストの死と復活と人間の救い」というメッセージは,イエス・キリスト実在した,という歴史的事実が裏付けとなっていることが,注目に値すると思いました。イエス様は,キリスト教文学以外の歴史書や高校の世界史の教科書にも載っています。そのイエス様について,旧約聖書では預言がなされ,その後イエス様と生活を共にした弟子達が命をかけてその教えと復活の事実を伝えたのが新約聖書なのです。

それに大切なプラスアルファとして,私は,お祈りをするといろんなかたちで神様が答えてくださることを体験していました。例えば,中学時代の罪の告白の祈りには,心の平安というかたちで赦しを明らかに示してくださいました。そして,天国に行くことができるメッセージも聖書から与えられおり,高校生の私はすでに死の恐怖を感じなくても済むようになっていました。また,そのほかの祈りに対しても,神様は具体的に答えてくださり,私のことを励まし,強めてくださっている,との確信と経験の蓄積がありました。
絶対者捜しに躍起になっていた私に,神様は後ろから,「こっちだよ。私だよ。こちらを振り向きなさい。」と言われたような感じでした。

当時,キリスト教主義の学校に通っていた私は,毎年クリスマス礼拝のときに,「今年洗礼を受けた人」が壇上で革製の聖書をもらうことになっていたのですが,自分としては,「きっと洗礼を受ける人というのは,ひと皮むけた人なんだろうな。」と思って,憧れだけが募っていました。

一方,「振り向きなさい。」と言われた神様のスケールの大きさの前にして,ただただ,「神様,罪を許してください。ごめんなさい。救ってください。ああ…ありがとうございます。」と言うのが精一杯な自分がいました。そして,「神様は,全歴史を通じて,この自己中心の罪だらけの私を救おうとご計画くださったんだ。」と思うと,神様にすがらざるを得なくなりました。「これは,もう聖書の神様を信じるしかない!!」と思い,自分はひと皮むけた人物かどうかわからないけれど,とにかく洗礼を受けよう,と決断をしました。

洗礼後しばらく経った大学生時代には,不注意による交通事故を経験しました。全て自分で何でもできると有頂天になっていたときに,あごの骨を折って数十日間入院生活をすることになりましたが,その病室では,聖書を読みながら神様から静かに「あなたは何を基準に生きているのか。何を優先して生きていくのか。自分の力でなんでもできると誤解していないか。」と語りかけられている気がして,生活の見直しを迫られました。

その後も神様はこの罪の性質を引きずっている私に対し,何度も「あなたは私が憐れんで赦したのではないか。それは私があなたを大切だと思ったからだ。あなたの能力ではなく,ただただ,あなた自身を大切だと思ったのだ。救われたときのことを思い,神のもとでリセットしなさい。」と声をかけてくださいました。また,○○ということが上手くいきますように,と祈ろうと思った矢先,いざお祈りを始めると,「あ,全ての主権者は神様だ。」と当然のことを気づかされることもしばしばです。そして,改めて「この道は進むべき道でしょうか。神様はどのようなことをのぞんでおられるのか,私にもわかるように教えてください。」と祈らざるを得ないことも多くあり,そのたびに神様から直接教え諭されています。

このことについては,最近次のような文に出会い,神様が聖書を与えてくださっていることについて,改めて考えさせられました。
…神が私に何かを示し,私たちがそれに従うことを望むとき,たしかに神様はいろんな方法を用いられるが,やはり何よりも聖書の言葉によって確信を得させてくださることを期待すべきではないか…との文です。
この文の筆者は,自分の置かれた環境やタイミング,家族や教会の牧師,牧師以外の教会の人の言葉なども,神様が示しておられることを判断する助けと備えにはなるが,神様は事が大事であればあるほど,神様ご自身の生けるみことばによって鈍い心の者でも間違わないように示してくださるのではないか,というのです。環境やタイミングのみに頼るとき,自分勝手な的の外れた思い込みで進んでしまうことを警戒しなければならない,というのです。

 私は現在家庭裁判所で働いています。家庭という場は,いい意味でも悪い意味でも裸の自分をさらけだします。だから罪と愛情の宝庫です。
大人になった今,自分の育った家庭を思うに,父は高度経済成長期に商社で猛烈に働いて,神を知らなかったために,自分の内面の弱さを委ねる場がなかったのではないか,と思えるようになりました。父は「女は馬鹿だ。つべこべ言うな。」と怒鳴ることで,やっとのことで自分を保とうとしていたのかと思うときがあります。神という揺るがない絶対者を認めなかった場合,人間は多罰的になります。また,愛情も表面的で一過性のものとなることが多い気がします。人間の裸になる場面(家庭)での紛争に,神様の愛を知っている者として関わらせてくださいと思い,祈りつつ職探しをし,家庭裁判所で働く道が開かれ,現在までやっております。
仕事柄,家庭内や人間関係のトラブルが,まさに人の生き死にを左右する場面にも多く出会いました。でも神様の視点に立てば,全てのトラブルは,「神から離れて刹那的な利害に翻弄されている罪の姿」に端を発しているような気がします。

我が身を振り返ると,日常生活の些末な出来事にイライラしてしまい,神様が自分を愛してくださっているようには家族を愛せない現実があり,愕然とし,うなだれています。

聖書は,神様はこの世界をつくり,完全で,罪を嫌われる聖い唯一の神だといっています。と同時に,罪ある人間をどうにかして救おうと,イエス様の十字架での死を通して,特別な愛を人間に注ぐ,との約束もしてくださっています。

人間は,その愛にすがり,「神よ,がんじがらめの罪から救ってください。本来なら私が受けなければならない罰を,罪なきイエス・キリストが私の罪を一身に背負って辛く苦しい死を担ってくださりありがとうございます。」と額ずいて受け取ることだけでよいのです。
そして,その神を信じると宣言して生活している者に対しては,このような神様のことを伝えていく使命を託している,ともいっています。
そのため,聖書には,「だれでもキリストのうちにあるなら,その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って,見よ,すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5章17節)と書いてあり,古い自分が新しくされることについて示されています。

我が家には4人の子どもが与えられています。子どもが小さいときは,家事に忙しい時間に2人以上の子が同時に泣き叫んだり,かんしゃくをおこしたりすると「あー!神様,私には力も忍耐もなく,子育てなんてできません!」とつぶやくこともしばしばでした。しかし神様の「おまえに育てる力がないことなど,十分にわかっている。命を与えたのはわたしだ。わたしが育み,そだてるのだ。」というご意志にはたと気づかされます。私の思いを超えた子どもの性格,行動に教えられつつ,共に神の前に成長させていただくことを期待して,日々歩んでおります。

以上

R.O(中学3年生)

僕が神様を信じるようになったわけ

僕はクリスチャンホームに生まれ,お母さんのおなかの中にいるときから教会に毎週通っていて,日曜日は教会に行くことがあたり前になっていました。
僕は小さい頃から教会学校に行っていてイエス様は十字架にかかってくださり,それは私達の罪のためだ,ということは大体分かっているつもりでした。

でも,それは自分の中では他人事だったり自分個人のこととしては,正直分かっていませんでした。
 そういうこともあって,僕は親や友達に対して平気でうそをついていたり,兄弟に対しても,すぐけんかして暴力をふるったりしていました。その後,考えると,自分でも,今やったことは罪だなぁと思い,祈り,謝ることはできました。でも,本当に悔い改めることはできず,神様が罪を犯さない人間として変えてくれればいいのに,と思っていました。

 でも,キャンプに行ったり,メッセージを聞いていて,神様はイエス様の十字架を通して僕自身の罪を許してくださるということが分かり,救ってくださる恵みを,感謝することが出来ました。

 また,僕は中学でサッカー部に入りました。そのころは,家に帰っても,疲れてデボーションをしないで眠ってしまうことが多くなりました。そして,自分の心が神様に向かなくなってしまいました。そして,だんだんと荒れていきました。でも,日曜日になりメッセージを聞いたり,お祈りをしたりすると,心が落ち着いてきて,デボーションが大切だということも分かり,少しずつデボーションをすることが出来るようになりました。

 また中学に入り,友達関係や部活などで,教会を第一にできないときがありました。
 一番自分の中での試練だと思ったのは,中2の文化祭でした。文化祭は土,日とあり,日曜日と重なっていました。自分の中では早天礼拝にしようかなぁと思いその試練とは向き合わないで,一番自分の中で文化祭も,最初から行けるし,礼拝も守れるから良いかなと思っていました。でも,山中先生に相談したら,とにかく神様の前で祈って考えるように言われました。自分が適当に考えていたのは間違いで,神様に祈ってしっかり試練に向き合わなければ行けないという事が分かり,祈って,教会に行くことが出来ました。また,そのようにさせてくださった神様の助けに感謝しています。また,僕はこれからもっと多くの試練にぶつかると思うけど,無力な自分ではなく神様のみを信頼して祈っていこうと思います。

ヨハネの福音書1章12節
「しかし,この方を受け入れた人々,すなわち,その名を信じた人々には,神の子どもとされる特権をお与えになった。」

この箇所で,神様を信じることで神の子どもとなることを教えられました。その最高の喜びと恵みを感謝します。
 これからも,もっと聖書を読んで神様を知り,神様と一緒に歩んでいきたいです。


以上

中西さおり(主婦)

神様と共に歩む幸い


中西さおりと申します。私は、2007年の12月に洗礼を受けました。クリスチャンとしてとても短い歩みですので、信仰を持つようになったきっかけから、今日までの歩みをお話したいと思います。

私が教会へ行くようになったきっかけは、夫の家庭がクリスチャンだったことです。結婚の前から、彼の実家を訪れた時には、日曜日に教会へついていくようになりました。その頃、私は神奈川に住んでおり、夫は福岡におりましたので、行き来する場合には週末になりました。夫から直接、「日曜日に教会へ行きましょう。」と誘われたことは一度もありませんでした。お母さん、同居のお兄さんやその子どもたちも含め、家族で「日曜日は教会に行く」というのが当たり前のことだったので、ごく自然に教会についていきました。

その時は、牧師先生の言葉、聖書の言葉は、何だか難しく、自分とは遠いところにあるお話のように感じられていました。
ですが、教会の雰囲気、そこに集う人々のあたたかな笑顔に惹かれて礼拝に参加していました。何より不思議に感じられたのは、歌詞の内容もよく分からずに歌う歌が、私の心を満たし、毎回涙があふれてくることでした。そして、神様とは、信仰とはどういうことか知りたい、と言う気持ちをおぼろげながら持つようになりました。
しかし、それからすぐに教会に通い始めたわけではありません。その頃の私は実家に介護の必要な父がおりまして、親の病院のことや自分の仕事のことで毎日が手一杯で、自宅へ帰ってきてからも日曜日に教会へ行ってみようという、気持ちの余裕は持てずにいました。信仰のことは、結婚したら夫から教えてもらえるでしょう、とずっと先送りにして毎日を過ごしていました。

それから数年が経ち、父を看取り、結婚しました。結婚後半年で夫が外地へ転勤となり、私も同行いたしました。外地での生活が落ち着いてみますと、夫の母が折にふれて送ってくださる本から、聖書の言葉に触れるようになりました。そしてその時はじめて、「神様、あなたのことを私にも教えてください」と心から願いました。それから程なくシンガポール国際日本語教会へと導かれました。
教会に通い始めてからの日々は、今までの私の経験してきたことの、謎解きを受けているかのようでした。礼拝の中でのメッセージや家庭集会などの学びのうちに、これまで自分に起きてきたことすべてが、神様の御手の中でのことと、素直に感じられたのです。

と、申しますのも、私の両親は体が弱く、いろいろなことがありましたが、その度に親戚、友人知人、同僚に恵まれ、たすけられてきました。父の介護が必要になったときには、神様は、夫となる人を与え、更に力強く励ましてくださっていたのです。そして、親の病気を通じて、わがままなで自分勝手な私をやさしく鍛えてくださっていたことに気づかされました。

正直に申しますと、20代前半で介護を目の前にしたときは、さまざまな葛藤がありました。親を支えていかなくてはならないプレッシャーや、この先何年、何十年続くかわからない先の見えない不安もありました。まだ自分勝手に自由に生活をしたいという、わがままな気持ちもありました。私に不安や不満を投げかけてくる母に、「私だってこんなに一生懸命やっているのに。」と、イライラとして母の辛さを受け止めることができずに、なかなか優しくできない時期もありました。
しかし、日常の一つ一つのことを経験していくうちに、自分がほんとうに狭い小さな人間であるということを知りました。また、自分ではそれまで社会の中で上手に生活してきたつもりでしたが、それが安定した生活の中においてのことであり、その環境が崩れたときには、いかに弱い一人の人間であるのかということに気づかされる毎日でした。そして、親の病気や死と、人生そのものと共に向き合う時間が与えられたことを通し、自分たち家族がいかに恵まれた中で過ごしてきたのかということを考えさせられました。父を看取った時には「自分にはほんとうに必要な経験であった」と自然と心が落ち着いていたことを思い出します。

教会に通い始めてからまもなく、これらのことは全て、神様の導きであったことを知るようになりました。自分自身が気づかないうちに、神様の愛によって支えられ、変えられていたのです。そして、このような弱くてわがままな罪深い自分のために、イエス様が十字架にかかられたことを知りました。
また、このような恵みが、私が神様を知らなかったにも関わらず与えられていたことを知り、どれほどまでに一方的で深い神の愛の中で、自分が日々生かされているのか、ということを覚え心から感謝いたしました。

このようにして私は神様の愛を知り、信仰を持つようになりました。


さて、クリスチャンとして歩み始めた私ですが、その後何もかもが順調に運ぶような、魔法の様な体験をしたわけでは、、、ありません。当然ですが、生きてゆくうちにおいては、小さなことも含め、実に様々なことが起きてまいります。

そのなかでも昨年の秋、私たち家族にとって、大きな出来事がありました。我が家に与えられた二人目の子どもが、生後3週間という短さで、この世を去り、天国に召されてしまいました。
赤ちゃんは臨月まで、何の問題も無くお腹で順調に育っていました。生まれる3日前の診察では、「推定体重も2000グラムを越えたし、もういつ生まれてきてもいいですよ」と聞かされていました。
しかし、出産直前に突然胎盤が剥がれるという事故が起こり、重篤な仮死状態で生まれました。胎盤というのは、胎内で赤ちゃんに栄養と酸素を供給しているものです。胎内で赤ちゃんに酸素がいかなくなってしまったので、脳に重い障害を負いました。検査の結果、脳の自発呼吸を司る部分がダメージを受けてしまったので人工呼吸器は外せず、自宅に帰れる見込みはないということが分かりました。
病状の説明を受けてから、赤ちゃんに面会に行きました。説明を受けているときは、辛くて涙が止まりませんでしたが、集中治療室のベッドでスヤスヤと眠っている子どもを目にした途端、今度は可愛くて涙が止まらなくなりました。

保育器にも入る必要は無く、自由にさわったり、抱っこしたりすることができました。ほんとうに、ただ愛おしく、目の前の小さな命に感動し、生まれてきてくれたことをありがとう!と心から伝えました。夫もいつまででも抱っこしていたいようでした。
私たち家族に与えられた時間はたったの3週間でしたが、一日一日を大切に過ごしました。夫も出産休暇と年休と夏休みの残りをフル活用して会社を休み続け、できるだけ病院で過ごしました。赤ちゃんもとてもがんばってミルクもきちんと消化できるようになっていきました。ですが脳の大半に障害を負ってしまっていたので、呼吸は徐々に失われていき、最後は抱っこされたまま気持ち良さそうに息を引き取りました。

クリスチャンになる前と後で、私には「命」と真正面から向き合う機会が2度与えられました。この中で、私は自分が大きく変えられていることに気づかされました。

先ほどお話しましたが、父の命と向き合っていたとき、私の心は辛く、先の全く見えない将来に不安を抱き、状況を憂いていました。そして弱い母に優しくできず、自分の我侭に心が塞がれていました。しかしその中で、神様は助けを与え続け、私を変え続けてくださいました。

そして、我が子の小さな命と向き合った中で、驚くことが起こりました。
「この命が与えられたことは、ほんとうに恵みです」と何の迷いも無く、言い切っている自分が居たのです。このような状況において、人前に取り繕ったり、振舞ったりすることはできませんでした。しかし、絶望はありませんでした。その小さな命が、神様によってどれほど愛されて創られたものであるか知ったとき、その命にただ喜び、その恵みに感謝し、心が平安で満たされました。今でも不思議に平安と喜びに満たされています。このことは、自らの努力や鍛錬で得られるようものではなく、神様からの一方的な恵みによって与えられ、支えられたものであったと思うのです。

このことを通して、信仰を持って生きることは、単なる人間的な目先の幸福を得るためではない。神様を知り一緒に歩いていくことそのものが、幸いであるということを、知らされました。神様と一緒に長い道のりを歩いていく中で、自分自身の努力や熱心さでは不可能な変革を、神様は与え続けてくださいます。日々受けている恵みを知らされ、たとえどのような状況においても、希望が与えられると、聖書は伝えています。

最後にひとつ聖書の言葉を記します。

 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。
 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。 - 箴言3章6節 -


一人でも多くの方が、希望を与えてくださる神様と共に、真っ直ぐに、歩いてゆくことができますように、心から祈ります。

以上
(2010年6月13日)



岡本英次(会社員)

プレゼント

 「岡本英次と申します。50歳、会社員をしております。」これからわたしが神様を信じるに至った経緯についてお話しさせていただきます。
 私が教会に通い始めたのは1990年のことでした。しかし、それは当時宣教師であり牧師であったバークマン先生の英語バイブルクラスに参加して英語を学ぶためでした。そのころの私はほとんど聖書に興味がなかったので天地創造から始まる内容がとても信じられず、最初の6ヶ月くらいは、クリスチャンの人はよくこんなことを信じているなと思っていました。しかもバークマン先生は福音を伝えに、アメリカから日本にそれも家族で来ていることが、さらに信じがたいことでした。しかし私の礼儀のない挑戦的な質問にも落ち着いて、しかも丁寧に応えてくださるバークマン先生に「やめます。」といえずになぜか毎週のように通いました。今振り返ると無理して時間を作って通ったのではなく、なぜか行ける状態が用意されていました。
そして半年くらいたつと、不思議に聖書の内容に惹かれるようになりました。それはこれまでの自分の考えと全く異なっていたからで、驚いたことに聖書を自分から少しずつ読むようになりました。そして思ったことは、バークマン先生の信じていることが本当で、私がそれまで信じていたことは本当ではないのではないかということです。
教えられたのは、唯一の神が全てのことを計画的に進められ、その計画の中で私たちは生きていると言うことです。そして年に一度の初詣ではなく、週に一度教会に行けばいいのでもなく、毎日、一分一秒を神とともに神を身近に感じながら歩むことが大切だと教えられました。それまで、困った時の神頼みでしかなかった私にとって、「これは大変な宗教だ。」とその徹底ぶりにびっくりしたことを覚えています。
そのころの私は、自分の考え方や人との接し方に行き詰まりを覚えていました。そんな自分にとって聖書の教えは必要なのかもしれないと思いました。

さて私は九州は佐賀県の当時は七山村という小さい村に生まれ、両親と兄の4人家族でした。たいへん貧乏でしたが真面目に働く両親のもと、自分自身は何も不自由することなく育てられました。しかし小さい頃から自己中心的な性格で、しかも強いものには様子見し、自分よりも弱いものには高圧的に接するというやっかいな存在でした。他の人の立場に立って考えることができず、自分が常に正しいと心から思っていましたし、意見が合わない人に対しては徹底的に非難するという醜いものでした。またこんな私を可愛がってくださる先生や周りの人もいましたが、人には厳しく自分には甘いという無責任な面が出て、信頼に対して仇で返す結果になったことも何度もありました。
幼稚園の時に友人を巻き込んで、火遊びから隣の家の納屋を焼き、小学校では成績はまあまあなのを鼻にかけ、先生の言葉の上げ足をとって授業を台無しにする問題児とよばれました。町の高校に進学後、友人がなかなかできなかったこともあり、人に迎合する性格が強くなりました。また大学からは横浜に出てきましたが、受験に没頭した反動で大学入学以降はきわめて無気力な毎日を送り、何のために生きているのかもよくわかりませんでしたし、考えること自体も面倒になってしまいました。「楽しければいいや。」といった安易な考えで、周りに迷惑をかけながら、いたずらに時を過ごしていました。
会社に入ってからも、自分のためになる楽しいことだけを、優先するような極めて扱いの難しい社員でした。特に自分よりも若い人へは高圧的で、しかも自分を弁護するため意識せず二枚舌を使ってしまうこともよくあり信用を無くしていきました。しかし自分が間違っている事を受け入れることができませんでした。また負けん気は人一倍強いため自分よりも若い人が留学の機会を得たりするのを見ると、嫉妬して頭が痛くなるほどでした。
実力はないのに、自分は何でもできると思いこんで、背伸びして失敗し、上司に迷惑をかけることもしばしばありました。

新約聖書ガラテア人への手紙5章の中に罪に関するリストがあります。「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興」。自分の欲望から出るそのような行いをまさに実践する毎日でした。

そんなときに出会ったのが湘南のぞみキリスト教会だったのです。バイブルクラスに通い始めて2年ほどしてから、バークマン先生と一対一の詳しい学びを2年ほど続けました。それを通して、私のようなものも神さまは大切に思ってくださること、私がそれまでに犯した多くの罪のために、また、これからも犯すであろう罪のために神の御子イエス・キリストが身代わりになって十字架の上で血を流し死んでくださったこと、そして、罪が赦されたことを証明するために復活されて天に昇られたことを信じました。それまでの自分に決別し、神さまに導かれて新しく歩むため、イエスさまを救い主として受け入れました。私は神様の言葉である聖書に従って歩んでいくことを教えていただき、何とか自分の力で生きていかなければと思っていたことから解放され楽になりました。それまで周りの人の評価ばかり気にしていたのに、神さまの目が一番気になるようになりました。

聖書のことば:あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配して下さるからです。Iペテロ5:7

イエスさまを信じたのだから、すぐに洗礼をうけるようにと進められたのですが、優柔不断な私は今度はその決心ができませんでした。その2年ほどまえに妻に出会い結婚しましたが、突然「洗礼を受けたい」という私を前に、妻は強く反対しました。私がバイブルクラスに通っている事は知っていましたが、私の信仰について伝えていなかったため、まさかクリスチャンになるとは思っておらず、理解が得られませんでした。また親にも説明が必要と感じていましたが、離れているため説明する時間も十分取れず、クリスチャンが親戚には一人もいないので、話しても理解してもらえないと最初からあきらめていました。
また職場でも「自分はクリスチャンになりました。」と伝えたい気持ちはあるのに、「どうしてなの。」と聞かれたとき、うまく説明できないことを心配してなかなか言い出せませんでした。

しかし先生とともに祈り、聖書に従おうとする毎日を送っていると神さまは祈りに応えてくださりました。バークマン先生の奥さんの助けもあって妻は娘とともに日曜礼拝に来るようになりました。また私の母が佐賀から上京した際に教会に来る機会が得られましたし、私がイエスキリストを信じたことを話すことができました。後から知ったのですが、私の激しい性格が変わったことから、母は「あたしにはようわからんばってん、英次には、キリストはよか教えんごたる。」といってくれていたようですし、親戚みんなが集まった法事のときに「英次はキリストば信じたけん、仏壇はおがまれんげな。わかってやってください。」とはっきりと言ってくれたそうです。

また友人や同僚へもクリスチャンになったことを思い切ってはっきり伝えることで、非難されたり、宗教的な議論になったこともありましたが、それを通してイエス様のことを伝える機会ともなりました。

そして1998年1月25日にクリスチャンとして歩むことを神様に誓い、洗礼を受けさせて頂きました。その日の朝まで38度の熱がありましたが、洗礼後は熱も下がり、喜びでいっぱいになりました。

クリスチャンになりたての頃、問題に直面する私を支えてくれたのは、バークマン先生とともに学び、暗記するように勧められた聖書のことばでした。また挫けそうになると、すきな賛美「栄光イエスにあれ。」を大きな声で歌っていました。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実で正しい方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 Iコリント 10:13
神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。箴言3:5-6

またわたしが信仰を持って以来なんども痛感させられているのは
自分を高くするものは低くされ、自分を低くするものは高くされる。という聖書のことばです。(マタイ23:12)

神様は自分の力で何とかしようと高慢になりがちな私に、失敗を通して、知恵も力もないことを示して下さり、罪を示し、悔い改めに導いてくださっています。

お金や物、名誉などは大切なものと思わなくなくなりました。私が追い求めていたものは空っぽの幸せではないかと思うようになりました。神さまのみが与えてくださる心の平安や忍耐などの性質が何者にも代え難い宝物であることを実感しています。

まだまだ毎日が聖書のことばに素直に従えない失敗の連続です。以前の性格が出て「あいつはあんな口の利き方であれでもクリスチャンか。」といわれることもあると思います。しかし、私には歩むべき道を指し示してくれる聖書と、目には見えませんが常に共にいて下さる神様の助けがあります。日々聖書のことばを読み、祈り、悔い改め、従って行くとき神さまはこれからも私を変えて成長させてくださると信じています。

今では妻も娘もイエス・キリストを信じるようになり、家族で神さまに祈れることを幸せに思っています。
最初あれほどクリスチャンになることに反対していた妻は、アメリカでうつ病という大きな困難を通して心が開かれ、神を信じるに至りました。娘も小さいころから私たちと教会に通い、教会学校で教えられ、昨年中学2年で洗礼へ導かれました。

わたしを陰で支えてくれた母は亡くなる前、何度も「賛美を歌って」といっていましたし、わたしが「キリストを信じるね」ときいたら、信じるといってうなずいていました。

私がこれまでにいただいたプレゼントで、一番すばらしいと思うのはイエスキリストの恵みです。
このプレゼントは私たちを外側から飾るのではなく、内側から豊かに満たしてくださいます。
わたしは、英語のバイブルクラスに参加することで期せずしてこのプレゼントを知ることができました。これからも、このプレゼント、イエス・キリストを一人でも多くの方々に伝え、知っていただきたいと思っています。

小田川一樹(会社員)

救いの証し

救いの証しとは、私が主と仰ぐイエス・キリストを自らの救い主と信じる前はどのようであったか、またどのようにして信じるに至ったか、更には信じた後、どうなったかを皆さんの前に明らかにすることを言います。ただいまからその救いを証しさせていただきます。

1987年の3月、大学一年生も間もなく終ろうかという春休み、私は大学生への伝道団体である「キリスト者学生会」の関東地区春期学校という泊りがけの集会において、講師の入船尊牧師の説教を通して、イエス・キリストを自らの救い主、人生の主として信じ、受け入れ、自分自身の罪の悔い改めと、赦しそして救いという恵みを味わうに至りました。知らない人ばかりが参加している集会でしたが、そこで知り合った他の大学の数人のキリスト者と手を取り合って喜んだことを昨日のことのように覚えています。

私の生い立ちはといえば、会社員であった父が26歳、主婦の母が23歳のときに2学年離れた姉一人をもつ第2子として東京の深大寺に生まれました。一見平凡そうな歩みをたどってきたのですが、ひとつ普通と大きく違っていたのは、私が3歳になるかならないかの頃から、母親がキリスト教系の異端といわれる団体に属し、熱心に伝道活動を始めたことでした。母親はその団体にどっぷりと浸かり、自らも家々を訪問して伝道活動をするようになりました。幼かった私も姉も当然のように連れられていきました。夜9時ごろまで行われる平日の集まりに、幼かった私たちも眠く、また退屈ながらも参加していました。会社帰りの遅い父親を持つ幼い子供にとっては、母親と別行動をとるという選択肢はあり得ませんでした。小学4年生になると、今度は私がひとりで伝道活動にまわり始めるようになりました。高校一年のときには、そこで洗礼を受け、講壇に立って会衆に対して話もするようになり、その年の夏休みは、一ヶ月あたり60時間を地域の伝道活動に費やすようになりました。しかしながら、その団体の教えに確信があったというわけではなく、また平安があったわけでもありませんでした。むしろその対極にいました。いつも追い立てられているような気分の自分がいました。そこの教えを端的に申しますと、神の最後の審判においてはっきりさせられるまでは、自らが救いに入れるかどうかはわからない、というものです。また、信じていることは、伝道活動を中心とする行いでもって明らかになるのだから、伝道にひたすら取り組まない者はとても信じているとは言えないのだ、という感じのものでした。人間はみな罪人であり、不完全な存在であることが教えられていたにもかかわらず、諸々の行いの面での完璧さを求められました。救いについても「イエス・キリストは完全なる救い主ではなく、救いの道を開いたに過ぎず、彼の死だけでは不十分である」というような考え方でした。こうした教えは私自身をどんどん追い詰めていきました。「罪を持ち不完全である私に、なぜ完璧さが求められるのだろう、なぜ、伝道活動を始めとする、いろいろな行いにおいても、また語る言葉においても模範的なふるまいを続けなければならないのだろう、私にはとてもできないのではないか、不完全な罪人に完璧さを求めることは、そもそも論理的に矛盾しているのではないのだろうか。喜びが全くないのに、行いばかりを取り繕って、模範的にふるまいつづけても、不器用な自分のことだから、きっと最後の審判の直前あたりまで仮に頑張れても、最後のぎりぎりのところできっと力尽きてしまうのではないだろうか、だからいくら今頑張っても、最終的には祝福にはたどり着かず、滅びが待っているにちがいない」というように考え、悲観的かつ絶望的になっていました。かといってその団体から脱け出そうとも考えましたが、そうすることは、とりもなおさず滅びそのものを意味する、という彼らの教えがあり、なかなか踏み切れずにいました。最初の人間アダムとエバの神への反逆により罪がこの世界に入り込んだことについて認めていても、ひとりひとりの罪意識が非常に低い、あるいはほとんどないように思われる教えでした。最初の人間から受け継いだ原罪にのみ焦点を当てるために、そのような矛盾した教義を考え出してしまっているようでした。しかしながら、私自身、その教えを納得できなかったものの、そのグループの人たちは一人一人、比較的道徳的かつ真面目に生きているように思えましたし、そういう人間関係を断ってしまって果たして自分はこの先やっていけるのだろうか、ということも心配でした。しかし、先程述べたように喜びのない一心不乱の伝道活動で青春真っ盛りの高校一年生の貴重な夏休みを棒に振ってしまった直後、一大決心をしてその団体から離れることを決意しました。
かといってその後もそれに代わる価値観を確立できず、心の空白を何ものでもっても埋めることができない日々が続きました。残りの高校時代はコンパやカラオケ、麻雀に明け暮れることとなり、無為に過ごす日々でした。仮に彼らの教えが本当だったとしても、それはそれで仕方ない、あの苦しみを味わわずに済むのなら、という思いでした。一方で、自分には滅びが待っているのだろうか、という不安はいつも払拭できませんでしたが、たったひとつ気休めがあったとしたら次のようなことでした。つまり、仮に彼らの教えが本当だったとしても、その教えでは、人は死んでしまえばすべておしまいであって、もとの塵に帰るだけであり、地獄など存在しない、ということでしたので、それはそれでよしとしよう、苦しみ続けるわけでもないし・・・というようなあきらめに近い思いでした。知らず知らずのうちに、刹那的に生きていかざるを得ない状況に追い込まれていました。

時間は流れ、私は受験生活を終え、大学に入っていました。そこでは、当時一緒になってつるんでいた地元の公立高校時代の比較的質素な友人たちとは違って、バイトもしない、勉強もしない、そのくせ多額の仕送りをもらって、サークルには幾つも入って青春を謳歌している地方小金持ちの家の出身者たちを見て、私は厭世的になってしまいました。反発してストイックな生活をわざわざ求めるようになるのには、さほど時間がかかりませんでした。大好きな麻雀三昧の生活をやめ、住み込みで新聞配達のバイトをするようになりました。時間的制約もあって授業に出ることもままならなくなり、電話もない、風呂もない下宿生活に没入していく中、交友関係も希薄になりつつありました。下宿には同じ世代の地方出身の子で大学の浪人中の子が新聞配達をすることで、故郷にいる病弱な母親と妹に仕送りしていることを聞いて大きなショックを受けました。片や湯水のように金を使って何とも思わない大学の友人たち、片や純朴な苦労人のバイト仲間。自分のアイデンティティが探られました。そのいずれとも似ていない自らの境遇、そして確立されていない自分自身の価値観、人生観、世界観。自分の周囲にいくら友人は多くいても、言いようもない孤独感を味わったものでした。そんな私の部屋には、かつて使っていた聖書が転がっていました。開いて読むわけではないのですが、この殺風景な部屋になぜか自宅から持ち込んでいたのでした。
私自身は万物を創造された神という存在を、一瞬たりとも疑ったことはありませんでした。だから、キリストを信じた後はもちろん、かつてそのキリスト教系の異端の組織にいたときも、焼香をしたり、寺社仏閣で手を合わせたことも一度もありません。それは極めて愚かでかつ無意味、そして唯一神の怒り、不興をかうことであるとわかっていたのです。ただ、神はどのような方なのだろうか、ということに自分自身の中で決着がついていませんでした。何らかの宗教や哲学などに深入りしてしまってあとで傷ついてはいけない、という自衛的本能からでしょうか、当初、厳しく断罪する恐ろしい神様という神観をもっていたものの、徐々にその神観を打ち消して、理神論的に「神は確かに万物を創造された、しかし、その後は自然界の法則にすべてを任せられた」というような考え方に好んで近づいて行こうとしたようにも思いますが、それはそれであまり納得のいくものでもなく、また寂しいものでもありました。

あるきっかけで、大学のクラスメートに教会に誘われ、いまだかつて一度も教会に行ったことのなかった私ですが、好奇心から出かけて行きました。かつての異端の教えでは、キリスト教会は決して近づいてはいけない、扉を叩いてはいけない、と教えられていたので、とても勇気が入りましたが、このときは何故か好奇心のほうが勝っていたようです。今にして思えば、主の導きでした。1987年の期末試験が終ろうかとしている頃でした。ろくすっぽ授業に出ずにサボっていた者にとって、一般教養科目の講義ノートを借りるためにクラスメートに近づいた結果、教会に行くことになるとは、不思議な導きです。語られた説教は、聖書箇所こそ知っているところでしたが、結論がどうもピンときませんでした。「救い」という言葉も「赦し」という意味も「十字架」という言葉の響きもわかりませんでした。しかし、遠方からよく来た、ということで多くの同世代の方に歓迎されたため、翌週以降も通うようになりました。まず讃美歌が好きになりました。礼拝後の同じ世代の学生会の交わりは好きでした。副牧師も好きになりました。残念ながら最初のうちは主任牧師とはなかなか話をするチャンスはありませんでした。
そのうち、最初に述べたとおり、そのクラスメートが春休みに行われるという泊りがけの集会に誘ってくれました。初めて会う何人かの同じ大学だ、というキリスト者の先輩方が参加されていましたが、当のクラスメートは来ていませんでした。今から考えれば、よくも内向的なこの私が、誰ひとり知る人のいないそんな集会に参加したものだ、と不思議に思います。そこでひとつの事件がありました。同部屋の人たちと自由時間にドライブしていたのですが、間もなく自由時間が終わり次のプログラムが始まろうとしているとき、車中で「間に合うだろうか」と気をもんでいる私に、「大丈夫だよ、僕たちは赦されているんだから、遅れたって、そんなことかまわない、大丈夫、大丈夫」と一人のキリスト者がのたまったのでした。しばし唖然とする私でした。何が赦されている、だよ、ふさけるなよ、と内心怒りに燃えたのを覚えています。決められたスケジュールを逸脱して、それを弁解するために持ち出してくる「赦し」っていったい何なんだ、「救い」って何なんだ、そんな好き勝手に解釈が許される薄っぺらな「赦し」「救い」なんてものは自分にはいらない、という思いを抱き、ひとりの人に相談しました。相談にのってくれた彼は、その発言が明らかに間違っていることを認め、当人に代わって不快な思いをさせたことを詫びてくれました。そこで私は溜飲をさげたわけです。さて翌朝、同部屋の人たちがおもむろに起き出して聖書を読みはじめたので、手持ち無沙汰の私は、何もしないわけに行かないので、見よう見真似で私も聖書を開きました。すると図らずも「さばいてはいけません。さばかれないためです」(マタイ7:1)の聖句が目に留まりました。続けて読むと「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の中の梁には気がつかないのですか」(マタイ7:3)と迫ってきました。ああ、自分は彼の軽率な発言を決して赦そうとせず、さばいていたのだなあ、と気づきました。聖書から教えられた初めての経験でした。この集会で最初に受けた感謝な出来事でした。また、一緒に行動するグループのひとりの女性が、「自分はこのような集会には来るつもりはなかった、なぜなら男女交際のきっかけづくりに参加している人がいる、と聞いたことがあるので。でも、自分の祈りの中で、本当のキリスト者の交わりや学びのために参加するようにと神様から促されたので参加しました」という旨をおっしゃいました。信仰をもっていない、しかも初参加の私に対して、普通だったら配慮し、隠し立てしてもよさそうなそんな自分の内面のことまで率直に話してくれたことがとても新鮮に感じ、かえって嬉しかったように記憶しています。また、結構いい加減な人も参加しているのかなあ、と模範的に振舞わなくてはいけない性分になっていた私には、随分気が楽になったように記憶しています。このようにして、私自身の心は徐々に開かれていったようです。
よい印象を受けた集会ではありましたが、信じるには至らないまま最後の晩を迎えました。グループのリーダーとかなり話しました。なぜ、主を信じることができないのか、親身になって話を聞いてくれました。祈ってくれました。でもその場ではまだ信じられませんでした。しかし彼の言ったひとつの言葉に大きなショックを受けました。「あなたは、知識はあるかもしれないけれど、信仰が足りないのですね」と言われたのです。私自身は全く逆の認識で、自分には信仰はあるのだけれど、知識が足りないのだ、勉強不足だ、と思っていたので、非常に悔しく思いました。本当は信じていないのに、それでも、信仰心は人並み以上に持っていると思っていた驕り。わかっていないなりにも知識よりも信仰が必要で大切なのだろう、と思っていたのに、「信仰が足りない」とズバリ言われてしまった屈辱感。その場は取り繕ったものの、悔し涙を流して布団に入りました。なかなか眠れませんでした。仕方なく、本来「信じることができるようにしてください」という祈りをすべきなのでしょうが、そうではなく「早く眠れるようにしてください」と祈りました。そのうちに眠りにつきました。翌朝、ぐっすり眠れたことに感謝して祈りました。そこで今度は思い切って「信じたいので、信じられるようにしてください」と祈りました。
その日の朝の講師のメッセージは、前夜私がリーダーと1対1の話しをする中で切実に訴えた、信じるために乗り越えなければならない数々の疑問について語られていました。イエスの十字架を中心に据えるときに、その他の疑問点は相対的に位置付けられていき、いっぺんに、あるいは徐々にではあってもすべてが解決に向かう、というものでした。そのことを素直に認め信じることができた私は、いくつかの疑問点はすでに解消していることに気づいたのでした。あとから聞いたのですが、リーダーとその講師の間では打ち合わせなどなされておらず、リーダー自身大変驚いた、と放心状態でした。私自身もひたすら驚きました。解消された疑問のひとつは、たとえばこんなことです。キリスト者というのは自分に与えられた才能を主のために磨くのだ、などと言いつつも、本当は自己実現を図ろうとしているのではないか、あるいは地位や名声や富を求めているのではないか?学歴を誇っているのではないか?というような疑いを持っていたのでした。けれでも、そこでのメッセージでは、もともと神さまのものであるはずの私が持っている今の財産も才能も時間も何もかもすべてが、信仰によって自分の手から一旦神さまにお返しし、明け渡した上で、もし神様のために私がそれらのものを持つべきであるならば、主よ、どうか必要に応じてそれを与えてください、という祈りの中で、再びそれを受け取っていくのだ、というものでした。全面的に納得のいくものでした。また、神様は、たとえキリスト者であっても、一人一人の人を見てしまわないように、人に躓かないように、と教えてくださいました。所詮、人は皆、罪人であるのだ、と教えられました。そしてそれゆえに、人類の罪というよりもむしろ私自身の罪のために罪のない方、イエス・キリストが十字架で血を流し、命を捨てて犠牲にならなければならなかったのだ、ということをすんなりと受け入れるに至ったのでした。

私が一番気に入り、確信し、感謝した聖句をご紹介します。
「神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ人への手紙2:13.14)

神の「赦し」とは、神を知らず、神を神と認めなかったかつての私の罪を赦すものですし、信じた今もなお日々犯してしまう罪や過ちを赦すものであり、更には今後も犯してしまうであろう罪を赦してくださるものです。私たちの罪の負い目を無効にしてくださるということは、とてつもないことです。無効というのは、過去に遡って最初から罪の効力が生じなかったものとする、ということです。済んだことはしょうがないから、もういいよ、赦すよ、と言いつつも、いつまでも引きずって、わだかまりが残っているような人間同士の和解と比べれば、遥かにレベルの高い赦しであることをもう一度心に刻みたいと思います。それほどまでに、キリストの十字架の赦しというのは、私たちの思いを遥かに超えた主の摂理であることを思います。信仰を持った後にも、決して順調な歩みであったわけではありません。その翌年、交通事故により大学3年の3分の2ぐらいを棒に振ってしまいました。信仰中心の生活に既に変えられており、いろいろな奉仕が与えられて張り切っていた矢先のことでしたので、不可解でした。5度入院し、大小4度の手術をしました。人一倍リハビリに励んだという自負をもっていましたが、むしろ悪化する一方でした。後から入院してきた人が次々治って先に退院していきました。私よりもハチャメチャなことをやった人が、順調に回復していきます。暴走行為をして、当然の報いとして事故にあって多くの人に迷惑をかけているあの人が、早く回復し退院していきます。リハビリで泣き言ばかりいってさぼっていて、弱虫だったあの人も、後から入院してきたくせに、先に良くなって退院していきます。それに比べて、粛々と努力してリハビリをしているのに癒されていかない理不尽さを感じ、人と比べて自分は何がいけないのだろう、どうしてこんなに頑張って痛みや苦しみに耐えているのに報われないのだろう、神様は一体何を考えておられるのだろう、と不信感を抱いたこともありました。しかし、そうした中で主は全面的に主に委ねきっておらず、自らの力に頼る私を諭し、戒め、ときに懲らしめられるとともに、時間をかけてもう一度私の罪を示し、キリストの十字架の愛の大きさを示されました。ベッドの中にいる私に主への讃美と感謝を教えてくださいました。私自身が完全に砕かれていくために必要なプロセスだったのだ、と今になって思わされています。信仰を持てば、なんでもかんでも全部順調、自分の思い通り、困ることなんて何ひとつない、と思ったら大間違いです。苦しみも、痛みも味わいます。しかし、その都度主がその意味を教えてくださり、より一層主に立ち返るように取り扱ってくださいます。そのような意味で、表面的には同じような苦しみを味わっているように見えても、イエスキリストを信じる前と信じた後とでは、決定的に違います。苦しみを首尾よく乗り越えられようと、そうでなかろうと、主に取り扱われる中で、私たちは希望を与えられていきます。信仰をいただいて以来、自らの滅びをいつも意識し、不安と恐れに満たされていた私の内側は、私の人生を導いてくださる方と共に歩んで行ける喜びと平安とに満たされることとなり、最終的には主が私の全生涯に責任を持っていてくださることのゆえに主を崇めることができる特権を味わえる日々となりました。

M.T (中学3年生女子)

嘘の自分


私は、1993年5月12月7日、両親共にクリスチャンという恵まれた家庭に生まれました。家族構成は、父、母、兄、妹、そして私の5人家族です。たまに喧嘩するけど、普段は仲が良いです。

 私は、母のお腹の中にいる時から教会に来ていたらしく、初めて来た時の記憶はありません。でも、小さい頃から教会に来るということは、今も変わらず楽しみです。小さい頃は、数少ない友達に会いたくて来ていただけでしたが。

 自分で言うのもなんですが、私は社交的で明るい性格をしています。でも、小学6年生の夏までの私は、引っ込み思案で、寂しがりやで、いわゆる暗い子でした。それは、本当の自分を周囲に晒け出すのが恐かったからでした。笑われたり、ひかれたりするのが嫌でした。故に、作った自分で、嘘の自分で人と接していたのです。変わりたい、とは思っても、自分だけの世界から出るのが恐くて恐くて、ずっと本当の自分を出せずにいました。どうしたらいいのかも分からなかったし。

 教会に来ても、話を聞く時に心で受け止めることが出来ずにいました。右耳に入って、左耳に抜ける様な感じ。だんだん、教会に来るのがつまらなくなってしまいました。
 小学6年生の時、奥多摩バイブルシャレーで開かれたキャンプに参加しました。受験でストレスが溜まっていたし、これなら楽しく学べるかな、という考えからでした。

 キャンプのカウンセリングタイムの時に、カウンセラーに「罪って何だと思う?」と聞かれましたが、今まで「罪」を意識していなかったので、何と言えばいいのか分からず、「やっちゃいけないこと?」と答えました。すると、カウンセラーは微妙な顔をして、「間違いじゃないけど…」と言いました。
 その夜、私は自分の罪について、深く、真剣に考えました。そして、数え上げたらキリがない程、罪が沢山あることに気付きました。例えば、喧嘩すること、人の悪口を言うこと、嘘をつくこと。特に私は、嘘が多かったと思います。
 嘘で飾った自分は神様の前ではとても汚くて、卑怯。「私は汚い」という考えが生まれ、どんどんどんどん、自分が嫌になっていきました。
 キャンプでのメッセージもグサグサと刺さるものばかり。悲しくなって泣きたいような、逃げたいような気持ちになりました。でも、ちゃんと聞こう、聞かなくちゃ、と思い、久し振りにじっくりと聞きました。講師の先生は、こんな質問をします。「神様の目に、人、元い自分はどのように見えているのか」。私の答えは、「嘘をつく子供は嫌い」。先生はみんなに、聖書を開くように呼びかけました。開いた箇所は、イザヤ書43章4節でした。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ」。
 これは衝撃でした。こんなにも罪で汚れた私を、神様は愛してくれている。しかも、大きなリスクを払ってでも救おうとしてくれている。純粋に嬉しくて、涙が出てきてしまい、チャペルの隅で泣いていました。

 その日から、私は変えられました。何の抵抗もなく、嘘の自分を捨てました。自分でもびっくりです。今の明るくてよく笑う、社交的な自分のイメージが強くなって、昔の自分が隠れてしまうぐらいの変化でした。イエス様の十字架は私のため。私のためにイエス様は死んで下さった。そして、神様は私を愛してくれている。そう思うと、心がすごく晴れて、笑顔になれるんです。
 今後は、教会のお手伝いをしていきたいと思っています。それから、イエス様の道から逸れないで、ずっとずっと神様から離れないように、祈りながら生きていきたいと思います。

S.O (中学3年生男子)

これじゃダメだ

「これじゃダメだ」 S.O.(中学3年生男子)


僕は中学3年生です。家族構成は両親と弟2人、妹1人です。生まれた時からクリスチャンホームで、言葉もしゃべれない頃からずっと教会にいっていました。ただ親が教会に行くから必然的に僕もついていっていました。教会学校に出て、いろいろな人の話を聞いても桃太郎とかと同じ類のものだと感じていました。物心がついてくると多少理解ができてきました。

 教会であらゆることを聞いていく中で、自分に問いかける話をよく聞きました。「誰かに嘘をついたことのある人?」 僕は罪ということをあまり意識しないで生活していました。なので自分に悪いところは無いと信じていました。手を挙げないでじっと先生の目を見つめていました。 「みんなあるんだよ。」先生がそういっているのでとても疑問に思いました。どこがいけない!何が悪い!と、とても不満に思いました。それから僕は罪を意識しながら生活し始めました。するとどんどん罪が湧き出てきました。あの人は嫌い、あの人は苦手、など、自分で人を判断していました。親に平気で嘘をついていました。それがばれそうだからまた嘘で覆い、嘘を何連発もしていました。また、兄弟に暴力を奮ったりあれていました。

 僕は教会学校を通して多くのことを学びました。とくに中学科になって自分の心の中を探られるようなり、だんだん理解できるようになりました。小学科で「自分の罪はイェス様が自分の身代わりとなって死んでくださったのでもう赦された」ということを聞いていたのでもうどんな罪をおかしてもいいんだ、と思っていました。しかし、神様の一方的な愛のゆえにこの世にイェス様を贈ってくださり、罪のないイェス様が僕の罪だけのために死んでくださった、三日目によみがえり今も天で生きておられる、また、神様は僕からの対応を待っていてくださる、ということを知り、これじゃダメだ、と悔い改めるきっかけとなりました。今までの神様の喜ばれないことをやっていた自分がとても情けなく感じました。 そしてキャンプに行き、神様の愛をより一層深く知ることが出来ました。同年代のたくさんの人と同じ神様を讃えることがとても素晴らしく、喜ばしく感じました。そのキャンプでカウンセラーに教わった聖句がとても印象に残っています。

「『キリスト・イェスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受けいれるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」Ⅰテモテ1:15

この聖句は僕が少し曖昧に理解していた福音を自分の中に真実として決定づけるものでした。また、自分が罪人のかしらであることを教えてくれた聖句でもありました。ぼくはこれからいろいろ知識を身につけ、もっともっと神様に喜ばれることをし、たくさんの人に福音を伝えていきたいです。