ショートメッセージについて
このページは、「キリスト教ははじめて」という方にも読んでいただけるショートメッセージを掲載しています。上から順番に最新のメッセージが載せてあります。タイトルをクリックしてお読み下さい。
キリスト教の信仰とは
(へブル人への手紙 11章1節)
一般的に信仰とはどのように説明しているのか調べてみました。そういたしますと、「神や仏などを信じること、またある宗教を信じて、その教えをより所とすること。」「人や物事を信用・信頼すること」「証拠抜きで確信を持つこと。またそれを信じることを正当化する要因」とありました。キリスト教を信仰すると言えば、恐らく多くの人が一番最初の定義がふさわしいと思うでしょう。しかし、あまりにも定義が大ざっぱすぎるという印象がぬぐえませんが、皆さんはいかがでしょうか。例えば信じるとはどういうことなのか。その教えをより所とするということは、具体的にどういうことなのかもっと説明が必要なのではないかと思います。
それで聖書を見ますと、「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」と書いてあります。まずここで「望んでいる事がら」と訳されていることばですが、これはただ単に「ああなればいいな」とか「こうなればいいな」というような単なる願望を表すことばではありません。むしろ神を信じながら歩んでいく中での結果と考えるべきでしょう。ですから、目に見える現実はどうであったとしても、信仰がそれを保証しているので、私たちは疑わず、また失望することなく、確信をもって歩むことができるのです。また目に見えないことというのは、私たちの知識や経験、理解力を超えていることと言えます。それらを確信させるのが信仰だというわけです。
キリスト教を信じて良い事ばかりが続くということは絶対にありません。むしろ神を信じていても、なぜ自分にこのようなことが起こるのだろうかと思うことがしばしばです。また、神を信じていても世の中の人と同じように病気になったり、事故にあったりすることも当然あります。その中で信仰は、神を信じながら歩めば当然ついてくるものがあることを保証します。それは、苦難の中にあってもなお失われことのない平安であったり、世にあるものが決して作り出すことのできない希望であったり、世の中や目に見えるものが決して奪うことのできない希望を私たちに保証するものです。そして最も大きい希望は、私たちが天国へ行くことのできる希望だと思います。死は、すべての人から希望を奪い去ります。しかしイエスキリストにある信仰は、私たちに死の向こうに天国への希望を保証するものです。天国は目に見えないものであり、それは人間の理解や感覚を超えています。しかし、信仰はそれを確信させるものです。また、神は目に見えません。また当然神の愛も目に見えません。しかし信仰は、イエスキリストの十字架を通して現された神の愛を確信させます。その神の愛を信じる信仰が、私たちの人生がどのような中にあったといたしましても、神の愛を確信させ、決して何ものも奪うことのない平安を私たち一人一人に与えるのです。
キリスト教の信仰は、一般的に言われているような何となく神を信じるようなものではなく、信仰は必ず私たちに確信を与えます。つまり、決して奪われることない平安であるとか、神の愛を信じることで心が変えられるなどの何らかの変化が、大きな確信となっていくのです。また証拠抜きで確信を持つことという定義もありましたが、まず私たちの確信は聖書のことばです。聖書が言っているとおりになると、私たちは信じますし、必ずそのとおりになっていきます。そして、聖書のことばが信じられていくようになります。これがキリスト教の信仰です。これをお読みのお一人お一人が、信仰をぜひ持つことができるようにと願っています。
<聖書のことば>
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
(ヘブル人への手紙11:1)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
人は死後どうなるのか
(ヨハネの福音書 3章16節)
一般的に8月15日を中心にお盆の時期と言われ、多くの人がお盆休みで長期の休暇を取って郷里に帰省したりいたします。元々は旧暦の7月14日を中心に行われる先祖供養の儀式で正式名称は盂蘭盆会(うらぼんえ)と言います。ちょうどお盆は、ご先祖様や肉親の精霊が帰って来てくださる期間で、その精霊を迎えるために精霊(しょうりょう)棚を設け、追善供養をするのが一般的です。あの世からご先祖様が帰って来て、家族とともに過ごし、再びあの世に帰って行く一年に一度の期間です。そして、人々は生前のご恩に感謝の気持ちを込めて供養するということです。
この盂蘭盆会に関してですが、仏教学者の一致した意見では盂蘭盆会というのは仏陀の教えではなく、またインドの仏陀の弟子が教えたものでもなく、実は中国の僧侶が書いたものだと言われています。インドの雨季である4月15日から7月15日には日本の梅雨のように雨が降り、托鉢に出ることが不便なため、弟子たちは精舎(今の寺)にこもり、仏陀の説法を聞いたり、討論や反省、修行などに精進していました。ところが十大弟子の一人である目連がある日、神通力を持って死んだ母親の行方を心に浮かべてみると、何の因果か餓鬼道(地獄)に落ちて、苦しみ悶えていることが分かりました。親孝行であった彼は、驚き悲しみ、早速仏陀に母親を救い出す道について尋ねました。仏陀は答えて、「おまえの母親は生前には、貪欲で無慈悲な人であった。だからこそ今その報いを受けているのである。お前が母親をその苦しみから救いたいと願うなら、救いうるだけの善行をお前が積まなければならない。ちょうど7月15日には、弟子たちが沙羅の林に集まることになっているからたくさんのごちそうを用意して、それを弟子たちに振舞えば、その功徳によって母親は救われるであろう。」と教えたので、日蓮は喜び、そのとおりにすると母親は助かったというわけです。実際のところ仏陀は、死人のことについて多くは教えませんでした。むしろ仏陀の関心事は、人間の理性や知恵を持って悟りうる世界であり現世の問題でした。仏陀がその弟子たちに説いた説法の理想は、義理と文句とを具足せる法を説くという一貫した理性の道でした。ですから、人間の理性や知恵では分からない死後の世界や来世のことについて多く語らなかったのです。恐らく多くの人々が、お盆の習慣は仏教から出たものと思っておられると思いますが、実際にはそうではなかったということですし、ここで問題になってくるのが、仏陀が多くを語らなかった人の死後どうなるのかということです。夜回り先生で有名な水谷修氏がお寺で講演をした時に、ひとりのお坊さんが来て、地獄と極楽は本当にあるのでしょうかと尋ねられ、「あると思わないで死んでみて極楽があればラッキイだし、死んでみて極楽がなければやっぱりなかったということでいいのではないですか。」と答えたと言われましたが、死後の問題というのはそんなに簡単な問題とは私には思えません。それは、死後のことというのは私たちの魂に関わるからです。人はすべて魂を持っています。だからこそ、人はお盆に先祖を供養したり、お葬式をするのでしょう。もし人に魂がなく、死んだら終わりだということであれば、そもそもそのような宗教行事自体が無意味だということになりますし、宗教の存在自体が意味がないということになってしまい、なぜ宗教が存在するのかというところから問うていかなければなりません。いずれにいたしましても魂は永遠です。聖書は、決して死後のことをあいまいにしていません。死んでみなければ分からないなどということを聖書は絶対に言いません。むしろ死後のことについて明確に語っています。そのことをともに聖書から見てまいりたいと思います。
ヨハネ3:16をご覧いただきたいと思いますが、ここに「それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく」とあります。逆を言えば、御子を信じない者は滅びるということです。滅びるとはどういうことかと申しますと、神から永遠に引き離されるということです。永遠に引き離されるとは、つまりその罪をさばかれるということです。聖書は、神の前に自分の正しさを主張できる人は誰もいないと言います。神は、私たちの行動はもちろんですが、言葉、そして心の思いまでもすべてをご存知の上でさばかれます。むしろ神は、私たちの心の中を問題にしていると言えるかもしれません。なぜなら悪い行動や言葉などはすべて私たちの心から出ているからです。それで、イエスキリストは「兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また『ばか者』と言うようなものは燃えるゲヘナに投げ込まれます。」と言われました。今まで私は人に腹を立てたことはありません、人に向かって悪い言葉を口にしたことはありませんと言える人があるでしょうか。誰もないでしょう。また「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」とも言います。世のすべての人が神の前に姦淫罪を犯していると言えます。そのようにして、神はすべての罪をさばかれます。その罰は、永遠に燃える火による苦しみです。その一方で「それは、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」と言われています。御子とはイエスキリストのことです。自分の罪を認めて、御子イエスキリストが自分の罪を赦すために十字架にかかってくださったと信じるなら、罪から救われて永遠のいのちが与えられ、さばきを免れて、天国へ行くことができるということです。それは、16節の最初に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあります。つまり、神はただ単に、人類を罪人として断罪しようとしているわけではない、むしろ罪ある私たち一人一人を愛して、御子イエスキリストを十字架につけてまで、私たち一人一人を罪のさばきから救おうとされたということです。
聖書は、死後のことを決してあいあまいにせず、明確に語っています。それは、罪ある人類のさばきであり、神の御前に誰一人として自分の正しさを主張できる人はありません。しかし、神は罪ある人類を愛して、その罪のさばきから救おうとしました。そのためにイエスキリストが、私たちのさばきをその身に受けて十字架に死んでくださいました。私たちの受けるべきさばきは、キリストが十字架の上で受けてくださったので、私たちは二重にさばきを受ける必要がありません。ですからイエスキリストを信じるなら、私たちの罪は赦され、永遠のいのちをもって天国へ行くことができるのです。私たちも、ぜひイエスキリストを信じて、神の愛から出ているイエスキリストにある救いをご自分のものとしていただきたいと思わされます。
<聖書のことば>
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
永遠の故郷
(へブル人への手紙 11章16節)
趣味は旅行という方もいらっしゃるでしょうし、旅は楽しいものです。しかしいかがでしょうか。長く旅を続けていると楽しいどころかだんだん疲れてきてしまうでしょう。そして、元気で安全に何日も旅を続けられればいいですが、旅の途中で具合が悪くなったりする方もあるでしょうし、さまざまなトラブルに巻きこまれたという方もあるでしょう。そうなりますと楽しい旅行も台無しです。
しばしば私たちの人生は、旅に例えられます。恐らく私たちの幼少期は、回りも私たちの成長を喜び、私たちも日々楽しく過ごしていたのではないかと思います。もしかするとさまざまな家庭の事情でそうはいかなかったという方もあるかもしれませんが。先ほども申しましたが、あまり長く旅を続けていると疲れてきますように、私たちも人生のさまざまな出来事の中で疲れをおぼえてくることがあります。人間関係に疲れるということがあるでしょう。受験戦争などと言われたりしますが、希望の学校に入れず挫折することがあるかもしれません。また仕事のストレズにより疲れてしまうということもあるでしょう。そして旅をする中で、疲れからとかストレス、また現地の食べ物が合わなかったりして具合が悪くなってしまうことがあるように、私たちは人生の中でさまざまな病を経験することがあります。しかも年をとってまいりますと、さまざまな病気を患うことが多くなってまいります。ですから、人生を何十年生きるかは人によって異なりますが、何事もなく元気に何十年かの人生を全うするという方は恐らくいらっしゃらないのではないかと思わされます。そして、私たちが旅を続けられるのは、最後に帰って来る場所である我が家があるからではないでしょうか。旅に出たはいいけれども、いったいどこへ向かい、帰る場所もないような当て所もないような旅では不安でしかたがないのではないかと思わされます。私たちの人生はどうでしょうか。もし私たちの人生を旅と例えたとしたなら、まさに私たちの人生は当て所のない旅となってしまってはいないだろうかということです。
聖書に出てくるアブラハムは、生まれ故郷のウルという地を出て、神様の約束された地を目指しました。実際に、彼は自分の人生は旅であり、自分は旅人であり寄留者であることを自覚していたのです。そして聖書は、このアブラハムも「さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」と言います。まさに、彼は天国こそ自分の帰るべき場所、自分の帰るべき故郷だと考えていました。ですからアブラハムにとって、人生はまさに天国を目指す旅であり、帰るべき場所をきちんと定めながら、彼は人生の旅を送り続けたということです。聖書を見ますと、天国は罪や汚れのない聖い場所ですから、誰でも入ることはできません。むしろ、罪のある私たちは誰一人一人として入ることはできません。それで、神様の全人類に対する愛とあわれみによって唯一天国へ行くことのできる道が開かれました。それは、罪のない神のひとり子であるイエスキリストが、私たちのすべての罪をその身に負い、十字架にかかって苦しみ、血を流し、いのちを捨ててくださったことを信じることです。そうすれば、私たちは罪を赦された者として天国へ入ることができるのです。聖書を見ますと、天国は「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」と描写されています。まさに、イエスキリストを自分の罪からの救い主として信じるなら、この天国を目指す人生に変えられます。人生の最後はどこへ行き、どうなるか分からない、さまよう旅のような人生から、帰るべき家がきちんと定まった人生へと変えられます。ですから、ぜひ人生の旅を終えたなら、そこで私の人生は完成し、天国へ帰り、そこで神が自分を迎えてくれるという確信ある人生を送っていただきたいと思います。そして、この確信があれば、人生でつらいことがあっても、私たちはそれを乗り越える強さが与えるのです。
<聖書のことば>
「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」
(ヘブル人への手紙11章16節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
人にとって決して変わらないもの
(ヨハネの福音書 3章16節)
皆さんは「不易流行」という言葉をご存知でしょうか。これは、いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも新しく変化を重ねているものをも取り入れていくとの意味です。芭蕉風俳諧の理念の一つです。そもそも不易とはいつまでも変わらないこと、流行とは時代時代に応じて変化することです。実際に芭蕉は、「良い俳句が作りたかったら、まずは普遍的な俳句の基礎をきちんと学ぼう。でも時代の変化に沿った時代の変化に沿った新しさを求めないと陳腐でつまらない俳句しか作れないので気をつけよう。」と言ったそうです。そして、この不易流行という言葉は、継続性と変革性ということで企業の中でも用いられていて、残し伝えるべきものはきちんと残し、変えるべきものは勇気を持って変えることで企業は継続すると言われています。
少し芭蕉の言いたいこととは異なるかもしれませんが、私たちの人生や生活の中にもこの不易流行があるように思います。まず流行の部分においては、さまざまなかたちで大きく変化していきました。例えば、食生活が大きく変化し、通信手段も変わりました。また医療も発展しています。恐らくこれから何年かすると、人工臓器というものが実用化されるのではないかと言われています。
そして時代は進み、場所は違えど、人間にとって変わることのない不易の部分は何かと言いますと、罪です。これは、人類の本質を形成しているのではないかと思えるほど変わりません。そして、聖書はすでに人類創生の始めからの罪を指摘しています。それは、神が造られた最初の人であるアダムに、善悪の知識の木から取って食べてはならないと言われましたが、男と女が神の言われることに従わないで食べてしまいました。なぜ神が取って食べてならないと言われたのか。それは善悪の木から取って食べるということは、善悪は神が決めるのではない、自分たちが決めるという自己主張であり、自分たちが神のようになるという意味で、神からの決別宣言でした。そして、それは食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするという木はいかにも好ましかったのです。だから食べたわけです。この後、神に責められますと、自己防衛のために責任転嫁を始めます。自分は常に善だ、正しい、そして人が間違っている、人が悪いと言って人を責めることはないでしょうか。そして、そこから必ず人間関係の破壊、そして争いが生まれます。自分の間違いを認めようとしない傾向は私たちにはないでしょうか。聖書は、それも人間の中にある罪の傾向であると言います。そして、人は行動において、言葉において、思いにおいて罪を犯していると言います。もしばか者と言えば、それも神のさばきの対象となります。そして、イエスキリストは、心の中で情欲をいだいて女を見るなら、心の中で姦淫を犯したのだと言いました。ですから、誰一人として神の前に自分は正しいと言える人は誰もいません。
そして人間にとって不易なことは、必ず死があるということです。どんなに時代が流れて、医療が進歩してもこの地上で永遠に生きられる時代は来ないでしょう。そして、聖書は一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定められていると言われています。そして、このことも決して変わらない不易です。そして、もう一つ不易なことは、神は罪人を愛し、あわれまれて、唯一の救いの道を備えられたということです。それは、神の御子であって罪のないイエスキリストが私たちの罪のさばきを受けるために十字架にかかって死んでくださったということです。キリストが私たちが受けるべきさばきを、すでに受けてくださいましたので、私たちはもはやさばかれる必要がありません。イエスキリストを自分の罪からの救い主として信じるなら、罪を赦された者として私たちは天国へ行くことができるのです。この罪からの救いも聖書が教える決していつの時代も変わることのない不易です。ぜひ、このイエスキリストを信じて、天国の確信を持っていただきたいと思わされます。
<聖書のことば>
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
墓に葬られたイエス
(マルコの福音書 16章6節)
十字架の上で死なれたイエスキリストが、墓に葬られたとの記事が聖書に記されています。キリストは、確かに十字架の上で死なれることで、死を経験し、墓に葬られたのです。これは、神の御子であるイエスキリストが、私の罪をその身に負い、私たちの受けるべきさばきを受けるために、十字架にかかって死なれたという意味で、これは特別な死でした。すべての人が例外なく、死を経験します。病気であるか、事故であるか、老衰であるか、いずれにしても私たちは死を経験し、最後には墓に葬られるのです。
しかし、イエスキリストは、墓から、つまりは死から復活されました。ですから、墓はからで、そこに死体はなかったのです。「千の風になって」という秋川雅史氏の歌があります。その冒頭の歌詞が「私のお墓の前で泣かないでください。そこにわたしはいません。眠ってなんかいません。」イエスキリストが千の風になったのではなく、死からよみがえられたので、そこにはおられなかったのです。そのキリストが、よみがえったことと、私と何の関係があるのかと思われる方があるかもしれません。それは、イエスキリストを自分の罪からの救い主として信じるなら、私たちもキリストと同じように、栄光のからだに変えられてよみがえることになるということです。もちろんこの肉体は、法律で火葬に処されて、遺骨は墓に収められます。しかし、魂は永遠です。その魂が今度は栄光のからだをまとって、よみがえらせられるのです。栄光のからだとは、まず永遠に朽ちることのない体です。そして罪とか欲に支配されることのない体です。また、はっきりと誰なのか区別できる体です。この体をもって、私たちはよみがえることができるのです。まさにキリストは、全人類の初穂として死からよみがえられました。
先ほども申しましたが、確かに私たちは、例外なくいつかは地上の生涯を終え、墓に葬られます。しかし、イエスキリストを信じるなら、死の向こうによみがえりの希望、永遠のいのちの希望を持つことができます。まさに死で終わることのない人生を、私たちは自分のものとし、死の向こうに永遠のいのちの希望を持つことができるのです。そして、この希望は死も奪うことのできないものであり、永遠になくなることのない希望なのです。
<聖書のことば>
「驚いていはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。」(マルコの福音書 16章6節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
史上最大の冤罪
(ペテロの手紙第一 2章22節)
世の中には冤罪というものがあります。皆さんもよくご存知の袴田事件もその一つです。1966年6月30日に、静岡県清水市の味噌会社専務の居宅兼事務所で専務と妻、次女、長男の四人が殺害され、放火されました。そして、この会社の従業員であった袴田巌さんが逮捕され、無罪を主張し続けましたが、結局は警察の言うがままに自白させられ、住居侵入、強盗殺人、放火で有罪とされ、裁判で死刑が確定しました。しかし、2014年1月27日に、死刑および拘置の執行停止ならびに裁判の再審の判決が出されました。証拠は自白のみであったという非常に難しい捜査であったとは言え、一人の人のかけがえのない人生を狂わせたことは間違いありませんし、独房に入れられ続けられていたところから来る、精神的な回復がこれからもなされなければならないようです。そう考えますと、冤罪というのはあってはならないものであるとの思いを強くします。もちろん罪を犯した人に対しては、それ相応の罰が与えられなければならないことは間違いありませんが、冤罪は決して許されるものではないのです。
私は、世の中の人があまり知らないとんでもない冤罪を知っています。それは、イエスキリストが十字架にかけられたということです。今日読んだ聖書の箇所にも「キリストは罪を犯したことがなく」とはっきり記してあります。これを書いたキリストの一番弟子であったペテロという人物も、約三年間をイエスキリストとともに過ごし、寝食をともにする中で、「キリストは罪を犯したことがなく」と証言しているのです。しかし、多くの人は、キリストの十字架の死に関しては無関心であり、キリストが十字架にかかって死んだ理由など知りたいと思わないかも知れません。その一方で、仏教学者の鈴木大拙氏のように、キリストは自分の業によって、つまりキリストが何か罪を犯してその結果として、十字架にかけられたのだと言う人もあります。しかし、聖書ははっきりキリストには罪がなかったと言います。キリストは神の御子であり、神ですから当然です。むしろ、「しかし彼を砕いて、痛めることは主のみこころだった」と言います。つまり、罪のないキリストが十字架にかかることは、神があらかじめ計画されていたことだというのです。それは、なぜでしょうか。罪のないイエスキリストが私たちの罪をその身に負い、十字架にかかられることで、私たちが本来受けなければならなかった罪のさばきを受ける必要があったからです。もし、イエスキリストが自分の受けるべき裁きをすべて受けてくださったと信じるなら、私たちの罪は赦され、義と認められ、永遠のいのちをいただいて天国へ行くことができるのです。
私はキリストを十字架にかけたおぼえなどないし、関係ありませんではなく、自分の罪を認めてイエスキリストを自分の罪からの救い主として信じていただきたいと思わされます。
<聖書のことば>
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(ペテロの手紙第一 2章22節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
心の貧しい者となる
(マタイの福音書 5章3節)
戦中や戦後すぐの日本は、極貧と言っていいような生活の中にあり、人々は、必死に生きようとしていました。しかし、人々の心は荒れすさんでいき、生きるためであれば、売春でも盗みでも何でもするというような感じであったようです。それで「衣食足りて礼節を知る。」との言葉通りに、豊かになればきっと心も豊かになるはずだと、人々は考えました。そして、人々が勤勉に働く中で日本は世界で有数の経済大国となりました。しかし、日本人は「衣食足りて礼節を知る」国民となったでしょうか。むしろ人々は物質主義と言いますか、お金のためなら何でもするという感じで、今の方が、心は荒れているような気がいたします。
イエスキリストは「心の貧しい者は幸いです。」と言われました。貧しいことの幸いは、持てる物を感謝することができるということでしょう。与えられている物がすべて神から来ていることを感謝することができるのです。これこそが、イエスキリストの言われる心の貧しさです。逆に持っている人は、もっと欲しくなり、持たないことへの不平不満を口にするようになってしまいます。また、自分の力や能力で高い収入を得ていると考えますから、無理をしてでも働かないといけないという気持ちになり、それが苦しみやストレスとなり、仕事に何の喜びもないということになりかねません。
ぜひ、神が与えてくださる物を感謝して受け取り、神が、日々の生活や自分の仕事を守ってくださることを感謝できるようになっていただきたいと思います。その時に本当の平安を経験することができます。
<聖書のことば>
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」(マタイの福音書 5章3節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
あなたの敵を愛しなさい
(ルカの福音書 6章27節)
イエスキリストは「敵を愛しなさい。」と言われました。恐らく、多くの人々が、これは無理だと思われたり、もしそれができれば、世界はもっと平和になるはずだと思われるかもしれません。しかし、このことばは、そのような世界平和を念頭に述べられたのではなく、むしろ、キリストの弟子たちの個人的な生き方を語ったものです。
ここでイエスキリストは、「敵を愛しなさい」と言われた時に、決してその人たちのことを好きになりなさいとか、愛情を抱きなさいとは言われませんでした。そうではなく、「あなたを憎む者に善を行いなさい。」と言われたのです。つまり、善いと思うことをしてあげなさいと言われたのです。そして、これは可能です。自分の感情に打ち勝って相手に善行を行えばよいからです。旧約聖書の出エジプト記23章5節に「あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。」とあります。憎んでいる者が困っているのを見たなら、ざまあみろと思い、知らん顔をするのではなく、また「起こしてやりたくなくても」その感情に打ち勝って助けなさいと言っているのです。敵とか憎む者とは言わなくても、私たちの家族や身近な人にも自分がよく思わない人があるかもしれません。そのような人にも私たちは愛をもって善行をすべきなのです。
イエスキリストは、敵であっても誰であっても、決して愛する対象を選別するようには教えませんでした。それは、イエスキリストの教える愛は無償の愛だからです。
<聖書のことば>
「しかし、今聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」(ルカの福音書 6章27節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
クリスマスが喜びとなるために
(ルカの福音書 2章10-11節)
今年のプロ野球は、セリーグで広島東洋カープが優勝し、日本シリーズでは日本ハムファイターズが勝って日本一となりました。広島ファン、日ハムファンの方々の喜びようは相当なものでした。このことからも分かりますように、喜ぶにはそれ相応の理由があり、何か自分を喜ばせるようなことが起こった時に、人は喜ぶということです。
ベツレヘムという町で、野宿をしていた羊飼いたちに、御使いが「今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを伝えに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」と告げました。旧約聖書には、いつの日か救い主が来ることが預言されていました。旧約聖書を信じていたユダヤ人たちは、自分たちを救ってくれる救い主を待ち望んでいたのです。ですから、救い主の誕生はユダヤ人にとっては、まさにすばらしい喜びだったのです。しかし、皆さんはいかがでしょうか。自分はユダヤ人ではないし、救い主の誕生など自分には関係ないと思われるかもしれません。
しかし、約2000年前に、まさに旧約聖書の預言の成就としてお生まれになったキリストは、私たちにとって何の関係もないお方ではありません。イエスキリスト誕生の目的は、人種に関係なく、すべての人を罪から救うということでした。罪は、私たちからさまざまな喜びを奪います。旅行に行ったり、気の合う人たちとおしゃべりをしたりすれば、楽しいですし、喜びもわいてくるでしょう。しかし、家庭がぎくしゃくしていたり、赦せない人や愛せない人がいて、心の中に憎しみや怒りの感情があったり、心にさまざまな思いわずらいや心配事があったのでは、それらが私たちの心を暗くして、すべての喜びを奪ってしまうことでしょう。しかし、イエスキリストを罪からの救い主として信じるなら、私たちは罪から解放されます。神によって私たち自身が新しく変えられるのです。愛せなかった人を愛せるようになり、赦せなかった人を受け入れていくようにされます。そして、神を信じることにより、自分の心にある思いわずらいを神にゆだねることができます。そのようにして、私たちは、明るい心で日々歩んでいくようにされるのです。だからこそ、罪を赦されることが大きな喜びとなるのです。
今もイエスキリストは、罪を赦すために、私たち一人一人を招いておられます。そのためにこの地上に来てくださったのです。それを祝うのがクリスマスです。イエスキリストを知ることで、今年のクリスマスが、皆さんにとって喜びの時となりますように。
<聖書のことば>
「御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音書 2章10-11節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
私たちの心
(コリント人への手紙 第二 5章17節)
認知症がかなり進んで、人の識別が難しくなった老人でも、「自分が人からどう見られているか」「どう扱われているか」に関してはとても敏感なのだそうです。しかし、その一方で、恐らく、多くの人が全く気にならないものがありますが、それは、私たちの心の中です。心というのは、決して人から見えません。私たちの回りに、人の心を読み取ることができるという人はいないでしょう。もちろん、私たちが、イラっとして声が大きくなったりすると、心の中にある怒りを悟られるということはあるでしょう。また、顔をしかめたりする表情からも、嫌がっているのかなとか、怒っているのかなどの心の動きを知られることもあるでしょう。しかし、私たちが全くそのような素振りを見せなければ、私たちは、自分の心の動きを知られることはまずありません。ですから、この人嫌だなと思いつつも笑顔で対処すれば、人間関係は何も問題なく成り立つわけです。私たちの心の中は、回りからは隠された部分と言えるでしょう。実際に目に見えませんし、私たちが心の中で思ったことは、人には分かりませんから指摘されることもありません。ですから全く気にならないわけです。
聖書の中でイエスキリストは、「偽善の律法学者、パリサイ人。」と言われました。律法学者というのは、旧約聖書にさまざまな律法が記されていて、それらの戒めをどう守るかということを人々に教えていた人で、言わば律法の専門家です。パリサイ人というのは、ユダヤの国がローマ帝国に支配されて、すっかり絶望し、信仰から離れていく人もいる中で、自分たちは真面目に律法に従う生活をしていこう、そうすれば、必ず神が自分たちを救われる時が来ると信じていた人たちです。しかし、ここでキリストは彼らを「偽善の」と言われました。何が偽善なのかと言いますと、確かに彼らは神の律法に従って生きて、回りの人たちからは真面目で敬虔な人たちと見られていたかもしれません。しかし、人々の内側を見られるイエスキリストからすると、彼らの内側、心の中は、神が教えていない、神が喜ばれないもので満ちているということです。例えば、熱心に祈っているかもしれないその心が、神から遠く離れていては偽善的な祈りになるでしょう。そして、神に祈りつつも彼らの心には憎しみや怒りが満ちていました。ですから、最後に、彼らはキリストを不当な裁判にかけて殺すということをしたのです。イエスキリストは、彼らを白く塗った墓に例えました。昔は、墓を白く塗り、この当時のユダヤ地方では、遺体をそのまま埋めて土葬にしていたようです。ですから、そのうち腐敗し、悪臭を放つようになったことでしょう。白く塗った墓は、見かけはきれいですが、墓の中には腐敗した遺体があるように、人の目を気にして、敬虔な者だと認められることばかりを考えていた律法学者やパリサイ人は、見かけは、白く塗った墓のように見栄え良く見えるかもしれないが、その内側、心の中は神の目には、とても見るに耐えない不法とか偽善で満ちていたということです。
神は、私たちの内側をも見られます。先ほども申し上げましたように、人は他人の心の中は分かりません。しかし、自分は自分の心の中が分かっているはずです。日々どのような思いが心の中にわいてくるでしょうか。そして、それが時には言葉や行動になって現れてきます。そして、神もその心の中をすべてご存知です。神の目から見て、私たちの心は白く塗った墓のようになっていないでしょうか。
そして、私たちは、自分で自分の心を聖くすることもできませんが、神は、私たちの心を全く新しくしてくださいます。そして、心が新しくされれば、言葉も行動も生活も、さらには人生までも変わります。あなたも神によって心を変えていただきませんか。
<聖書のことば>
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
(コリント人への手紙 第二 5章17節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
いのちを大切にするために
(創世記 1章27節)
「『人は誰でも老いれば障害者になる。命を差別しないでいただきたい。』リオデジャネイロ・パラリンピックの開催にあたり、競泳の成田真由美選手は、相模原市での障害者殺傷事件に触れ、訴えた。ひとりの容疑者の優性思想や凶行を責めたのではなく、健常者ひとりひとりの心の奥底に潜んでいるかもしれない「容疑者性」に向けて警告したのだろう。(中略)成田選手が言うように、人は誰しも「老化障害」を抱えている。程度の軽重が違うだけで、健常者という存在は妄想に過ぎない。そう認識して支え合う社会を目指せないか。」(東京新聞 私説 2016年9月14日付より引用)
この世の中は、拝金主義、物質主義と言えるでしょう。その中で、人の命や人の価値は常にどれだけ利益を生み出し方で、はかられます。いくら声高に「かけがえのない命」とか「命は何よりも大切」と言ってみたところで、生きる自信をなくしてしまった人たちには空しく聞こえるでしょうし、年老いた人たちの介護もお金ではかられるので、人の命は結局お金なのかと思い、空しくなります。
私は以前に茨城県水海道市(現常総市)の教会で仕えていました。その教会の近くに筑波キングスガーデンがありました。キリスト教主義の老人施設で、手厚い介護で地元では評判となっていました。そこの施設長がよくおっしゃっておられたのは、「人は神によって造られたがゆえに、年を取って、寝たきりになって何ができなくなっても人としての尊厳は決して失われることがありません。」ということでした。
神が、一人一人を特別で尊い存在として造ってくださっているとの信仰からこそ、命の尊さ、存在の大切さが出てくるのではなかろうかと思わされています。あなたも神によって造られた大切な存在です。何ができなくても、そして、将来年老いて介護が必要になったとしても、あなたは神にあって大切な存在、あなたの命は神にあってかけがえのないものです。ぜひ、あなたを造られたこの神様に出会っていただきたいと思わされます。
<聖書のことば>
「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1章27節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
神は、あなたの人生をも変える
(コリント人への手紙 第二 5章17節)
聖書の中に、ザアカイという人が出てまいります。この人は、エリコという町に住んでいて、取税人のかしらで、金持ちであったと紹介されています。そのエリコの町を、イエスキリストが通られるというので、ザアカイは、見ようとしました。しかし、彼は背が低かったので、大勢の群衆のために見ることができず、いちじく桑の木の上に登り、そこから見ていました。すると、イエスが彼を見上げて「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」と言われたのです。彼は、大喜びでイエスを客として自分の家に迎えました。それからザアカイは、イエスに「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と言いました。
ザアカイは、大金持ちだったと言われています。しかし、その財産も結局はだまし取って得たものでした。しかも、だまし取ってでもお金を得たいと思うほどに、彼は貪欲でした。しかし、その彼が、キリストに出会って、貧しい人たちに財産の半分を施します。だまし取ったものは四倍にして返しますというほどに、貪欲な心から解放され、全く新しい人生へと変えられたのです。私もキリストに出会って人生が変えられました。何を目標に生きていいのか分からない人生から、生きる目的が与えられました。いつも何かにイライラして、けんかばかりしていた毎日が、本当に感謝と喜びの人生へと変えられました。神は、人を変え、全く新しい人生へと私たちを導くことのできるお方です。
ぜひキリストにあって新しい人生を歩み出していただきたいと思います。
<聖書のことば>
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリント人への手紙 第二 5章17節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
本当に自分は正しいのか
(箴言21章2節)
基本的に、人は外見でその人を判断します。例えば見かけが真面目そうとか、学歴や職歴などで、その人が立派かどうかを判断もいたします。 し
かし、聖書の神は、人の心の値うち、つまり人の目から隠された内面の部分を問題にされるというわけです。
私たちは、見かけは取り繕うことができるでしょう。その人のことを嫌いだと思っていても、笑顔を作って愛想よくすることはできます。しかし、私たちは、自分自身の心を取り繕うことはできません。人に対する憎しみの感情が出てきた時や怒りが心にわき上がってきた時など、私たちはそれを抑えることはなかなかできません。そして、そのような心の状態は決して健全なものではありません。ですから、聖書は、はっきりと「善を行う人はいない。ひとりもいない。」と言います。
それでは、私たちが心の値うちをはかられる神の前に正しくあるためにはどうしなければならないのでしょうか。もちろん自分の力や努力で、自分の心を正しい方向に導くことはできません。先ほども申しましたが、心というのはそう簡単に制御できるものではないからです。ですから、心を正しい方向に向けるために、まず私たちは、神の助けが必要であることを認めなければなりません。つまり、今までは神なしで生きてきた自分の生き方を悔い改めて、神に従って生きるようにすることです。そのようにすることによって、私たちの生き方が少しずつではあっても、神の喜ばれるものへと、また神が受け入れてくださる生き方に変えられていくのです。
私たちが、意識しなければならないのは、見かけだけで判断する人ではなく、心の値うちをはかられる神なのです。私たちは、日々の生活の中で、少しでも見かけとともに、目に見えない内面を意識すればいかがでしょう。そうすれば、私たちの行動が変わり、行動が変われば生活が変わり、生活が変われば人生が変わっていきます。
<聖書のことば>
「人は自分の道はみな正しいと思う。しかし主は人の心の値うちをはかられる。」(箴言21章2節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
見知らぬ人のために命を捨てること
(ヨハネの福音書 15章13節)
マキシミリアノ・コルベというカトリックの神父がいました。彼は、長崎で布教活動をしていましたが、帰国後ナチスに捕まり、アウシュビッツ収容所に入れられました。ある時に、逃亡者が出たことの連帯責任として、無作為に10名を選んで餓死刑が執行されることとなりました。その選ばれた一人の人の身代わりになったのがコルベ神父でした。彼は、餓死刑の中にあっても、神への賛美と祈りをささげ続け、最後にはナチスの手により毒殺されました。47歳でした。
彼の死は、美談として多くの人々の間で語り伝えられてきましたが、どこか昔の遠い国で起きた出来事という印象を受けます。しかし、私たち一人一人のためにいのちを捨ててくださった方がおられます。それはイエスキリストです。本来であれば、私たちは例外なくすべて、罪人として神のさばきを受けるはずでした。しかし、イエスキリストが、私たちの罪の裁きを受けるために十字架にかかって死んでくださったのです。ですから、私たちもイエスキリストを自分の罪からの救い主として信じるなら、罪が赦され、永遠のいのちが与えられるのです。
見知らぬ私たちをイエスは友と呼び、十字架の上でいのちを捨ててくださり、これよりも大きな愛はないというほどの愛を、私たちに示してくださいました。ぜひイエスキリストを信じて、キリストにある救いを自分のものとし、キリストの愛を知っていただきたいと思わされます。
<聖書の言葉>
「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」 (ヨハネの福音書 15章13節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
日々感謝しよう
(テサロニケ第一 5章18節)
毎週火曜日の毎日新聞の朝刊に「香山リカのココロの万華鏡」というコラムが掲載されています。5月3日付けのコラムの今年50歳になる女性のことが紹介されていました。「子どもがふたりとも社会人になりました。夫はまじめですが、いまひとつ会話が弾まなくて。あと5年で定年なのですが、それからのプランがないようです。自分の人生、このまま終わっていくのかと思うと息がつまりそう。毎日が同じことの繰り返しです。」趣味やボランティアをやってみたらと勧めたが、「とくにやりたいこともなくて」とため息をつくばかりであった。まわりから見るとややぜいたくな悩みなのだが、本人は真剣なのだ。」そして、この後、香山氏は、熊本地震のことに触れ、震災の中に置かれると、ありふれた日常ほどすばらしいものはないと言いたくなるだろうと言います。
自分の人生を振り返ってみても、いかに感謝のない生活を送ってきたかよく分かります。そして、感謝がなくなると、必ず不平や不満が出てまいります。ある意味、感謝と不平とは表裏一体ではないかと思うほどです。そして、なぜ感謝ではなく、不満が出て来るかと申しますと、自分が基準だからです。自分が正しい、自分がいやだ、自分が耐えられない、なぜ自分の思い通りに動かないのだろうと思うと、感謝ではなく不平が出てきます。しかし、先ほどの女性のご主人のように、もうすぐ定年というところまで、社会で働くことはそれほど楽なことではありません。それを定年間近まで務め上げるということに対して、ご主人への感謝の思いがわいてこないでしょうか。
聖書が言う「すべての事について感謝しなさい」とのことばは、簡単ではないように聞こえることでしょう。しかし、自分中心に、また自分を基準に物事を考えるのではなく、相手中心に、また相手を基準に考えるなら、すべての事について感謝しなさいとの聖書のことばに、少しでも近づける人生を送ることができるのではないかと思わされます。そして、自分中心の考えや振る舞いは、聖書では人間の罪の特性と言われています。ですから、私たちは神によって、この自己中心の性質を改めていただかなければなりません。もちろん自分ではできません。しかし、神に不可能なことはありません。ぜひ、この罪の性質を神により変えていただき、すべての事について感謝できる者とさせていただきましょう。
<聖書の言葉>
「すべての事について感謝しなさい。」(テサロニケ人への手紙 第一 5章18節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
キリストによる罪の赦し
(マタイの福音書 9章2節)
イエスキリストのもとに、中風をわずらった人が連れて来られました。自分では動けなかったのかもしれませんが、人々が寝かせたままで、その人を連れて来たのです。もちろん、誰しもがこの人の中風がいやされることを期待していたのでしょう。しかし、その人に対してイエスは、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われたのです。しっかりしなさいというのは、確信を持ちなさいとか勇気を持ちなさいという意味でもあります。仮に病がいやされなくても、罪の赦しがあれば、明日へ踏み出す勇気を持ち、確信に満ちた人生を送ることができるということです。
そもそも聖書で言う罪というのは、悪事だけではなく、行い、言葉、心の中の思いを指しています。神は、人のうわべだけでなく、私たちの内側をも知っておられて、それも罪としてさばかれます。もちろん多くの人々が、真面目に生きていこうとされていることでしょう。しかし、神の前では決して自分の正しさを主張できる人はいないのです。神によって裁かれたなら、人には永遠の滅びが待っています。しかし、イエスキリストが、私たちの罪をその身に負い、十字架の上で、私たちが受けるべきさばきを受けてくださいました。ですから、イエスキリストを信じるなら罪が赦されます。そして、罪が赦された者として天国へ行くことができるのです。また、罪の赦しは、私たちの人生の方向転換を意味します。自分が常に正しいと主張し、自己中心に生きていた人生から、神に従い、神と人とを愛する人生へと変えられるのです。そして、神につながり続ける限り、例え何が起こったとしても、私たちは勇気と確信と希望をもって人生を歩んでいくことができるのです。あなたも、罪の赦しをいただいて、全く新しい人生を歩み出していただきたいと思います。
<聖書の言葉>
「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」(マタイの福音書9章2節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
イエスキリストはよみがえられた
(コリント人への手紙 第一 15章20節)
昨年の12月6日に、地上の生涯を終えて、神様のもとへ帰られた教会の方は、洗礼を受ける前には、なかなかイエスキリストの復活が信じられなかったようです。しかし、別にこの方が珍しいわけではなく、そのような方が多いかもしれません。聖書の使徒の働き17章18節を見ますと、このように書かれています。「エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。」また、同じ17章32節では「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」とあるとおりです。もともと、イエスキリストの復活のことを言い出したのは、キリストの弟子たちでした。時の権力者たちが、その弟子たちにイエスキリストの死体を見せれば、彼らの言っていることが偽りであることが証明されたはずです。しかし、その権力者たちは、弟子たちにキリストの死体を示すことができず、それどころか、金を渡して、弟子たちがキリストの死体を盗んだと言わせたほどでした。その後、弟子たちは、イエスキリストの十字架による罪からの救いと復活を宣べ伝え続け、キリスト教が世界の三大宗教と言われるほどになりました。
キリストが十字架につけられたのは歴史的事実であると同時に、その三日後によみがえられたのも歴史的事実です。それとともに、キリストがよみがえられたことには、私たちにとり非常に大きな意味があります。それは、キリストの復活は、私たちもいつの日にか死者の中からよみがえる保証となるからです。ですから、クリスチャンたちは、自分の人生が決して死で終わることがないということを信じて、死後にも希望を持つことができるのです。あなたもぜひイエスキリストを信じて、死者からの復活の希望により、安らかにこの地上を去る備えを得ていただきたいと思わされます。
<聖書のことば>
「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」
(コリント人への手紙 第一 15章20節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
聖書の語る三つの愛
(ローマ人への手紙 5章6~8節)
日本語で愛を表す言葉は「愛」以外にありませんが、新約聖書の書かれたギリシャ語には三つあります。
一つは、エロスです。これは、女性に対する男性の情熱的な愛を表しますが、しばしば、肉体に関係のある愛を表し、この愛は、欲望や肉欲に結びつきます。そして、この種の愛は、個人主義的な愛という性格があります。
二つ目が、フィレオーです。アメリカにフィラデルフイアという都市がありますが、この町の名は兄弟愛という意味で、このギリシャ語のフィレオーから取られました。この語は、家族関係などの親しい間柄における愛を表す言葉です。
そして、三つ目がアガペーです。これは、聖書にたびたび出て来る、愛を表す言葉で、全く自己中心的ではなく、自分の満足を、その関係において認めず、そして、与えたことに対する応答を期待せず、愛する者の最高の幸福を願う愛です。このような愛は、基本的に人は持ちえませんし、恐らく想像もできないことでしょう。もしかすると、理想であって現実にはありえないと思われるでしょう。
しかし、聖書の中のローマ人への手紙5章6節から11節を見ますと、キリストは弱い者、不敬虔な者、罪人、敵であった者のために、十字架で死んでくださったと語ります。これは、まさにキリストの死を通して、神の持つアガペーの愛を現すためです。人が想像すらできなかったアガペーの愛を、キリストは現実のものとして、十字架の上でそれを現してくださったのです。聖書は、すべての人が神の前に言葉において、行いにおいて、思いにおいて罪を犯していると語ります。聖く義なる神の前に、自力で正しい歩みをすることのできる人は誰もいません。そして、そのような罪を持ち続けていたなら、最後には神にさばかれ、永遠の滅びを経験しなければならないと教えます。しかし、罪のないイエスキリストが、人類を罪から救うために、すべての罪のさばきをその身に受けて十字架の上でいのちを捨ててくださいました。それこそ、まさに無私で、報いを望まない、そして、人が罪から救われ、新しいいのちに生かされて、全く新しく造り変えられて歩むという最高の幸福を願う愛です。
あなたもこのキリストのアガペーの愛によって愛されています。ぜひ聖書を通してより深くこのキリストの愛を知ることができますように願います。
<聖書の言葉>
「私たちがまだ弱かったとき、キリストが定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ人への手紙 5章6~8節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
誇大妄想からの解放
(詩篇 8篇4節)
神戸アドベンチスト病院院長の山形謙二氏が、著書の中でご自身の体験を次のように語っています。「米国の病院で働いていたある日、エマージェンシールームから呼び出しが来た。交通事故で心臓打撲の疑いのある患者が来ているので、心臓の状態を診てほしいという。早速駆けつけると、一つの部屋の奥に三十歳くらいの白人男性が座っている。たいした怪我ではなさそうだ。ところが、その目つきが実に異様である。興奮して落ち着かず、脇にいるふたりの警官になだめられていた。私が部屋に入っていこうとすると、彼は立ち上がり、私に向かって大声で叫んだ。「サタンよ。出て行け。」私は一瞬ひるんだ。だが、二人の警官に押さえられているので心配はないだろう。どうやら言語動作から見て、統合失調症のようである。こういう人の精神鑑定をするのは精神科の仕事であって、私の領域ではない。しかし、私はちょっと好奇心にそそられて尋ねてみた。「いったいあなたは誰ですか。」すると、威厳に満ちた低い声が鳴り響いた。「私はイエス・キリスト」である。(中略)どうやら自分はキリストだと思っているらしく、自分は何でもできると思い込んでいるという。今日は、向こうから走ってくる小型トラックを止めてみせると叫んで急に通りに飛び出したという。ところが、彼は、逆にはねとばされて、病院にかつぎ込まれたということだった。この例は、誇大妄想の統合失調症である。この病気の悲劇は、自分の本当の現実が理解できず、自分の能力を過大評価しているところにある。その結果、自己破滅的行為に出てしまったのである。(山形謙二著「隠されたる神」キリスト新聞社刊 参照)
私たちも、人生において誇大妄想に陥ってはいないでしょうか。例えば、自分は神なしでも、自分の力で十分に生きていけると多くの人は思っています。しかし、私たちは明日何が起こるか分かりません。失業するかもしれませんし、重い病気になることがあるかもしれません。さまざまな人間関係のトラブルに巻き込まれる可能性もあります。そのような中で悩んだり心配したり思い煩う中で、多くの人は自分の力がいかに頼りなく、弱いものであるかを思い知らされます。それでもなお無防備に明日を迎えようとするのは、まさに誇大妄想と言えるかもしれません。クリスチャンは、常に神の助けを求めて祈ります。それは、自分がいかに頼りないか、そして自分がいかに小さな存在かということを謙遜に認めているからです。しかし確かに小さな存在である私たちではありますが、神はあわれんで顧みて必ず助けてくださり、祈りに答えて必要な助けを与えてくださると信じているからです。
ぜひまだ信仰持っていらっしゃらない方々も、本当に自分自身はそれほど頼りになる存在であるかを考えてみていただきたいと思います。そして、ぜひ神の愛とあわれみを知り、神に謙遜に助けを求める方になっていただきたいと思わされています。
<聖書の言葉>
「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇8篇4節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
罪の問題を解決する神
(ヨハネの福音書 3章16節)
ジェームス=アーヴインが、「人類の歴史の中で最も偉大な日は、人間が初めて月に立った日ではなく、神の子がこの世に生まれた日」と言いました。
1966年7月20日午後4時17分に、アメリカのアポロ11号の船長ニール=アームストロングと月着陸船「イーグル」の操縦士エドウィン=オルドリンの二人が、月面に着陸し、そこに21時間30分滞在しました。これをきっかけに、宇宙開発が一気に進み、宇宙旅行も夢ではないと言われています。宇宙開発だけではなく、現代は医療や科学技術も一気に進み、不治の病が治せるようになり、また、私たちの生活も楽になったり、快適になったりしてまいりました。
しかし、科学が発達しても、私たちにはどうすることもできない罪の問題があります。もちろん、皆様方は、罪人だと言われるほど、自分は悪い人間だと思わないと思われるでしょう。しかし、悪いと思っていてもやめられない悪しき習慣はないでしょうか。私たちは、人をののしったり、中傷したり、嘘をついたり、言葉で人を傷つけ、罪を犯していると、聖書は私たちに言います。また、私たちは、人に怒ったり、憎んだり、ねたんだり、心から人を赦せなかったりと、心においても罪を犯していると、聖書は私たちに言います。そして、それらの罪に関して、私たちは、死後、神の御前でさばかれなければならないのです。これらの聖書で言う罪の問題は、どんなに科学が発達しても、解決できません。
しかし、神の側から、唯一の解決の道を与えてくださいました。それは、罪のないひとり子イエスキリストが、十字架にかかり、私たちの罪のさばきをその身に負い、苦しまれ、血を流し、いのちを捨ててくださることにってです。私たちは、罪を赦された者として新しい歩みがなされ、そして、死後、天国へ行く道が開かれているのです。
そして、どうすることもできない、人類の罪を解決するために、イエスキリストはこの地上に生まれてくださったのです。ですから、神の御子イエスキリストが生まれた日は、人類史上最も偉大な日なのです。ぜひ、このイエスキリストについて、もっと深く知ることができますよう、聖書を開いてみませんか。
<聖書のことば>
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネの福音書3章16節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
あなたは恵まれた方
(ルカの福音書 1章28節)
恵みという言葉には、何かの恩恵を受けているとの意味があります。例えば「あの人は音楽の才能に恵まれている」というような言い方をします。
聖書によると、イエスキリストの母となったマリヤに御使いが「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と言われました。しかし、聖書を読む限りにおいては、マリヤが、何か特別な才能に恵まれていたり、お金や家柄に恵まれているという感じではなさそうです。むしろ、ここで御使いがマリヤに「恵まれた方」と言ったのは、彼女にとって、イエスキリストの母になることは身に余ることだったからです。
一方で聖書は、私たちに対しても「おめでとう。恵まれた方」と呼びかけます。もしかすると、これをお読みの皆さまも、自分もマリヤのように、神様から何か特別なことをしてもらったわけでもないし、恵まれた方でも何でもないではないかと思われるかもしれません。しかし、イエスキリストを自分の罪からの救い主として信じるなら、私たちは天国へ行くことができるようにされているのです。完全に正しく、聖い神の前に自分の正しさを主張できる人は誰もいません。ですから、本来、すべての人が神に裁かれ、永遠の苦しみを受けるはずでした。しかし、罪のないイエスキリストがこの地上に来てくださいました。それをお祝いするのがクリスマスです。そして、十字架にかかり、血を流し、苦しまれ、いのちを捨ててくださいました。まさにキリストが受けた苦しみは、私たちが、死後に受けるべき苦しみだったのです。そして、キリストが私たちの受けるべき裁きを受けてくださったので、私たちが裁きを受ける必要がなくなりました。ですから、イエスキリストを信じるなら、罪が赦されて、永遠のいのちをいただき、天国へ行くことができるようにされているのです。まさに天国への希望によって、喜びに満たされて生涯を歩み、死の床にあっても天国を仰ぎ見て喜ぶことができるようにされていることが、私たちに対する神からの恵みなのです。
皆さんは、自分の人生において恵みを受けてきたでしょうか。才能に恵まれたとか、体力に恵まれたとか、よき伴侶や子宝に恵まれたという方があるかもしれません。それとは逆に、いろいろな意味で恵まれなかったという人もあるでしょう。しかし、罪からの救いという恵みはすべての人に等しく与えられます。そして、神は、その恵みをあなたに与えたいと思っておられます。今年のクリスマスが、この救い主に出会い、罪からの救いを受ける喜びの時となりますよう、お祈りしています。
<聖書のことば>
「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
(ルカの福音書 1章28節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
感謝とともに死を受け入れる
(ヨハネの福音書 3章16節)
エリザベス・キューブラー・ロスという米国の精神科医が、多くの末期がん患者との関わりの中で、人間は、最後まで成長できると言っています。そして、最後の段階での成長の中身とは感謝と受容であり、人にとって、最も受け入れがたいと思われる死を受け入れていく時に、これまで回りの人にあまり感謝を言わなかった人が、家族や病院のスタッフなどの回りの人に感謝を現すようになると著書の中で語っています。
多くの人々が、死を受け入れるために取る方法は、あきらめでしょう。「年だから」とか「順番だから」、「生きていても仕方がない」というような言葉をよく聞きます。しかし、あきらめは決して積極的な死の受容ではありませんし、このような死の受け入れ方では決して感謝は出てこないでしょう。誰も死後について教えてくれませんが、聖書だけは明確に死後のことについて語っています。まず、すべての人は、罪を犯したので、死後神のさばきを受けなければならないと語ります。もちろん自分は断じて罪人などではない、悪いことはしていないと皆さん思われるでしょう。しかし、神は、私たちの隠れた行いはもちろん、私たちのすべての言葉、心の思いにまで及びます。腹を立てたり、『ばか者』と言っただけで神のさばきに服さなければなりません。ですから、聖書は、「義人はいない、一人もいない」と言います。しかし、罪人を愛され、あわれまれる神は、唯一人類に罪からの救いの道を用意されました。それは、罪を知らないイエスキリストが、本来私たちが受けるべきさばきを受けてくださり、十字架にかかって苦しまれ、血を流し、死んでくださったということです。ですから、このイエスキリストを信じる時に、私たちの罪は赦され、私たちは天国へ行くことができるのです。イエスキリストを信じるクリスチャンは、死後天国へ行くことがはっきりしているので、積極的に死を受容していくことができます。そのように死を受け入れ、さらに神を信じることで、私たち自身が変えられることにより、今まで顧みることのなかった家族や医療関係者に対する感謝の念があふれてきて、回りの人々に感謝を表す人生に変えられるはずです。
今まで私たちは、どのような人生を送ってきたでしょうか。そして、これからどのような人生の最後を迎えるでしょうか。願わくは、天国への希望により死を受け入れ、回りのへの感謝をもって最後を迎えられる人になっていただきたいと思わされます。
<聖書の言葉>
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書3章16節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
私たちは神の被造物
大阪大学の名誉教授であり、淀川キリスト教病院名誉ホスピス長の柏木哲夫氏が、著書の中で、このように言っています。『よく「人体は小宇宙だ」と言われますが、まさにそのとおりです。人の体には約60兆の細胞があります。その細胞が生命を維持するためにいろいろな働きをします。血管は栄養分と酸素を運ぶという大切な役割を果たしています。体中に張り巡らされている血管を、毛細血管を含めて、ずっとつなぐと、なんと9万キロメートルになるのです。地球一周が4万キロメ-トルですから、地球をニ周と少しになります。もっとすごいのは脳です。大脳には140億個、小脳には千億の細胞があります。一つ一つの細胞は突起を持っており、合わせると100兆になります。この突起をつなぐと、月と地球を25往復になります。それぞれの細胞にはDNAが含まれていますが、それをつなぐと180センチになります。一人の人間が持っているDNAをつなぐと1000億キロ、地球と太陽を200往復となります。まさに人体は小宇宙です。さらに驚くのは、この小宇宙的な人体が、直径0.1ミリの卵子と0.06ミリの精子の合体から生まれるということです。まさに神業です。私は医学部での授業が進むにつれて、人間の体は神によって創られたと感じました。私の信仰の原点はここにあります。』(「いのちへのまなざし」いのちのことば社 p35,36参照)
神が、人を含めて存在している天地万物のすべての物を造られたというと、多くの人が非科学的だと考えるでしょうし、信じられないと思われるでしょう。しかし、私は決して科学は万能ではないと思っています。そして、科学は、確かに、体のそれぞれの器官がどのように動くかにより、生命を維持するということを説明するかもしれませんが、そもそも人間を含めて生物がどのように存在するようになったか、なぜ、少宇宙的人体が卵子と精子の結合により出来上がるのかを説明することはできません。むしろ、すべての物を造られた神がおられて、その神が、英知と知恵の限りを尽くして、小宇宙的と思える人体を造り上げ、それほどまでに一人一人を大切な存在として造られたということです。つまり存在している一人一人が、神に愛されている存在だということです。そして、神の創造を信じない人たちにとっては、人の存在も偶然ということになるのかもしれません。もし私たちの存在が偶然の産物であるとしたら、どこに人は存在の意味をみいだせばいいのでしょうか。むしろ、神に愛されて造られた私たちは、一人一人とても大切な存在だと思える時に、自分の命を大切にし、他人の命を思いやることのできる人になっていくのではないかと思います。
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
神を恐れよ
(伝道者の書 12章13節)
柏木哲夫氏が、京都で開催された「死の臨床研究会」での前大阪大学総長の鷲田清一氏の「死ぬこと、死なれること」というユニークな題での特別講演のことを紹介しています。「死ぬというのは、英語の文法でいう自動詞です。自動詞には本来受け身のかたちはありません。受け身のかたちがあるのは、彼をなぐる、彼になぐられるのように目的語を持つ他動詞です。ところが、日本語には自動詞に受け身のかたちがあります。死なれる、去られる、逃げられる、泣かれる、雨に降られるなどです。これらに共通しているのは具合の悪さです。」(柏木哲夫著 いのちのことば社刊p38参照)
私は、これを読みながら、具合の悪さというよりも、自分にとって、どうすることもできないことを、私たち日本人は、受け身で表現するのではないかと思いました。例えば、誰かの意志や決断を、私たちは、自分の意のままにできませんので、逃げられたり、去られたりします。私たちは、自分で、天気をコントロ-ルできませんので、雨に降られるわけです。つまり、自分は決して万能ではなく、自分の回りには、自分の力でどうにもならないことが、いくらでもあるということです。
一方で、聖書の神は、全能の神だと言われています。すべてのことを自動詞で語られ、聖書の神に受け身のかたちは存在いたしません。神は、天気をも支配しておられ、人にいのちを与え、また、いのちを終わらせることもできるお方です。ですから、聖書では、神を恐れよと言います。神を恐れるとは、神を怖がるということよりも、神の前に謙遜でいなさいということです。つまり、自分で何でもできるとは思わず、自分には、できないことがあることをおぼえて、自分にできないことは、神にゆだねなさいということです。その時に、私たちは、さまざまなストレスや心配、不安から解放され、必ず平安な人生を歩むことができるのです。
<聖書のことば>
「神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」
(伝道者の書12章13節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
罪を赦す神
(詩篇 25章7節)
今年の6月28日に、私たちの教会で洗礼をお受けになった方がおられます。その方が教会に来られるようになったきっかけは、罪を赦す神に興味を持ったということでした。その方のクリスチャンのご友人が腹を立ててしまったことで、神に赦しを求めるとともに、自分にも謝罪してきたことので、人の罪を赦す神というのはどのような方なのか知りたいと思われて教会に来られたのだそうです。
恐らく多くの方が別に謝るようなことではないではないかと思われるかもしれません。また腹を立てたくらいでいちいち謝っていたのではきりがないと思われるかもしれません。しかしイエスキリストは、「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。」と言われました。つまり、神の律法からすると、腹を立てるということは、さばきの対象となるほどに大きな罪だということです。神の前での罪の基準は、行いはもちろんですが、その言葉や心の中の思いや考えにまで及ぶからです。私たちも、もしかすると自分の行いや言葉に気をつけて生活しているかもしれませんが、なかなか自分自身の行動や言葉をコントロールすることは難しいことですし、ましてや、私たちは決して悪い思いや考えを持たないようにと心をコントロールすることは、なかなかできるものではありません。さらに神の基準はあまりにも高いので、人は誰もその基準に達することはできないと聖書は言います。ですから、すべての人はもしそのままの状態であったならば、全員が神のさばきを受けなければならないということになります。しかし神はただ罪を罰するだけではなく、罪人である私たちをあわれんでくださるお方です。それゆえ私たちの罪を赦すために、イエスキリストを地上にお遣わしくださいました。そして罪を知らないキリストが十字架にかかることで、私たちの罪のさばきを受けてくださったので、イエスキリストを自分の罪からの救い主として信じるならば、罪が赦され、さばきを免れるのです。これがキリストにある救いです。
聖書に出てまいりますダビデという人も、神が命じられたとおりに歩まなかったことのゆえに、そむきを覚えていないでくださいと赦しを願い求めています。もし自分も何か神の前に赦されなければならないことがあると思われる方は、ぜひ神に赦しを願ってください。イエスキリストのゆえに、どんな罪でも必ず赦されます。そして赦されることの幸いを必ず経験することができるのです。
<聖書のことば>
「私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。」(詩篇25篇7節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
キリストにある再創造
(コリント人への手紙第二 5章17節)
ある胃がん末期の患者さんが入院されていたそうです。すでに、がんが肝臓にまで転移していて、多少の延命処置をするのが精一杯の状態でした。その方の人生は、水商売を転々として、数回の離婚歴のある非常にすさんだものでした。人を信用しない性格で、看護師の間でも「海千山千のおばさん」と、皆に、うわさされていた人でした。神経質そうで、人生の苦労を刻みつけたような顔をされ、睡眠薬を飲まなければ眠れず、鎮痛剤を用いても、なかなか痛みは治まりませんでした。いつもイライラしていて、誰にも心を開かず、医師や看護師にも不平不満ばかりを言っていたようです。
その方は、キリスト教系のホスピスに入院されていたそうですが、館内に流れている聖書の朗読や讃美歌を聞くうちに、イエスキリストを信じて、信仰に入りました。それから、その方の病室に入った医師は、彼女の変化に驚いたと言います。まず、その顔です。それまで渋面を作っていた眉間のしわが消え、何とも言えない美しい、平安な顔があったそうです。しかも、その方が「先生、心が平安になりました。」痛み止めの量も回数も全く同じでしたが、「痛みが取れました。」と言われたのです。そして、最期に、この方の残した言葉が、「ありがとう。本当にお世話になりましたね。今まで文句ばかり言って、ごめんなさい。」でした。(「安らかな死を支える」柏木哲夫著 いのちのことば社 参照)
その方の姿は、まさに信仰が、人に対して、どれほどの影響を持つかということを思わされます。もし、彼女が、イエスキリストを信じなければ、眉間にしわを寄せ、誰にも心を開かず、不平や不満を口にしながら、亡くなったことでしょう。「人は生きたようにしか死ねない」と言われているとおりです。人は、そう簡単に自分の内面を変えることはできません。自分の欠点や性格を、簡単に直すことができるのであれば、誰も苦労はしませんが、なかなかうまくいきません。しかし、神は、イエスキリストにあって、全く新しい人へと造り変えることができます。人にはできないことが、神にはできるのです。先ほどの方のように、人が驚くほどの変化を経験することができるのです。そして、神が造り変えることのできない人は誰もいません。唯一の条件は、あなたがイエスキリストを自分の罪からの救い主として信じるかどうかです。
<聖書のことば>
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
(コリント人への手紙第二 5章17節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
聖書の語る天国
(ヨハネの黙示録 21章11~21節)
誰しもが、生まれた以上は死を経験することとなります。この地上で、永遠に生きる人は誰も居ません。ですから、ある意味、死というのは、私たちにとって非常に自然なものと言えるでしょう。しかし、多くの人が、死を避けたがり、また恐れます。ですから、死を連想させる数字の4をなるべく使わないようにいたします。あるアンケート調査によれば、「あなたは死後の世界があると思いますか」との質問に、「ある」と答えた人が23%、「ない」と答えた人が30%、「分からない」と答えた人が47%でした。そして「ある」と答えた人には、第二問として「それでは、あなたは死後の世界にどのような印象を持っていますか」との質問を用意し、「明るい」「暗い」「不気味」の三つから選んでもらったそうです。すると、この問いに対して、「明るい」を選んだ人が18%で、残りの82%は「暗い」とか「不気味」という結果になりました。結局、死後の世界がよく分からない不安感から、人は死を恐れ、死について考えることを避けようとする傾向が強いのではないかと思わされます。
聖書は、はっきりと死後の世界における天国の存在を明らかにしています。それは、まさに光に満ちた麗しい国です。しかし、それと同時に、天国は聖なる都とも呼ばれています。つまり、そこには、罪による暗やみが消えうせ、すべての汚れや悪がないので、神の栄光の光が輝くのです。ですから、罪ある人は天国に入ることはできません。もちろん、皆さんは自分は罪人と呼ばれるような悪人ではないと思われるかもしれません。しかし、聖書を見ますと、私たちは、神の御前に、行動と口にする言葉と思いにおいて、罪を犯していると言われています。ですから、この神の前に、自分の正しさを主張して、天国に行くことのできる人は誰もいませんでした。しかし、神は愛とあわれみに満ちておられるお方です。その神が、私たちの罪を赦して、天国へ行くための道を備えてくださいました。それは、罪のないイエスキリストが、私たちの受けるべきさばきをその身に受けてくださり、十字架にかかって死んでくださったのです。イエスキリストが、私たちの受けるべき罪のさばきを受けてくださったのですから、私たちは二重に罪の罰を受ける必要がありません。ですから、私たちの罪は赦されるのです。そして、罪を赦された者として、イエスキリストを信じるならば、天国へ入ることができるのです。ここに、不可解であった死後の問題の解決があり、私たちは死を恐れず、希望と確信を持って、日々歩むことができるようにされるのです。まさに天国の門は、すべての人に、神のあわれみにより、イエスキリストを信じる信仰を通して、今も大きく開かれているのです。
<聖書のことば>
「都には神の栄光があった。その輝きは高価な宝石に似ており、透き通った碧玉のようであった。 (中略)その城壁は碧玉で造られ、都は混じりけのないガラスに似た純金でできていた。都の城壁の土台石はあらゆる宝石で飾られていた。また、十二の門は十二の真珠であった。どの門もそれぞれ一つの真珠からできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。」
(ヨハネの黙示録 21章11~21節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
聖書のことばは、人に救いを与える
(イザヤ書 55章10-11節)
雨や雪が降ることには目的があります。それは、地を潤すことで植物を成長させ、飲み水となるということです。いずれにしたしましても、降った雨や雪が、何の役にも立たず、そのまま蒸発して天に帰るということはありません。それと同じように、神もご自身のことばを聖書というかたちで明らかにされました。そして、聖書を通して、神は、ご自分の望まれること、成功させたいことを行われます。それは、人を罪から救うということです。
まず私たちが罪から救われるためには、自分が罪人であることを自覚しなければなりません。そのために聖書は、私たちが罪人であることを明らかにします。特に、聖書は私たちが、行いだけではなく、言葉においても思いにおいても罪を犯していると言います。そして神は義であり聖なる神ですので、そのような罪を見過ごされることはありません。必ず私たちの罪が裁かれる時が来ます。しかし、神はあわれみ豊かな神であり、罪は嫌われますが、罪人は愛される神です。それゆえに神は何とかして人の罪を赦して、永遠のいのちを与え、罪の裁きから来る永遠の苦しみから人を救いたいと思われました。そのために、神は、罪を知らないイエスキリストをこの地上にお遣わしになり、私たちの受けるべき裁きを、十字架の上でイエスキリストに負わせることにより、完全な罪の赦しを与えようとされたのです。ですから、後は、私たちがイエスキリストを信じれば良いだけにされました。
これらのことは、すべて聖書の中に記されています。そして、神は、このイエスキリストにある救いを人類に知らせるために、私たちに聖書を与えてくださいました。そして、私たちが、この聖書のことばを信じるなら、神の救いが、私たちに現実のものとなるのです。まさに雨や雪が地を潤し、すべての生き物の飲み水となるように、聖書のことばは、私たちの心を潤し、罪からの救いと永遠のいのちを与えるという神の意図したことを成し遂げます。
しかし、残念ながら、もし、私たちが聖書のことばを聞き流したり、信じなければ、それは単なることばのままであり、何の意味も持ちません。ですから、ぜひ、聖書のことばを通して語られるイエスキリストにある救いを、信仰をもって受け入れていただきたいのです。
<聖書のことば>
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
(イザヤ書 55章10-11節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
イエスキリストの死からのよみがえり
(マルコの福音書 16章6節)
4月5日は、イースターです。イースターは、イエスキリストが十字架にかかって死なれましたが、三日目によみがえられたことを、ともに喜び祝う日です。キリストの死からのよみがえりなど信じられないと、多くの人が思われるかもしれません。しかし、いまだかつてキリストの死体を見たり、発見したりできた人は誰もいません。まさに、キリストの死体がないことが、キリストのよみがえりの証拠と言えます。さらに、キリストが十字架にかかってから2000年以上経ちますが、ここまでキリスト教が存続し、全世界的に広まったのもその理由と言えます。もし、キリストが復活されず、一人の犯罪者として十字架にかかることで、33年間の生涯を終えたとしたら、キリストはユダヤ地方に現れた一宗教家で終わっていたことでしょう。しかし、イエスキリストのことが全世界に言い広められて、世界中で最も多い約20億の人々がキリストの誕生や復活を祝い、キリスト教の信仰が、これほど長く続いていることが、キリストがよみがえられた証拠ではないかと思います。それは、キリストの復活を目撃した弟子たちが、キリストの語られたことはすべて真実であると確信し、キリストの救いを各地に宣べ伝えた結果なのです。この他にも、私は、キリストがよみがえった証拠をいくつもあげることができます。
それでは、キリストの死からのよみがえりと私たちとどのような関係があるのでしょう。それは、キリストが死からよみがえられたことにより、私たちも死後よみがえることの保証となってくださったということです。いつかは分かりませんが、キリストを信じる者は、死に打ち勝って新しい永遠のいのちによみがえることができるのです。ですから、キリストを信じる者は死を恐れる必要がなくなりました。死の向こうに永遠のいのちの希望を持って歩めるのです。ぜひ、一人でも多くの方々に、この死によってもなくならない希望を持っていただきたいと願わされています。
<聖書のことば>
「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」(マルコの福音書16:6)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
どうにもならないことありませんか?
(マタイの福音書 8章3節)
聖書の中に、重い皮膚病にかかった人が出てまいります。この病気に対する当時の社会的偏見により、この人は、友人からも見離され、社会からも見離され、家庭を営むこともできず、極貧の生活の中にいました。どうすることもできなかったこの人は、思い切ってイエスキリストの御前に出ます。そして「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」と言い、キリストによって、自分がいやされることを願いました。もしかすると、いやしてくださるかどうか半信半疑だったかもしれません。それでも、この人は疑いや迷いもすべてをイエスにおゆだねしようとしたのです。
イエスは、手を伸ばして、この人にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われ、この人の病をいやされました。このキリストによる病のいやしの記事は、キリストが、神の御子であることを明らかにしています。つまり、地万物を創造するほどの力によって、重い皮膚病をもいやされました。それと同時に、キリストは、あわれみをもって、その力を病のいやしのために用いられました。いわれのない偏見に苦しんでいたこの人が、きちんと社会復帰して、普通の生活を営むことができるようにしたのです。結局、重い皮膚病に苦しんでいたこの人は、自分でどうすることもできないことを解決していただこうとして、イエスキリストのもとへ行きました。それが、イエスキリストへの信仰となったのです。カトリック教徒の劇作家である矢代静一氏は、自分が、学生時代に、一人の娘さんに声をかけ、恋心を募らせたままで、いたずら半分に姿を消してしまいます。そして、その娘は、恋焦がれる思いの中で、病気にかかって死んでしまうのです。彼は、そのことを誰にも言えないままで苦しみ悩んできました。そして、その過去は、自分の影法師みたいなものだと言うのです。影法師は日が当たっている限りついてくる、その影法師がいやで、日陰に座ることもあるが、いつまでもそうするわけにはいかないので、日の当たるところに出ると、やはり影法師がついて来るというのです。そして、矢代氏は、自分の妻にそのことを打ち明け、カトリックの司祭に懺悔して信仰に導かれたということです。(加藤常昭説教集「マタイの福音書2」参照)
私たちにも、自分でどうにもならないことがあるはずです。人間関係や先ほどの矢代氏のように、自分でしてしまったことで、どうにもならないことがあるはずです。もし、そのようなことがあれば、私たちはキリストのもとへ行けばいいのです。聖書に名前も記されていない、無名の重い皮膚病の人を、キリストがあわれまれたように、キリストは、私たちにも目をとめてくださいます。確かに自分の存在は、回りから見ると小さいかもしれませんが、それでもキリストの目には尊い存在です。そして、私たちを悩ませている問題を、解決したいと待っていてくださいます。ぜひ、このイエスキリストに、皆様方も出会っていただきたと願います。
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
癒えない痛みの中で
(へブル人への手紙 2章18節)
2015年1月17日で阪神大震災が起こってからちょうど20年が経ちました。私は、その時、東京にある神学校で牧師になるための学びの途中にありました。大きな地震が起こり、関西方面で甚大な被害が出ていることを知った一人の学生の提案により、学校をあげて神戸へ災害支援に向かうこととなりました。震災から2、3日後だったと思いますが、その悲惨な状況に言葉を失いました。その光景は、今も私の目に焼きついています。あれから20年の時を経て、神戸の街は驚くような復興を遂げました。しかし、その一方で家族を亡くされた方々が、「震災で亡くした娘のことを忘れられません。」と言われて涙をぬぐっておられるのを見て、愛する者を亡くした悲しみは決して時がいやすことがないことをあらためて思わされました。
私も経験したことがありますが、愛する人を亡くされた方のそばにいるとどう慰めていいのか分らず、ただ沈黙してともに泣くしかできないと思わされたりします。「感じている痛みは、そのうち時が解決しますよ。いつの間にか消え去りますよ。」と言えればいいのですが、決してそのようなことはない現実があります。確かに同じ痛みをずっと持ち続けることはないかもしれません。しかし、その人の心から痛みが消え去るなどということは、ありえないことだとあらためて思わされます。
愛する者を亡くしたからこそ、心に痛みが生じるのです。自分が関心のない人の生死は、決して私たちの感情を動かすことはしません。多くの人々が、イエスキリストは、何かの罪を犯して、自業自得のかたちで十字架の上で死なれたと考えます。しかし、聖書ははっきりとキリストは罪のないお方だと言います。その罪のないイエスキリストが、十字架の上で肉体の痛みを経験するとともに、罪を知らない者がすべての罪人の罪を負い、いのちを捨てなければならない精神的な痛みを経験しました。それは、キリストが、すべての人を愛し、その罪を赦そうとしたがゆえに、その身に負われた痛みでした。キリストは確かに死なれましたが、三日目によみがえられました。そして、今も生きておられます。その痛みを経験されたイエスキリストが、今も悲しみの中にある人を慰め続けていてくださるのです。まさに痛みを経験されたまことの神であり、まことの人であるイエスキリストだけが、本当の意味で悲しんでいる人の痛みを理解した上で、本当の慰めを与えることのできるお方なのです。
(「神を信じて何になるのか」フリップ・ヤンシー著 いのちのことば社 一部参照)
<聖書のことば>
「主(=イエスキリスト)は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」
(ヘブル人への手紙 2章18節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
悩みの中に現れる神の真実
(コリント人への手紙第一 10章13節)
渡辺和子さんが、ご自身の著書に次のように書いておられます。「人が生きていくということは、さまざまな悩みを抱えるということ。悩みのない人生などありえないし、思うがままにならないのは当たり前のことです。もっと言えば、悩むからこそ人間でいられる。それが大前提であることを知っておいてください。」それに続いて渡辺さんは、子どもの障害を例にあげながら、悩みの中には変えられるものと変えられないものがあると言います。(「置かれた場所で咲きなさい」幻冬舎p25,26参照)つまりどんなに悩んでも、悲しんでも子どもの障害をどうにかすることはできません。しかし、その子どもに自分がどう向き合っていくかは変えることができると言います。自分の心の持ち方は、自分で変えることができるのです。
キリスト教の教えは、神を信じれば、何か良いことがあるとか、悩みも苦しみもなくなるというようなものではありません。クリスチャンになっても、さまざまな問題を通る方々もあります。大きな病気になることもあるでしょう。事故に遭うかもしれません。希望の学校に入れないとか失業することがあるかもしれません。大きな試練の中を通されることもあります。しかし、神は、決して私たちを耐えられないほどの試練に会わせられることはありません。必ず信仰によって、どんな困難をも乗り越える力を与えてくださいます。また回りの状況が苦しいままで変わらなくても、神が私たちの心を変えてくださることにより、困難をも平安をもって乗り越えることができるように強くしてくださいます。
もちろん、神が、私たちの祈りに答えて、私たちの悩みを解決してくださることもあるでしょう。また、状況が劇的に改善するということがあるかもしれません。しかし、回りの状況は良くならなくても、神への信仰と祈りによって、悩みの中でも心が変えられ、明るい気持ちで一日一日過ごすことができたなら、これこそが、試練からの脱出の道であり、神の真実を現わしていると私は思います。
<聖書のことば>
「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 」
(コリント人への手紙第一 10章13節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
怒った時の対処
(箴言14章29節)
人には怒りっぽい人もいれば、柔和な人もいます。しかし、最近、私があらためて思わされることは、怒りが単なる怒りで終わらないということです。よく「きれる」などという表現が使われますが、怒りがエスカレートすると暴力におよぶこともあります。先日、盲目の人が使っていた杖にころんだことに腹を立て、暴力をふるった人がいたようです。結局、自分の怒りがコントロールできなかった結果です。
聖書の中の箴言14:26に「怒りをおそくする者」ということばが出てまいります。このことばは、もともと「鼻を長くする」という意味です。もちろん、実際に私たちの鼻が長くなったり、短くなったりするわけではなく、何か、私たちが怒りを引き起こすような場面に遭遇したり、そのような人と出会った時に、一呼吸置くとか、ゆっくりと息を吸い込むとか、そのようなちょっとした間を持つということです。ですから、この場合、怒りやすいというのは、何かが起こった時に、一呼吸入れないで、怒りにまかせてどなりつけたり、暴力をふるったりすることだろうと考えられます。そして、怒りは、しばしば回りの人をも巻き込んで争いにまで発展します。それは、池に石を投げると、その波紋がどんどん広がっていくことに似ています。天声人語に「日々の波風程度なら仕方がない。ところが、昨今、子の前で暴力をふるう面前DVが急増しているという。子ども自身が暴力を受けなくても、目の前で見ることで深い傷を負う。れっきとした児童虐待にあたる。」とありました。(2014年10月3日付 朝日新聞 天声人語から引用)まさに怒りから来る暴力や争いは、家庭の中で配偶者や当事者でない子どもにまで悪影響を及ぼすということです。
聖書は続けて「怒りをおそくする者は、英知を増し」と言います。英知というのは、とっさの時に電光石火のように出てくる知恵です。実際に怒っている時に、冷静になって物事を考えることはできませんから、書物などを通して得た知識などは何の約にも立たないでしょう。ですから、私たちが「鼻を長くして」一呼吸置いて考えるべきことは、確かに相手にも非があったかもしれない、しかし、自分にも非がなかったかということです。例えば、夜おそく帰宅する夫に「何時だと思ってるの?」とか「いいかげんにして」などと言うよりも、「もう少し早く帰って来てくれるとうれしいんだけど」とか「あなたの体が心配なの」と言えば、ずいぶん争いが減るのではないでしょうか。
怒りを抑えることは、口で言うほど簡単ではないと思われる方もあるでしょう。それなら私たちは神様の助けを祈り求めるべきです。神様は、必ずあなた自身を変えて、怒りをおそくるす者とし、怒りをおそくする知恵と心を与えてくださいます。神を信じることにより、私たちが回りに争いの種ではなく、平和の種を蒔く者でありたいと思わされます。
聖書のことば
「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」
(箴言14章29節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
思い煩っていませんか
(ペテロの手紙第一 5章7節)
ノートルダム清心女子大学理事長の渡辺和子さんが、次のように言っておられます。「人間は不完全で弱い者ですから、すべてを自分一人でやり遂げることは不可能で、他人にゆだねる部分、頼んでしてもらうこと、分担することが必要です。生まれつき勝ち気なせいもあって、他人に頭を下げて頼むことが嫌いな上に、幼い時から、「自分のことは自分でしなさい。」と、厳しくしつけられていた私は、人にゆだねることが下手でした。その私が、思いがけず、三十六歳の若さと経験不足のまま、四年制大学の学長に任命されたものですから、いろいろ苦労をいたしました。管理職にある者は、何を、どこまで人にゆだね、自分は何をすべきか識別できる人でなければならなかったのです。その日から八十五歳の今日に至るまで、ずっと管理職にあって、数え切れない多くの失敗を重ねましたが、ゆだねるということについても多くのことを学びました。」(「置かれた場所で咲きなさい。」幻冬舎 p19~20)
ここで、渡辺和子さんが、ゆだねるべきこととして語っておられるのは、ご自分の仕事に関してでした。聖書の中に、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」とのことばがあります。思い煩いとは、考え悩んだり、苦しんだりすることです。特に、将来のことについて、私たちは、思い煩います。自分が病気になったらどうしようとか、子どものこと、老後のこと、経済的なことなどさまざまなことで思い煩います。時には、家族間や友人との関係、嫁と姑女との関係などさまざまな人間関係で思い煩うこともあるでしょう。誰にも言えず人知れず思い煩うのは苦しいものです。そのような時に、自分のことを気にかけつつ、親身に自分の話しを聞いてくれる人がいれば、心強く思うでしょうし、肩の荷が下りる思いがすることでしょう。しかし、思い煩っているあなたのことを、神は気にかけて心配してくださっているのです。神は、私たちがどんなことで思い煩っているかをご存じの上で心配してくださっているのです。それは私たちのことを愛してくださっているからです。愛の反対は無関心です。愛するがゆえに心配してくださっているのです。さらに、神は、この天地万物のすべてを創造された力ある神です。できないことがないほどの全能の力を持っている神が、「あなたがたの思い煩いをいっさいゆだねなさい。」と言っておられるのです。その神の招きに答えて、あなたの思い煩いをすべて神におゆだねしませんか。しかし、神についてよく知らなければ、ゆだねる気になれないと思われる方があるかもしれません。ぜひ聖書から、さらに神のことを知ってください。そうすれば、いっさいの思い煩いを神にゆだねることができ、必ずあなたの人生も変えられます。
聖書のことば
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
ありのままの姿を見せられて
(箴言4章23節)
クリスチャン作家の三浦綾子さんが、自分がキリスト教の信仰を持つようになった過程を次のように説明しています。「もしかしたら、私には罪の意識というものが欠けているのではないだろうか。罪の意識がないということほど、人間にとって恐ろしいことがあるだろうか。殺人をしても平気でいる。泥棒をしても良心の呵責がない。それと同様に、私もまた、人の心を傷つける行為をしても胸が痛まないのだ。こう思ったとき、私は『罪の意識がないのが、最大の罪ではないだろうか』と思った。そして、その時、イエスキリストの十字架が私なりにわかったような気がした。」(「道ありき(青春編)」三浦綾子著 新潮社 P173)
このように思ったきっかけはささいなことでした。三浦さんが入院していた時に、隣のベッドにいた人が、ご主人が会社の女性とコーヒーを飲みに行ったことに対して不満をもらしたことに対して同情し、あいづちを打った時に、はっとしたというのです。自分には前川正という婚約者がありながら妻のある西中一郎の見舞いを喜んで受けている。そのことを前川には知らされているとはいえ、彼が不快に思ったり、傷ついているかもしれないと思ったというのです。しかし、どうしても、それほど悪いことをしているという切実な思いがわいてこないどころか、西中一郎とは、このまま友情を暖め続けていたいと思ったと言います。そこから先ほど述べたキリスト教の信仰を持つに至った過程へとつながっていくのですが、「なんだ、そんなことか。」と思われるかもしれません。しかし、私たちはどこかで人よりも自分のほうが大切になってしまったり、自分の願いや希望のほうが優先されてしまうのです。自分の両親や妻、夫、子どもたちに対しても不快に思うとか傷つけるということに対して、悪いことをしているという切実な思いがわいてこない、それは罪意識の欠けであり、恐ろしいことかもしれないということです。もちろん、お互い様ではないかという部分もあるかもしれません。だからと言って、自分のしたことがすべて赦されるとは思えません。それは自分の物が盗まれたから他の人の物を盗んでもいいということにならないのと同じです。
三浦綾子さんが罪だと感じたこと、それは人の目には見えない、隠れた自分の内面でした。もし、私たちが、何かのかたちで自分の内面が人前で明らかにされても、自分は正しい人間だと主張できる人がいるでしょうか。ですから聖書は「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人もいない。」と言います。ここで思い出していただきたいのが、三浦綾子さんの「その時に十字架の意義が私なりにわかったような気がした。」との言葉です。そのような私たちの罪を赦すために、イエスキリストは十字架にかかり、いのちを捨ててくださいました。そして、私たちを内側から変えてくださり、本来歩むべき義の道を歩むことができるようにしてくださるのです。
私たちのありのままの姿とは、人の目から隠された内側です。自分が普段何を考え、何を思っているかを思い出してみると自分の本当の姿が見えてきます。そこが変わるとあなた自身が全く変えられていきますし、神はあなたの内側を変えて全く新しい人生を歩ませてくださるお方なのです。
<聖書のことば>
力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。
(箴言4章23節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
神の御手により造られた私たち
(詩篇139篇13~16節)
クリスチャンは、もちろん神がいると信じ、その神は人間も含めて天と地にあるすべてのものをお造りになったと信じています。そして無神論者の人たちも「神はいない。」と信じています。つまり神の存在を証明できる人はいないわけですから、「神はいる」と信じるか、「神はいない」と信じるかのどちらかです。そしてこの世にあっては神がいないと信じるほうが楽です。なぜなら、太陽、月、星、宇宙や私たちの回りのあらゆるもの、自然や植物や動物も自然にできたと信じればいいわけですから。そして、そのように確信することができれば、皆が無神論者です。しかし私たちは本当にそのように信じられるでしょうか。例えば私たちの体はすべて異なる206個の骨から構成され、血管は一本につなぐと約10万キロメートル、筋肉は300種類以上、人類は60兆個の細胞からできているのだそうです。人間の体の構造の精巧さと複雑さを考え合わせるなら、少なくとも人が偶然に存在しているとはとても思えません。そう考えますと、無神論という考え方が決して当たり前のものではなく、無神論という考え方を維持することは決して容易なことではないことがお分かりいただけるのではないかと思います。(「神なんていないという前に」いのちのことば社刊より加筆して引用)私が大学生の時に物理学の教授が、講義の最後に「自分はクリスチャンではないけれども、宇宙のことに関して研究すればするほど神がいるのではないかと思えてくる。」と言いました。私たちの回りにあるものを注意してみれば、そこに私たちは確かに神の存在を知ることができるのではないでしょうか。
聖書は、神が人を造られた様子を美しく記しています。詩篇139篇13節に「それはあなた(=神)が私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。」とあります。まさに神が、異なる206個の骨、一本につなぐと約10万キロにもおよぶ血管、300種類以上の筋肉、そして私たちを形成する60兆個の細胞はすべて神が造られたのです。さらに16節では、「あなた(=神)の目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。」とあります。神様は胎児の状態の一人一人を見ておられました。それは愛といつくしみに満ちたまなざしであり、弱く無防備な私たちを常に見守ってくださるまなざしでした。その神様は私たちを最もすばらしい存在として造ってくださいました。自分が容姿や性格で欠点だと思ったり、人と比べて劣っていると思うことがあっても、それは神様が私たちに最善のものとして備えてくださったのですから、すべてを喜び、神様に感謝したいと思います。しかし私たちは自分の外見や見えるところには、非常に気を配りますが、もっと大切な自分の内側には無関心です。せっかく神様がこの世にあって唯一のあなたとしてすばらしく造られたのに、心の中の悪い考えやねたみ、怒り、嘘、偽善などによってすべてが台無しになってはいませんか。そして神様がこの世で唯一のあなたに、あなたしかできないことをさせようとしているのに、神を離れて人生の目的を見失ってはいませんか。この神はあなたを造られただけではなく、その心にある罪をも解決し、罪から来る死後のさばきからの救いも与えることのできるお方です。
忙しいからと神のことを考えないようにしたり、神のことをそのままどこかに押し込めたりせず、ぜひ真剣に神のことを考え、神を知ることができるように求めていただきたいと思います。もしかするとこのようなかたちで神のことを知らされなければ、神のことを意識せず人生を終わってしまったかもしれません。しかし自分のことを造られた神がおられ、その方が自分でどうすることもできない罪や死に対しても解決を与えてくださるお方であることを知ることができました。これは神の恵みです。ですから神の恵みをむだにすることなく、ぜひ神を求め続けていただきたいと思わされます。
聖書のことば
「それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」
(詩篇139篇13~16節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
置かれた環境に振り回されない生き方
(エレミヤ書29章11節)
ノートルダム清心女子学園理事長の渡辺和子さんが、自分が岡山県のノートルダム清心女子大学の学長になった時の思い悩んだ日々の回想しつつ語っておられることを少し引用させていただきます。「初めての土地、思いがけない役職、未経験の事柄の連続、それは私が当初考えていた修道生活とは、あまりにもかけ離れていて、自信を喪失し、修道院を出ようかとまで思いつめていた私に、一人の宣教師が一つの短い英語の詩を渡してくれました。その詩の冒頭の一行、それが「置かれたところで咲きなさい」だったのです。私は変わりました。そうだ。置かれた場に不平不満を持ち、他人の出方で幸せになったり、不幸せになったりしては、私は環境の奴隷でしかない。人間として生まれたからには、どんなところに置かれても、そこで環境の主人となり自分の花を咲かせようと、決心することができました。それは私が変わることによってのみ可能でした。(中略)結婚しても、就職しても、子育てをしても、「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況で咲く努力をしてほしいのです。」(「置かれた場所で咲きなさい」渡辺和子著 幻冬舎)
ここでご紹介した渡辺和子さんのように、私たちは異なった環境に置かれる時、またさまざまな環境の変化の中で、心の中にさまざまな不平や不満が出てくることがあります。また、さまざまな思いわずらいによって心が落ち着かないという経験をされた方もあるでしょう。また自分の置かれている環境ではやる気が出ないという人があるかもしれません。ここで大切なことは先ほども引用しましたように、まず自分自身の置かれた環境で咲く努力をするということです。もし新しい場所であいさつをしてくれない人がいれば、自分からあいさつをすることができるでしょう。また自分の置かれている所で努力すれば、時間はかかるかもしれませんが、見ている人は見ていて正当な評価をしてくれるでしょう。しかし自分ではどうすることもできないことがあります。例えば人の態度や気持ちは私たちの努力では変えることができません。自分にできないことは神様にゆだねていくのです。ですから聖書は「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」と言います。聖書でゆだねるというのは、果報は寝て待てとばかりに、自分は何もしないで神様に良いようにしてくださいとお任せすることではありません。自分にできることは精一杯行い、自分にできないことは神にゆだねていくのです。そして神様にお任せするならば、私たちは神様がどのような方かを知らなければなりません。神は天地万物を造られたほどの力と知恵を持っている方です。それと同時に、神は私たちのことを愛してくださるお方です。その神様が私たち一人一人のために計画を持っておられます。それは平安を与えるものであり、将来と希望を与えるものだと言われています。
今置かれている場所が自分にとってつらい所であったり、苦しい所であったり、なぜ自分がこのような所にいなければならないのだと思えるような所であったとしても、神は私たちにそこで平安を与える計画を持ち、その計画は将来と希望を与えるものだと言われます。私たちが無理に花を咲かせようとしなくても、神がその置かれた場所で花を咲かせてくださることを信じて、置かれた場所で、また人生においてすばらしい花を咲かせてください。
聖書のことば
「わたし(=神)はあながたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げーそれはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」
(エレミヤ書29章11節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
本当の自由
(ヨハネの福音書8章32節)
サンフランシスコの市庁舎前ではホームレスが増えて、その数が100人以上になり、大勢の観光客が来るのに美観を損ねるということで問題となりました。市は悩んだ末に、彼らに住居を無償で提供することにしました。ところが、ホームレスたちは、市庁舎前の広場に集まって、反対デモをし、「我々にどこででも寝られる自由を」「居住の自由を」「広場で寝る自由を」などと訴えたそうです。それで、市側もどうすることもできなくなり、今でも多くの人々が市庁舎前の広場で寝泊りしているのだそうです。(「マンガ 神を信じるってどういうこと?いのちのことば社発行」参照)あらためて自由とは何かということを考えさせられる出来事です。
私たちは、日本人として、さまざまな自由が保証されています。例えば言論の自由、集会・結社の自由、職業選択の自由、居住・移転の自由などです。ですから、私たちは、生活において不自由を感じるということはないでしょう。しかし、イエスキリストは「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」(ヨハネの福音書8章34節)と言われました。つまり、キリストは、罪という言葉を用いて、私たちの内側が貪欲、自己中心、ねたみ、憎しみ、愛のない冷たい心などによって縛られた奴隷状態にあると言われたのです。人とのもめごとや争いを好む人は誰もいませんし、誰しもが、回りの人たちに愛をもって優しく接したいと思っているはずです。しかし、なかなかそうはできない現実があります。人間関係において、自分のいやな性格や心を直したいと思っても容易ではありません。それに対してキリストは「真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネの福音書8章32節)と言われました。真理とはイエスキリストご自身と考えることができるでしょう。つまり、自分を罪の奴隷状態から救ってくださる方としてイエスキリストを信じる信仰によって、私たちが自分でどうすることもできなかった罪から解放され、内面の自由を経験することができるのです。私も、クリスチャンになる前には、自分の怒りやいらだちが抑えきれず、回りの人たちに暴力をふるっていました。まさに私の心は怒りやいらだちの奴隷状態でした。しかし、イエスキリストを自分の罪からの救い主として信じた時に、私の内側が変えられ、新しい自分として人生を歩み出すことができ、心の自由を経験することができました。
信仰を持つと不自由になるのではないかと言う人もいます。あれもするな、これもするなと言われそうでというわけです。もちろん、キリスト教の信仰によって新しい人生を始めるわけですから、さまざまな心配もあるでしょう。しかし、キリストを信じることにより、間違いなくより良い人生が約束されています。それをすべてのクリスチャンが経験し、お勧めしているのです。寒くても広い所で寝るのが自由でいいと思っていても、一度家に入って暖かい布団の中で寝てみると、こちらの方が快適だと思われるでしょう。イエスキリストを信じることによる罪の赦しの幸い、罪の奴隷状態からの自由をぜひ経験していただきたいと願います。
聖書のことば
「真理はあながたを自由にします。」
(ヨハネの福音書8章32節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
死の恐れからの解放
(ヘブル人への手紙2章14、15節)
私がまだ小学生だった時に、お寺に遠足に行きました。その時に、小さなほこらの中にあった地獄と極楽の絵を見ました。私は、自分が地獄に行くに違いないと思い、死ぬのが恐くなり、しばらくそのことが頭から離れませんでした。
私たちの間では、死はタブーとされ、「エンギが悪い」などと言われたりします。ですから、4という数字は、死を連想させるということで、病院などには4階はありません。そのようにして、人々は死について考えないように、また死を避けながら生きています。それは人が本能的に死を恐れるからです。しかし、教会では常に死への心備えが語られます。というのは、キリストへの信仰により死後のさばきからの救いが与えられ、死は決して私たちに恐怖を与えるものではなくなるからです。
そもそも「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」と聖書は言います。私たちの行動はもちろん、言葉や思いまで知っておられる神の前に、自らの正しさを主張できる人は誰もいません。すべての人が神の前には罪人です。それでは、さばきを免れるためにどんな善行を積めばいいのかと思われるかもしれませんが、あまりにも神の基準が高すぎて、それに到達できる人は誰もいません。そのように、自分ではどうすることもできない私たちのために、神は、唯一の救いの道を備えてくださいました。それは、罪を知らないイエスキリストが、「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっている人々を解放してくださるため」(ヘブル人への手紙2章14、15節)私たちの罪をその身に負って、十字架の上でいのちを捨ててくださり、三日目によみがえられました。このキリストの死からの復活を祝うのがイースターです。そして「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」と言われている天国に、私たちが入れられることを待ち望むことができるようにされたのです。それは、すべて罪人である私たち一人一人に対する神の愛のゆえでした。
私たちは、人生において死と隣り合わせに生きているとも言えます。突然病気になることもあるでしょう。阪神淡路大震災や東日本大震災のような災害に巻き込まれるかもしれません。事故に遭うかもしれません。そうなりますと、老いも若きも年齢に関係なく、いつ自分の生涯を終えなければならないか分かりません。平安な死を迎えるために、また死の恐怖から解放された人生を送るために、ぜひイエスキリストを信じて、天国への希望を、神から受けていただきたいと願います。そして、これが皆様方にお伝えしたい福音であり、良き知らせなのです。
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
雨を降らす神、地を耕す人
(マタイの福音書5章45節)
この天地が造られた直後のことを語れる人は誰もいません。しかし聖書には、その時の様子として「神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。」と記されてあります。神が天地を造られた直後には何もなく、荒野のような状態でした。その理由を「それは神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからであると説明されています。つまり作物が芽を出し、成長して、実を実らせ、収穫にいたるためには、雨を降らせる神と地を耕す人の共同作業が必要だったということです。つまり神は恵みとしての雨を降らせ、人は自分の責任として地を耕します。人は雨を降らせることができませんし、神は地を耕しません。それぞれにそれぞれの領域があるのです。そして神が恵みの雨を降らせ、人が懸命に地を耕すことで不毛の荒地が実り豊かな地になっていくのです。そして収穫を神に感謝するのです。聖書は、神の恵みをいただきながら神とともに働き、生活し、そして神に感謝をささげることが祝福された生活の姿であり、祝福された人生であると教えています。もちろんすべての人が農業に従事しているわけではないでしょう。ですから神が雨を降らせて、人が地を耕すと言ってもピンと来ないかもしれません。しかしこのことを少し自分の人生や生活にも当てはめてみましょう。私たちは、仕事や子育て、介護、人間関係など何でも自分でやろうとしますし、やらざるをえないと思うでしょう。その結果として自分でどうすることもできないところまで自分で何とかしなければと思ってしまいます。地を耕すだけでなく、雨まで降らそうとします。つまり神を信じなければ、神の領域にまで踏みこんで何とかしようとしてしまうということです。その結果としてストレスがたまり、疲れ果ててしまいます。しかし神を信じている人たちは、自分でできることやしなければならないことをきちんとして、後は祈りながら神が助けてくださるのを待つのです。
私たちは何でも自分でできると思って、がんばって何でも自分でしようとしてしまいがちですが、能力や体力の限界でけっこう自分ではどうすることもできないことがあるのではないかと思うことがしばしばありますし、人がどうすることもできないこともあるでしょう。例えば雨を降らせるなどの天候もそうですが、自然災害も人はどうすることもできません。医療の進歩により以前は不治の病であると言われていた病気も治るようになってまいりました。しかしそれでもすべての病気が治るわけではありません。ですから自分ではどうにもならないことがあることを認め、それらはすべて神様におゆだねし、自分でしなければならないことを精一杯行い、すべての人に平等に雨を降らせてくださる神様の愛とあわれみと恵みに感謝する人生こそ、幸いで平安な人生だと聖書は教えます。私自身も神を信じる前には、自分でどうにもできないことで、思い煩い、悩み、不安な日々を送っていましたが、クリスチャンになってからはそのようなものから解放されました。ぜひ皆様方にも、恵みの雨を降らせ続けていてくださる神様のことを知っていただきたいと思わされます。
聖書のことば
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイの福音書5章45節)
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
創造の神
(創世記1章1節)
聖書のことば 「初めに、神が天と地を創造した。」(創世記1:1)
人は、大きく分けて有神論か無神論に分かれます。そしてキリスト教は当然有神論の立場を取ります。そして聖書には、この世界を神が創造されたと書かれています。NHKの大河ドラマ「八重の桜」にも登場し、同志社大学の設立者である新島襄は、この世界は神が創造されたのであって、偶然の産物ではないことに大きな衝撃を受けてキリスト教の信仰を持ったと言われています。
神は深い計画と慈愛に基づいて、私たちの回りにあるすべてのものを英知の限りを尽くして、創造されました。ですから、私たちは神が造られた被造物を通して、神がどのような方か、また神の知恵、神の力などさまざまなことを知ることができるのです。詩篇19:1に「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる」とありますが、私たちが目にすることのできる不思議な規則性、また驚くべき神秘が神の存在を明らかにしています。そのことによって神が存在していること、そしてその神はいかに大きな力を持ち、人が計り知れないほどの知恵に満ちたお方であるかということを私たちに示しています。現代人は偶然や突然変異を信じ、神の創造を否定しようといたしますが、それは難しいだろうと思います。私が学生の時に物理学の講義を取りました。その講義を担当していた教授が、講義の最後に「自分はクリスチャンではないけれども、宇宙やこの世界のことを研究すればするほど神が造ったとしか思えない。」と言われたことを今も忘れることはできません。私たちは神が創造されたものを通して神を知ることができるはずです。ですから、偶然を持ち出そうとする人たちは、結局神を信じたくないという意思表示をしているにすぎないとも言えるのではないでしょうか。あるテレビCMで、ひとりの男の子が「この世界はどうしてできたの?」と尋ねます。すると建設現場で働いている人や配送の人、警察官などさまざまな人が「私だよ。」と名乗りをあげます。結局この世界は多くの人の働きによって成り立っていることを言いたいのでしょう。まさか子どもに偶然できたんだよと言う親はいないでしょうし、いくら子どもでも納得しないでしょう。物が移動されたらそれは運んだ人がいたからであり、料理が自分の目の前に出てきたらそれは作った人がいたからです。偶然でそのようになるはずがありません。そう考えると、私たちの回りにあるすべてのものは偶然できたものではなく、この世界のすべてのものを造られた方がおられて、聖書は、それはすべて神の創造のわざだと言います。
今の時代、多くの人々が意識するとしないとにかかわらず、自分の存在の意味をめぐって苦悩しています。多くの若者が自分探しをしていることもその現れでしょう。自分は特別な存在だ、自分にしかできないことがあるはずだとの思いを持って人生を生きようとしているのです。別に彼らは世間に甘えているわけではなく、むしろ少しでもより良い人生を生きたいとの当然の欲求から人生を模索していたり、自分の人生を導くものを見失って、自分が人生をどう生きていけばいいのか分からないでいるように私には思えるのです。特に、この世が点数や業績で評価する中にあって、多くの若者が無力感を味わい、自分の人生に絶望しています。もし神の存在や創造を否定したなら、ある意味人間の存在を失わせ、生きる意味も存在する理由も見失ってしまうでしょう。そうなるともはや刹那的な生き方しかできません。しかし聖書はすべての人々に宣言します。すべての人は、それぞれ人として神の手によって造られた尊厳ある存在であるがゆえに、どんな人であっても存在していること自体に意味があり尊いのです。そして神は一人に一人に深い意志と目的を持って存在するようにされているのです。ですから何ができなくても、神はあなたを大切なものと思っていてくださり、存在自体を喜んでいてくださるのです。ですからこの創造の神の存在を知った時に、すべての人が必ず自分の存在の意味を見いだすことができ、生き生きと生きていくことができるのです。
聖書を通して自分が何者なのか、存在している意味をともに考えてみませんか。ぜひお手元に聖書があれば開いてみてください。もしなければ教会にご連絡いただければ無料にて差し上げます。またぜひ教会にご遠慮なくお出かけください。クリスチャンでない方でも歓迎いたします。そして読んだ感想等もお聞かせいただければうれしく思います。
すべての方の上に天地創造の神様の豊かな祝福を祈りつつ。
湘南のぞみキリスト教会 牧師 村上正道
人生の座標軸
(マルコの福音書14章31-42節)
自分の人生に座標軸を持っている人は幸いです。
あなたの人生には、何があっても変わらないもの、どれほど迷ってもそこに帰ることができるところはおありでしょうか。
聖書は、変わることのない神の愛、変わることのない神の語りかけを人生の座標軸にするようにと教えています。
十字架にかかられる前夜、イエス・キリストは祈るためにゲッセマネと呼ばれた園においでになりました。
そして、その祈りの中に現される神の愛にしっかりと目を留めるようにと、弟子たちにこう告げられました。
新約聖書マルコの福音書十四章三十四節の言葉です。
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目を覚ましていなさい」。
実は、この時の弟子たちの心はイエス様から離れ去りつつありました。神様を信じ、イエス様を信じてはいたものの、自分たちの熱心、自分たちの理想というものに心を奪われ、イエス様の心、神様の言葉に耳を傾けることができなくなっていたのです。
本当に留まるべきところを見失ってしまった、そんな弟子たちにイエス様は切実に訴えられたのです。
あなたが留まるべきところ、あなたが本当に見つめているべきもの。それは、何があっても変わることのない神の愛、あなたがどれほど神を悲しませたとしてもあなたに語りかけて下さる神のことばである。イエス様は、そう訴えられたのです。
私たちは時に、自分の思いや理想を人生の座標軸にしようとします。しかし、それらはやがて移ろいゆき、私たちを永遠にさまよわせることになります。
しかし、あなたを愛する神の愛、あなたに語りかける神の言葉だけは、何があっても変わることがありません。
変わることのない神の愛、変わることのない神の語りかけを、あなたの人生の座標軸にしませんか。
聖書のことば
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい」。
新約聖書 ヨハネの福音書十五章九節
挫折という恵み
(マルコの福音書14章26-31節)
「麦踏み」という農作業があります。麦がしっかりと根を張って力強く育つように、農夫は霜の張る早春にその芽を何度も踏みつけると言います。私たち人間にも、挫折の経験が大切であることを思わされます。あなたは、必要な挫折を経験しておられるでしょうか。
一体どんなことで挫折を経験するべきか。聖書は、神様を信じることにおいて挫折を経験することの大切さを教えています。
新約聖書マルコの福音書十四章二十七節にこんな言葉があります。
イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから」。
「あなたがたはみな、つまずきます」つまり「挫折します」。イエス様のこの言葉を聞いたとき、弟子の一人であったペテロはイエス様の言葉を否定してこう言いました。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。…たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」。他の弟子たちも同じように言ったと言います。イエス様への熱心、イエス様への愛の故に、彼らは本気でそう思ったのでしょう。しかし、この時の彼らは、イエス様のことば、神様のことばを否定してまでも自分たちの熱心を主張していました。丁度、羊飼いの声を聞こうとしなくなった頑なな羊のようであったと言えます。そして、その頑なさの故に、彼らは挫折を味わう必要があったのでした。
神様を信じるという時、神様を脇に置いた独りよがりな信仰、神様のことばを無視した信仰であってはならない、ということを教えられます。羊が羊飼いの声を聞かなくては生きていけないように、私たちも神様の語りかけ、聖書のことばに良く耳を傾けなければ、間違った見当違いの歩みをしてしまうのです。
神様のことばという土台にしっかりと根を張って力強く生きていく。そのことを学ばせるために、神様は時に私たちに挫折という恵みを与えて下さいます。
挫折を経験するとき、どうぞ神様の語りかけ、聖書のことばに静かに耳を傾けてください。その時、挫折は恵みとなるのです。
聖書のことば
「あなたがもし全能者に立ち返るなら、あなたは再び立ち直る」。
旧約聖書 ヨブ記二十二章二十三節
受け取りなさい
(マルコの福音書14章22-25節)
もし誰かから何かを受け取ることができるとすれば、あなたは、誰から、何を受け取ることを願われるでしょうか。
聖書は、イエス・キリストから、罪の赦しと深い愛を受け取り続けることが何よりも大切であると教えています。
マルコの福音書一四章には、イエス様が十字架にかかられる前夜の事、最後の晩餐の席での出来事が描かれています。二二から二四節をお読みいたします。
それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」
イエス様は、この翌日にご自分が十字架にかかられることを知っておられました。そしてその上で、十字架の上で裂かれるご自分の肉とそこで流されるご自分の血を、当時の人々が毎日口にしていたパンとぶどう液に重ね合わされました。そして弟子達に、ご自分の十字架によって為し遂げられる罪の赦しを日々受け取り続けるようにと語りかけられたのでした。
私たちは、神様の深い愛から目を離し、神様の心を悲しませてしまうという罪を日々犯してしまう者です。そういう意味では、私たちの誰一人として、罪の赦しを受け取る資格など持っていないと言えます。しかし、だからこそ、イエス様は私たちに、日々罪の赦しを差し出していてくださるのだと聖書は言うのです。肉を裂き、血を流し、いのちを与え尽くしてまでも私たちに罪の赦しを与えようとしていてくださるイエス様。そのイエス様が私たちに「受け取りなさい」と差し出していて下さる恵みを、大切に受け取りたいと思わされます。
あなたにも、イエス・キリストによる罪の赦しが差し出されています。どうか、それを受け取り、罪赦されて生きる喜びを味わってください。
聖書のことば
「取りなさい。これはわたしのからだ…わたしの契約の血です」。
新約聖書マルコの福音書14章22、24節
なんと哀れな (マルコの福音書14章17-21節)
本当に悲しむべきこと、このことだけは自分の身に起こって欲しくない、とあなたが思っておられることは何でしょうか。
聖書は、「救い主イエス・キリストを拒絶してしまうこと」こそが、本当に悲しむべきことだと教えています。
新約聖書マルコの福音書一四章には、イエス・キリストを裏切ろうとしていたイスカリオテ・ユダの姿が描かれています。わずかな金と引き替えにイエス様を手放そうとしていたユダ。そのユダの心の内をよくご存じであったイエス様は、彼がその考えを悔い改めてもう一度イエス様と共に生きることを願い、次のように語られました。二十一節のことばです。「確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」。
「人の子を裏切る」、すなわち、イエス・キリストを拒絶する人はわざわいであるとイエス様は言われました。この「わざわいです」と訳されている言葉は、心の奥にある深い悲しみを表す感嘆詞で、「なんと哀れなことか」とも訳すことができます。神が私たちに与えて下さった救い主を拒絶してしまう。そんな人のことを、イエス様は心の底から悲しみ、深く思いやっていてくださるのです。「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」とさえ言われていますが、神に造られた者である私たちが、神の愛と赦しを拒絶して神から永遠に離れてしまうなら、それはやはり、それほどに悲劇的で哀れなことはないかと思わされます。
本当に悲しむべきこと。それは、実は病でも貧しさでもなく、救い主イエス・キリストを拒絶してしまうことであると聖書は言います。そして、イエス様を拒絶してしまうそんな私たちを救うために、イエス・キリストは十字架につき、私たちの罪を赦し、復活して下さったと聖書は言うのです。私たちがこの救いを受け入れ、この救い主と共に歩むように、イエス・キリストは今も手をさしのべていて下さるのです。
なんと哀れな、と自分を嘆かざるを得ない人が、なんと幸いなことか、と神を讃え、感謝と喜びに満ちて生きることが出来る。それが、聖書が語っている福音です。あなたも、イエス・キリストを信じ、この救い主と共に、何と幸いなことよと喜び歌う人生を歩んでくださいますように。
聖書のことば
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた」。
新約聖書 テモテへの手紙第一 1章15節
整えられた客間 (マルコの福音書14章12-16節)
ゆったりとした交わりは、私たちを豊かにしてくれます。あなたは、大切な人とのゆったりとした交わりを持っておられるでしょうか。神様とゆったりとした交わりを持つ。その大切さを聖書は教えています。
新約聖書マルコの福音書十四章には、整えられた客間というモチーフが描かれています。イエス様の弟子達が、過越の食事をとる場所を探していました。過越の食事とは、神の救いを思い巡らし、神の救いを待ち望むために、ユダヤ人が大切にしていた年に一度の特別な食事でした。その弟子達に対して、イエス様はこう言われました。
十三節から十五節をお読みします。「都に入りなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人が入って行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい」。
イエス様のこのことばに弟子達が従ってみると、不思議なことに、確かに整えられた客間が彼らのために用意されていたと聖書は言います。この「客間」と訳されている言葉には、「ゆるめる」という意味があります。荷物を下ろしてゆったりとした交わりを持つ。私たちも、神様との交わりのためにそんな整えられた心を用意したいですよね。私たちの内側には、罪の重荷、思い煩いの重荷がありますから、神様とのゆったりとした交わりを持つことが難しいと感じるかもしれません。しかし、イエス様は私たちのために十字架にかかってくださり、私たちの罪の重荷を取り除いてくださった。また、神様がどれほど深く私たちを愛していてくださるのかを示してくださり、私たちが何も思い煩わすに神様を信頼してよいということを示してくださったと聖書は言います。
神様は、あなたとのゆったりとした交わりを慕い求めておられます。そして、神様の側では、あなたのための客間はすでに整えられているのです。
あなたも、神様とのゆったりとした交わりを持ってみませんか。是非、ゆっくりと聖書を読み、心を楽にして教会にお越し下さい。神様があなたを大切に迎え入れてくださいます。
聖書のことば
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」。
新約聖書 マタイの福音書11章28節
手放さないように (マルコの福音書14章10-11節)
私たちは、本当に大切なもの手放してしまう、ということがあるのではないでしょうか。あなたは、本当に大切なものをしっかりと握りしめておられるでしょうか。手放してはならない本当に大切なもの。それは、あなたへの神様の愛であると聖書は教えています。
新約聖書マルコの福音書十四章には、イエス・キリストを手放してしまったイスカリオテのユダの姿が描かれています。
十、十一節をお読みします。「ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた」。
彼は十二弟子の一人、イエス様の愛と恵みを溢れるほどに受け、いつもその言葉に耳を傾けることが許されていた人の一人でした。しかし、ある時、わずかな金と引き替えにイエス様を手放そうとしてしまいます。聖書の他の箇所によれば、彼はイエス様から預かっていた金入れからいつも金を盗んでいたと言います。金銭への執着、罪を悔い改めようとしないプライド、あるいは、自分の思い通りにすべてをコントロールしたいと思う思いが、ユダに本当に大切なものを手放させてしまったことを思われます。私たちも、せっかく差し出されている神様の愛や恵み、聖書からの語りかけを、時間やお金、自分の思い通りに生きたいという思いを優先することで、手放してしまってはいないでしょうか。そんなユダや私たち、神様の愛を簡単に手放そうとしてしまう私たちを、イエス様は何とかしてつなぎ止めようと願っていてくださる。そして、そのために、十字架にまでかかってくださったと聖書は言います。
手放してはならない本当に大切なもの。それはあなたへの神様の愛、たとえ十字架につけられようともあなたを手放そうとはされなかったイエス・キリストの愛であると聖書は言います。
あなたは、本当に大切なものを手放そうとはしておられないでしょうか。あなたを愛する神様の愛をしっかりと握りしめ、あなたへの神様の語りかけに、いつもしっかりと留まり続けていただきたいと思うのです。
聖書のことば
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」。
新約聖書 ヘブル人への手紙 12章2節
石膏のつぼ (マルコの福音書14章3-9節)
私たちは、自分の人生を何のために、誰のために使おうとしているでしょうか。新約聖書マルコの福音書十四章に一人の女性が登場します。
三節をお読みいたします。「イエスが…食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ」。石膏のつぼに入ったその香油は、当時の平均年収に相当する高価なものであったと言います。当時の石膏のつぼは、継ぎ目がなく密閉されたもので、一度割るとそれで終わり、あとは中にあるものを注ぎ切るしかないというものでした。ですから、石膏のつぼを割ったこの女性の行為は、大変大胆で衝撃的な行為であったと言えます。
私は、石膏のつぼを割るというこの行為に、私たちの人生の大切な決断が重ねられるように思います。一度決断すればもう後戻りはできない。あとはその決断に従って人生を捧げるのみ。そんな決断が、私たちの人生にもあるのではないかと思うのです。
あの女性は、イエス様のために石膏のつぼを割りました。自分のためでもなく、人々のためでもなく、イエス様のために大切な香油を使いたい。そう願ったからです。そして、彼女が注いだその香油は、イエス様の埋葬の準備、イエス様が十字架にかかられるための大切な備えとなったと聖書は言います。
大切な香油、大切な人生を、自分自身のために使うこともできます。しかし、その生き方は、刹那に消え去る香油の香りのように、むなしく儚いものではないでしょうか。また、それを人々のために使うこともできます。しかし、大切な香油、大切な人生を投げ打ってどれほどパンを分け与えたとしても、それで人の本当の必要、魂の飢え渇きを満たすことはできません。しかし、大切な香油、大切な人生をイエス様に捧げるなら、それは永遠に消えないかぐわしい香りとなり、人の本当の必要を満たす魂の救いのために豊かに用いられていくと聖書は言います。
何のために、誰のために人生を使おうとするのか。石膏のつぼを割る、そんな決断が、私たち一人ひとりにも委ねられているように思います。イエス・キリストは、私たちを救うために人となり、十字架にかかってくださいました。私たちのために命を注ぎきるために、まさに、後戻りのできない決断をしてくださったのです。あなたは、誰のために生きる決断をされるでしょうか。イエス様のために石膏のつぼを割る、そんな良き決断をしてくださいますように。
聖書のことば
「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」。
新約聖書ヨハネの福音書 6章27節
目を覚ましていなさい (マルコの福音書13章28-37節)
人生には、やがて終わりが訪れます。あなたは、いつ終わりが来ても良いという生き方をしておられるでしょうか。確かな終わりを迎えるために、聖書は、「目を覚ましていなさい」と教えています。
新約聖書マルコの福音書13章の後半には、確かで喜びに満ちた終わりを迎えるための秘訣が教えられています。
33節から、イエス・キリストによるたとえが語られています。「気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい」。
旅に出ていつ帰ってくるのか分からない主人の帰りのように、終わりの時がいつ訪れるのか、誰にも分かりません。だからこそ、大切なのは今目の前にある一日一日を目を覚まして誠実に生きることだと聖書は教えています。主人が帰ってくるその直前だけ、終わりを迎えるその直前だけ誠実に生きるということではありません。今日という一日一日を、与えられた使命に誠実に過ごす。それこそが本当に確かな生き方、一日一日を平安と喜びの内に生き、確かで喜びに満ちた終わりを迎える生き方であるとイエス・キリストは教えています。
それでは、私たちは何について目を覚ましているべきなのでしょうか。このたとえの主人のいいつけに相当するもの、それは、神様のことば、聖書のことばだと聖書は教えています。留守中の主人のいいつけを誠実に守って生きる良いしもべのように、私たちは、神様のことば、聖書のことばに対して誠実に生きることが大切だと言うのです。聖書のことばによく耳を傾け、それに聞き従って生きるなら、私たちは日々深い喜びと平安を体験します。そして、その延長に幸いな終わりを迎えることになると聖書は言うのです。
人生にはやがて終わりが訪れます。確かで喜びに満ちた終わりを迎えるために、あなたは、今日という一日一日を相応しく過ごしておられるでしょうか。どうか、神様のことば、聖書のことばに耳を傾け、目を覚まして誠実にお過ごしください。
聖書のことば
「だから、目をさましていなさい」。家の主人がいつ帰って来るか、
夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです」。
新約聖書マルコの福音書 13章35節
産みの苦しみ (マルコの福音書13章1-13節)
私たちの人生には様々な苦しみがあります。なぜそれらの苦しみがあるのでしょうか。聖書は、それは「産みの苦しみ」なのだと教えています。
新約聖書マルコの福音書13章で、イエス・キリストは世の終わりについて語っておられます。目に見える全てのものが滅び去る時が必ず来る。そして、その世の終わりの前に、人々は必ず多くの苦しみ、戦争や地震や飢餓などの苦しみを体験することになる。イエス様は、はっきりそう語られました。世の終わりの前にあると言われている苦しみは勿論、私たちが日々体験する苦しみも、決して喜ばしいものではありません。私たちはそれを何とかして避けようとするでしょう。しかし、実はそれらの苦しみは大切な「産みの苦しみ」なのだとイエス様は言われます。私たちは出来るだけ苦しみのない人生を願います。しかし実際には、苦しみを通して大切なことに気付かされ、深い喜びがある生き方をするようになっていくのではないでしょうか。様々な苦しみがまさに「産みの苦しみ」となって、本当に良いことを生み出して行くのです。
それでは、イエス様が語られた本当に良いこと、苦しみを通して生み出されるべき深い喜びとは一体何なのでしょうか。マルコの福音書13章 13節でイエス様はこう言われました。「しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」。「救われる」、すなわち、神様と共に永遠に喜んで生きるようになる。それこそが、苦しみによって生み出されるべき真に素晴らしいものだと言うのです。目に見えるすべてのものはやがて滅び去ります。愛や友情を誓った人々もあなたを見捨てて去って行くことがあるでしょう。しかし、すべてのものが滅び去っても、すべての人があなたを捨て去っても、あなたを愛し、あなたを決して離さないと言って下さるお方がいます。その神と共に生きる者となる。それこそが、苦しみを通して生み出されるべき本当の喜び、言いようもない深い喜びなのだと聖書は教えています。
私たちの人生には様々な苦しみがあります。それらを無駄にせず、「産みの苦しみ」とすべきではないでしょうか。あなたは今、言いようもない苦しみを体験しておられるかもしれません。どうか、その苦しみの中で神様に目を留め、その苦しみを「生みの苦しみ」としてください。言いようもない喜び、神と共に生きる喜びを、あなたも見いだしてくださいますように。
聖書のことば
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。
私はそれであなたのおきてを学びました」。
旧約聖書 119篇71節
何をしてほしいのですか
日々の小さな事柄から人生の重大事に至るまで、神様に祈ること、神様にしてほしいことをを訴えることは尊いことだと言えます。その際、一つ注意しておくべきことがあります。それは、神様への願いと同時に、否それ以上に、神様の願い、神様は私に何をしてほしいのかということを心に留めることです。
ある時、イエス・キリストの元に二人の弟子が願い事を訴えるためにやって来ました。その時、イエス様は彼らにこう言われました。マルコの福音書十章三十六節のことばです。「イエスは彼らに言われた。『何をしてほしいのですか』。自分が願い求めている事柄についてもう一度よく考えてみるように。イエス様はそのように問いかけておられます。
「何をしてほしいのですか」。神様にそのように問われるならば、あなたはどのようにお答えになるでしょうか。そして、その求めが実際には何を意味しているのか、しっかりと理解しておられるでしょうか。苦しみ悲しみがなるべくないように、笑顔で健康で過ごせるように、私たちの多くは願い求めるのではないかと思います。あるいは、少しでも人の役に立ちたい、神様のお役に立ちたいと願い求める方もあるかもしれません。しかし、単に健康で笑顔でいることよりも、単に人や神様のために沢山のことをするよりも、はるかに大切で尊い事柄があると聖書は教えています。私たちが願い求めていることよりもさらにずっと大切で私たちに必要なこと。それはどのようにすれば知ることが出来るのでしょうか。それは、聖書のことば、私たちに対する神様の願いによく耳を傾けることだと聖書は教えています。そして、実にそのことこそ、聖書のことばに耳を傾けることこそが、神様が私たちにしてほしいことなのだと聖書は言うのです。
「神様に何をしてほしいのか」、そのことを丁寧に考えることは自分の人生を丁寧に考える良い機会となります。しかし、「神様は私に何をしてほしいのか」、そのことに丁寧に心を留めることは、さらに豊かな実りをもたらします。神様の願い。それは私たちが聖書に記されている神様の教えに耳を傾け、神様が願っていて下さる本当の幸いをしっかりと受け止めていくことだと言えます。あなたも、人の思いや願いを遙かに超えた神様の豊かな恵みを味わってみてはいかがでしょうか。
聖書のことば
「主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。」詩篇119篇41節
迷子(まいご)
新約聖書ヤコブの手紙5章19,20節にこんなことばがあります。
「 私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい」。
どんな人でも、真理から迷い出ることがある。歩むべき道から外れ、神様のもとから離れてしまうことがある。聖書はそう教えています。私たちは皆、離れたくて離れるのではないと思います。できれば最善の道を歩み、神様が与えようとしていて下さる幸いを味わいながら生きたい。しかし、それでも時に、迷い出ることがあります。私たちの周りに、そして私たちの内側に、私たちを惑わし誘うものが多くあるからです。変わることのない真理よりも世の常識や風潮に左右されることがあります。愛と配慮に満ちた神様の思い、神様の教えよりも、自分勝手な考え、自分の狭い思いに固執してしまうことがあります。私たちは、真理から、神様のもとからいつのまにか迷い出てしまうことがあるのです。さらに、私たちは自分が迷い出ていることになかなか気がつくことができません。気づいたとしても、どうやって戻ればいいのか、その道も方法も分からず、力を失って弱り果ててしまう。それが私たちの姿であると聖書は言います。もし私たちが自力で神様のもとに帰らなければならないのであれば、私たちに希望はありません。人間は、自分の力では神様のもとに帰ることなど出来ないからです。しかし、聖書は言います。あなたのたましいを死から救い出し、あなたの罪をおおってくださる方がおられる。迷い出たあなたを心を熱くするほどの憐れみで慈しみ、あなたを連れ戻すために命まで捧げて下さった神がおられる。イエス・キリストは、神のもとから迷い出たあなたを救い出すためにこの世に来て下さった神のひとり子です。神のもとに帰る道を示し、その道をあなたと共に歩むために十字架にかかり、3日目に死からよみがえってくださったお方です。
どんな人でも、神様のもとから迷い出ることがあります。しかし、どんな時でも、あなたを連れ戻すために心を尽くしていて下さる神様がおられます。あなたを迷いの道から連れ戻して下さるお方、イエス・キリストに一言お祈りしていただきたいと思うのです。「神様、どうぞ私を迷いの道から連れ戻して下さい」。神様の導きが、あなたに豊かにありますように。
何を握りしめて生きるのか(3)
「何を握りしめて生きるのか」。前回に引き続き、聖書のことばに耳を傾けたいと思います。
新約聖書ルカの福音書8章に、悪霊に苦しめられていた人物が登場します。その悪霊の名は「レギオン」と言い、それは「非常に大きな力」を示す名前でした。より大きな力、より多くのものを求めることで、逆にその欲望に支配され苦しむ人間の姿。聖書はそんな姿をここに描き出しています。その彼が、イエス・キリストと出会い、その呪縛から解き放たれました。自分の力では、そして人間の力ではもはやどうすることも出来ない状態から、イエス・キリストは人を解き放って下さるのです。自由になった彼に対して、主イエスはこう言われました。ルカの福音書8章39節のことばです。
「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた」。
私たちの人生で一番大きなこと。それは、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストによって救われることだと聖書は言います。このお方と出会うとき、私たちはレギオンから、多くのものを求め続ける果てしのない欲望から解き放たれて自由にされるのです。
イエス・キリストと出会い、イエス・キリストの愛と力を深く知らされるとき、私たちは本当の意味で満ち足りるようになります。そうして、知恵や力や富や名声という、多くのものを求め続ける終わりのない苦しみから解き放たれるのです。
イエス・キリストは、あなたを自由にすることが出来るお方です。自分の力ではコントロールすることの出来ない欲望、苦しみをもたらす束縛、終わることのない苦しみから、イエス・キリストはあなたを自由にして下さるのです。
「何を握りしめて生きるべきか」。聖書は言います。イエス・キリストが差し出していて下さる救いの手を握りしめるように。イエス・キリストが差しのばしていて下さる愛の手を握りしめて生きるように。
イエス・キリストがあなたにどんなに大きなことをしてくださろうとしているのか。キリストの手を握りしめて歩むことで、あなたも体験して下さいますように。
何を握りしめて生きるのか(2)
間違ったものを握りしめて生きるとき、人は本来あるべき尊厳を失い、滅びに向かうことになる。前回は、そのことについてお話しさせていただきました。「何を握りしめて生きるのか」。今日はその続きです。
新約聖書ルカの福音書8章29、30節のことばをお読みします。
「汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていた・・・。イエスが、『何という名か』とお尋ねになると、『レギオンです』と答えた。悪霊が大ぜい彼に入っていたからである。」
真の神ではないものを握りしめて生きていたこの人物は、結局、真の神ではないものに支配され、苦しめられることになりました。そしてその苦しみ、その支配は、、人間としてのいかなる試みをもってしても打ち破ることができないものでした。彼がしがみつき、彼を支配し苦しめていたものとは一体何だったのでしょうか。その本質が、主イエスの問いかけによって明らかにされます。この人物がしがみついていた悪霊、真の神ではないものの名前は「レギオン」といいました。この言葉は、六千人からなるローマ軍の一軍団を示す言葉で、非常に多く、非常に力強い様を示しています。彼がしがみつき、彼を虜にしていたもの。それは、より多くの力、より多くの豊かさを求める思いであったことを思わされます。
私たちはどうでしょうか。私たちもまた、知恵や力、富や名声を求めるのではないでしょうか。その思いは、尊厳ある歩み、希望のある歩みをするために、ある意味不可欠なものであるようにも思います。しかし、真の神ではないこれらのものを求める渇きは、決して完全に満たされることなどないことを思わされます。それどころか、私たちはいつのまにかそれらのものに支配され、人としての尊厳や自由を失い、滅びに向かって歩むようにさえなってしまいます。
それさえ獲得すれば幸せになれる。そう信じて追い求めてきたものが、実は終わることのない渇きへと私たちを駆り立て、永遠の滅びに向かう道に私たちを誘うことを思わされます。
あなたに本当の満足と喜びを与えるもの。それは決してより多くの富、より多くの力、より多くの知恵ということではありません。神様の愛を知り、真の平安を得るようにと、聖書はあなたに語りかけています。
何を握りしめて生きるのか(1)
何を握りしめて生きるのか。それによって、私たちの人生、否、永遠までもが大きく変わってきます。新約聖書ルカの福音書8章27節にある人物が登場します。
「イエスが陸に上がられると、・・・ 悪霊につかれている男がイエスに出会った。彼は、長い間着物も着けず、家には住まないで、墓場に住んでいた」。
ここに、悪霊につかれ、人としての尊厳を失い、滅びへと向かって歩む一人の人の姿が示されています。「悪霊につかれている」と訳されているこの表現ですが、原文を直訳すると、「悪霊を持っている」となります。受身的な被害者というよりも、この人物が能動的、積極的に悪霊にしがみついていたということを聖書は示しています。「悪霊」と訳されている「ダイモニオン」という言葉について言えば、それは神々、あるいは神的なものを意味する言葉です。この人物が、真の神ではないものを神とし、それにしがみついて生きていた、ということが分かります。そして、真の神ではないものを握りしめ、それにしがみついて生きていた結果、この人物は人としての尊厳を失い、滅びに向かって歩んでいたということです。
真の神ではないものを握りしめ、尊厳と希望を失って滅びに向かっていくこの人物の姿に、私たち人間の姿が示されているように思います。人によってその対象は様々に異なるかもしれません。ある人は富や名誉を、ある人は知恵や知識を、ある人は善人であるということを、ある人は自分の思いのままに生きるということを大切に握りしめて生きているかもしれません。しかし、もし私たちが真の神ではないそれらのものにしがみついて生きるなら、私たちはやがて滅びゆくそれらのものと共に滅びてしまうことになる。聖書はそう教えています。富も名誉も財産も、善人であることも思いのままに生きることも、それは本当の意味で人を豊かにし、本当の意味で人を救うことはできないのです。
間違ったものを握りしめて生きるとき、私たちは人としてあるべき尊厳を失い、滅びに向かうことになると聖書は言います。あなたは今、どんなものを握りしめて歩んでおられるでしょうか。あなたを本当に豊かにし、尊厳と希望に満ちた永遠の歩みへと導く神様のことば、聖書のことばに耳を傾けていただきたいと思います。
どんな奇蹟を見れば
イエス・キリストを救い主として信じるために、私たちはどんな奇蹟を見れば満足するのでしょうか。ある時、パリサイ人と呼ばれる人々がイエス様のもとにやって来ました。新約聖書マルコの福音書八章十一、十二節のことばです。
「パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。『なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。』」
パリサイ人と呼ばれていた人たちは、救い主について自分たちなりの考え方を持っていました。そして彼らは、イエス・キリストは自分たちが思い描く救い主に当てはまるのかどうか、そのことをためそうとして「天からのしるし」、自分たちが思い描く奇蹟を見ることを求めたのです。
私たちの内側にも、しるしを求める思いがあるのではないでしょうか。イエス・キリストを救い主として信じるために、私たちは時に奇蹟がなされることを求めることがあります。しかし、そんな私たちに対してイエス様ははっきりとお答えになられました。「今の時代には、しるしは絶対に与えられません」。一体なぜ、私たちが願い求めるしるしは与えられないのでしょうか。それは、そのような奇蹟が叶えられたからといって、私たちが正しくイエス・キリストを信じることができないからです。否、それどころか、自分が思い描く奇蹟が叶えられることによって、私たちは救い主についての自分勝手なイメージを益々強く持つようになり、本当の救い主イエス・キリストよりも自分のイメージ、自分の考えにしがみつくようになるからです。
イエス・キリストを救い主として信じるために。必要なのは私たちが願い求めるしるしではありません。そうではなく、ありのままのイエス・キリストを知ること。すなわち、このお方がなさったこと、このお方が語られたことを聖書を通して知らされること。それこそが私たちが真の救い主を正しく信じるために必要なことなのです。自分の考え方、自分の思い描くイメージを優先させるのではなく、聖書が示す救い主イエス・キリストをありのままに知らされる。それこそが、あなたが真の救い主と出会うために必要なことなのです。
意外な行為
イエス・キリストがなさることは、時に私たちの予想を超えています。
新約聖書マルコの福音書7章33ー35節にこんな出来事が記されています。
「人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を(イエスのもとに)連れて来て、彼の上に手を置いて下さるよう、願った。そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ」すなわち、「開け」と言われた。すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。」
人々はイエス様に、「彼の上に手を置いてくださるよう」に願いました。多くのいやしの奇蹟を行っておられたイエス様ですから、手を置いていただくだけで手早く簡単に癒していただけると考えたのでしょう。実際、イエス様はそのように簡単にいやすことも出来たと思うのです。それでは、なぜこの時、これほど丁寧ないやしが行われたのでしょうか。それは、全ての人に対するイエス様の変わらない深い愛を示すためであったものと思われます。この時イエス様の元に連れてこられた病人は、異邦人、すなわちユダヤ人ではない人物でした。イエス様は人としてはユダヤ人としてこの世にお生まれになりましたが、当時のユダヤ人は、異邦人を蔑み、異邦人との関わりを一切持とうとしませんでした。ですからこの時のイエス様の行為、個人的にその異邦人と向き合い、丁寧に問題を扱い、心の底からその人の回復を願ったその行為は、人々の予想を遙かに超えた意外な行為であったと言えます。ですが、イエス様はこの意外な行為を通して、全ての人に対する変わらない愛、どこまでも深い愛を示そうとされたのだと言えます。
このことを通して、私たちはイエス様によるもう一つの意外な行為、肉体の癒しよりもはるかに大切な罪の赦しについて教えられることができます。
イエス・キリストは、神の語りかけに耳を傾けようとしない私たち人間と誠実に向き合い、その罪を丁寧に示し、私たちを何とかして罪から救い出そうとして、十字架にかかってくださいました。人を罪から救い出すため、神の御子がご自分のいのちをお与え下さった。イエス・キリストによるこの行為は、私たちの目にはあまりにも意外な行為であると言えます。しかし、この意外な行為、イエス・キリストの十字架にこそ、すべての人に対する神様の変わらない深い愛が示されているのです。あなたと向き合い、あなたの罪を赦すことを切に願っておられるイエス・キリスト。あなたも、このお方と向き合ってみてはいかがでしょうか。
イエス様のすばらしさ
イエス様の素晴らしさについて、私たちは時に大きな誤解をしていることがあるのではないでしょうか。
ある時、イエス様は一つのいやしを行われました。耳が聞こえず、口がきけない人をいやされたのです。その時イエス様は、いやされた人と周囲にいた人々に対してこう言われました。「このことをだれにも言ってはならない」。肉体のいやしばかりに人々の目が向けられてしまうことを危惧されたのでしょう。しかし、「彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした」と聖書は言います。新約聖書マルコの福音書7章36,37節のことばをお読みします。
「イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。人々は非常に驚いて言った。『この方のなさったことは、みなすばらしい。耳の聞こえない者を聞こえるようにし、口のきけない者を話せるようにした』」。
人々が非常に驚き、すばらしいと賞賛したもの。それは、肉体のいやしでした。そして、彼らは肉体のいやしに目を奪われる余り、イエス様のことば、イエス様が本当に伝えようとされたことを無視するようになってしまいました。
イエス様の本当の素晴らしさ。私たちが心から驚き、賞賛すべきこととは、一体何なのでしょうか。それは、このお方が十字架にかかって死んでくださったことだと盛暑は教えています。私たちをどこまでも深く愛し、私たちを罪から救うためにいのちまで与えて下さった。そして、十字架の死後3日目によみがえり、今も私たちを罪から聖め続けてくださる。そこにこそ、イエス様の本当のすばらしさがあるのです。
肉体のいやしもたしかに大切です。そして、イエス様は私たちの肉体の痛みにも憐れみを覚えていて下さいます。しかし、肉体の死の後も続く永遠のいのち、神様と共に永遠に歩む幸いは、他の何にも優って大切です。
イエス様の本当のすばらしさ。私たちの罪を赦し、私たちを聖め続け、永遠のいのちに生かして下さるそのすばらしさに、しっかりと目を留め続けたいと思わされます。そしてそのために、イエス様の語られることば、聖書のことばに、しっかりと耳を傾けたいと思うのです。
人をけがすもの、人を聖めるもの
(※ 新年を迎えるにあたって書かれたメッセージです)
日本人の多くは、大晦日には除夜の鐘を聞き、元旦には初詣に出かけます。汚れを取り除き、聖い身となって新しい年を過ごしたい。そんな願いがあるからではないかと思います。
それでは、汚れと聖めについて、聖書はどのように教えているのでしょうか。イエス様はある時こんなお話をなさいました。新約聖書マルコの福音書7章20節21節のことばです。
「人から出てくるもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から悪い考えが出てくるのです」。(一部試訳)
人を汚すもの。それは、外側から入ってくる物ではなく、内側から出てくるもの、人の心から出てくる「悪い考」えであるとイエス様は言われました。形式的で外面的な事柄ではなく、私たちの内側にあるものにこそ目を留めるように聖書は教えています。
それでは、人を汚すこの「悪い考え」とは、一体どのような考えなのでしょうか。このことについて、イエス様はある人たちにこう言われました。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです」(同9節)。
人を汚す悪い考え。それは、自分の考えを優先させるために神様の教えをないがしろにしようとする考えだと聖書は教えています。神様の思いを無視し、自己中心に生きようとする考え。そうやって神様から離れて生きようとする考え。それこそが人を汚すのだと聖書は教えているのです。
それでは、私たちは一体どうすれば汚れを取り除くことができるのでしょうか。どうすれば、自己中心ではなく、神様を正しく重んじる聖い生き方が出来るのでしょうか。それは、良い考えを心に入れること、すなわち、聖なる神様の思いを心に注いでいただくことだと言えます。知恵と力、愛と正義に満ちた神様。その神様の思いが心に注がれ、神様の愛で心が満たされるとき、私たちは感謝と喜びに満ちて、聖められた者として神様と共に歩むことができます。
新しい年。あなたの心に神様の愛が一杯に注がれますように。今年も、神様のことば、聖書のことばを通して神様の愛を共に味わわせていただきたいと願います。
本当の喜びをさがして
本当の喜びとは一体どこにあるのでしょうか。ルカの福音書十五章には、喜びを探して旅をした若者の物語が記されています。
ある日、彼は父親に向かってこう言いました。「お父さん。私に財産の分け前をください」。そして、父親から財産を譲り受けた彼は、幾日も経たぬうちに何もかもまとめて遠い国に旅立ってしまいました。多くのお金があり、自分の思い通り自由に生きられれば喜びが得られると考えたのでしょう。しかし、現実は違いました。父親の元を離れた彼は湯水のように財産を使い果たし、放蕩生活の果てに絶望的な状況に身を落としてしまったのです。彼は食べるにも困り果て、惨めさの極限まで体験します。
そんな時、彼は父の元へ帰ることを決断しました。熱心に謝罪して父の赦しを得、何とかして食物にありつこう。そう考えたのです。しかし、父のもとに向かう彼に意外な出来事が起こります。ルカの福音書十五章二十節にこうあります。「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」。父は怒っているはずだ。何とか謝罪して赦しを勝ち取らなければ。そう考えていた彼に対し、予想をはるかに超えた深い愛が示されたのです。怒りと憎しみではなく、愛と赦しがそこにはありました。父親の愛に包まれた時、彼はこう言いました。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」。愛を知らされた者の心からの悔い改めの言葉でした。そして、そんな息子を父親は改めて喜んで受け入れ、再び息子として迎え入れたと言います。
本当の喜びとは一体どこにあるのか。この物語はそのことを私たちに教えています。 本当の喜び。それは、私たちが神様のもとに立ち返り、愛に満ちた神様と共に生きるところにこそあるということです。
喜んであなたを迎え入れて下さる神様。この神様のもとに立ち返り、この神様と共に歩む喜び。そんな喜びを、あなたも体験してみてはいかがでしょうか。
心を痛める神
心を痛めるほどに人を愛する神様。今日は、そんな神様の愛に目を留めたいと思います。
旧約聖書創世記6章6節にこんな言葉があります。「・・・ 主は、・・・ 心を痛められた」
「主は心を痛められた」。この言葉は、神様の思い、あの「ノアの洪水」によって人類が滅ぼされる前の神様の思いを示しています。当時、人々は皆、神様を無視し、神様に背いて歩んでいたと聖書は言います。
私たち人間が神様を無視し、神様に背いて生きるとき、神様はどのような思いをされるのでしょうか。「主は、心を痛められた」。神様は、神様から離れて歩む人をさげすんで冷たく突き放そうとするお方ではありません。むしろ、心を痛めていてくださる。人が神様から離れて歩み、それ故にさばきを身に招くことに心を痛めていてくださる。聖書は神様をそのように教えています。
「主は心を痛められた」。ここに、私たちの予想をはるかに超えた深い愛が示されています。限りない愛の故に人を造られた神様は、どこまでも人を愛していてくださる。神様から離れて歩む人のために心を痛め、その人が救われることを願っていて下さる。聖書はそう教えているのです。
神様から離れて歩む人間を見つめる神様の目に、私たちは一体何を見ているでしょうか。そこにあるのは冷酷な怒りや無関心などではありません。心を痛めるほどの愛。あまりにも深い愛があるということ。私たちはそのことを忘れてはならないと聖書は教えています。
今、あなたは神様の目に何を見ておられるでしょうか。心を痛めるほどの深い愛。あなたに向けられたその愛に、どうか目を留めていただきたいと思います。そして、あなたを愛し、あなたが救われることを願っていて下さる神様の語りかけ、聖書のことばに耳を傾けていただきたいと思うのです。
「主は、心を痛められた」。あなたに向けられた神様の愛。その愛に、あなたが目を留めてくださいますように。
必要な強さ、必要な弱さ
私たちは、一体どれほどの強さ豊かさを手に入れれば幸せに生きられるのでしょうか。
旧約聖書創世記4章には、人類が大きく分けて二つの流れに分かれていったことが記されています。人が目指した一つの流れ、それは「強さ」を追い求める生き方でした。より多くより豊かでより強い生き方。ある人々はそんな生き方を目指し、実際、それを手に入れたと言います。彼らの人生の目的は喜び楽しむことにあり、表面的には賢く豊かな生き方が実現しました。しかし、その内側には自己中心の罪と恐れが潜み続け、結局その歩みはうわべだけの儚いものであったと聖書は言います。人間の知恵と力にのみ信頼して歩む神なき歩み。神に感謝せず、神を拒絶して生きる生き方。それは決して豊かな歩みではなかったと言えます。
一方、それとは対照的に「弱さ」を受け入れて歩む人々もありました。彼らはなぜ「弱さ」を受け入れることが出来たのでしょうか。それは、彼らが神の恵みに目を留めたからだと聖書は教えています。神の深い愛、その豊かな恵みに心を留め、神が守り養ってくださることに信頼して生きる。彼らはその生き方を目指したのです。その結果、彼らは神との豊かな交わりを体験し、人としての「弱さ」を感謝して受け入れることができました。弱さを認めつつ、神の恵みに信頼し、神とともに歩む。その歩みこそ、真に豊かで幸いな歩みであると聖書は教えています。
神の存在を認め、神の愛と恵みに信頼して歩む。その人は、終わることのない背伸びをし続ける必要はありません。ことさらに強さを求め、豊かさを追い求める生き方をしなくても良いのです。自らの弱さ、人間としての儚さをを認めつつ、神の豊かな恵みに身を委ねて生きる。そこにこそ真に幸いな歩みがあると聖書は言います。終わることのない背伸びをやめて、ありのままの自分で神に愛され守られて生きる。聖書が約束するそんな幸いな生き方に、あなたも目を留めてみてはいかがでしょうか。
感謝の心
感謝の心を持って生きるのか、それとも感謝の心を持たずに生きるのか。それによって、私たちの人生、いや永遠までもが大きく異なってくると聖書は言います。
旧約聖書創世記4章に、二人の兄弟が登場します。兄の名はカイン、弟の名はアベルと言いました。ある時、この二人が神様に礼拝を捧げます。弟アベルは、神様の愛、神様の恵みに心から感謝し、最高のささげものを捧げました。しかし、兄カインはそうではありませんでした。ささげものを捧げはしましたが、そこには真心からの感謝がありませんでした。同じように神様に愛され、同じように多くの恵みを頂いていた二人でした。しかし、兄カインは神様への感謝の心を持とうとしませんでした。その結果、彼の心は妬みと憎しみ、自己憐憫と不平不満の思いに支配され、とうとう弟アベルを殺害してしまいました。これが人類最初の殺人であったと聖書は言います。神様への感謝を忘れた心、不平不満に満ちた心が、恐ろしい結果を招いてしまったのです。
神様への感謝を忘れずに生きる人は幸いです。その人は、良い思いで心が満たされ、喜びと平安のうちに歩むことができます。勿論、神様に感謝していればすべてが上手く行き、いつも繁栄が得られるということではありません。実際、あの弟アベルは兄カインに殺害されてしまいました。しかし、感謝に満ちて歩んだアベルは、死んだ後に天の御国に行き、永遠の喜びと平安を頂き、さらに感謝しつつ永遠に生きる者とされたと言えます。
神様への感謝。それは、神様の愛、神様の恵みに丁寧に心を留めるところに生まれます。
神様はあなたを愛し、あなたに多くの恵みを与えようとしていてくださいます。神様のひとり子イエス・キリストが十字架につかれたのは、実に、あなたを愛し、あなたを救い、あなたの心に永遠の感謝を与えるためであったのです。
神様への感謝の心。あなたも、どうそ、その心を忘れずに、喜びと平安に満ちた毎日を歩んで下さいますように。
永遠に生きたいですか
「永遠に生きたいですか」。そう問われるなら、あなたはどうお答えになるでしょうか。
旧約聖書創世記3章22節にこんな言葉があります。
「神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
これは、神によって造られた最初の人間が罪を犯した直後に語られた言葉です。人は創造主である神に背き、神を無視して勝手に生きるようになった。その結果、人は「永遠に生きないように」されたと聖書は言います。
「永遠に生きないように」。かつて私は、これは罪を犯した人間に対する神様からの厳しい罰だと考えていました。しかし、よく聖書を読むときに、否、これはむしろ神様の憐れみであるということが分かるようになってきました。私たちが神様から離れたまま、罪あるままで永遠に生きないように。神様はそう願ってくださったということです。そして、神様は、私たちの罪が赦されて、私たちが神様と共に永遠に生きることを願っていて下さる。聖書はそう教えています。
そして、実に、神様のひとり子イエス・キリストは、神様のその願いの実現のためにこそ、この世界に来られた。聖書はそう教えているのです。私たちの罪が赦され、私たちが再び神様と共に生きることができるように。そのためにこそ、イエス・キリストは私たちの身代わりとなって十字架にいのちをお与え下さったのです。神様に罪赦されて、神様と共に歩む。それは、深い平安と喜びに満ちた歩みであり、この地上での生涯のみばかりではなく、まさに永遠に味わう価値のある歩みです。
聖書のことば、イエス・キリストのことばです。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。
絶望の先にある希望(2)
「絶望の中にも希望がある」。否、「絶望の先にこそ真の希望がある」。聖書は私たちにそう教えています。
新約聖書、マルコの福音書5章に一人の男性が登場します。彼は、イエス・キリストの足下にひれ伏し、懸命に願ってこう言いました。「私の小さな娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が救われて生きるように(直って助かるように)してください」。
そこで、イエス・キリストは彼と一緒に彼の家に向かわれました。しかし、一行がまだ家に着くその前に、彼の元に使いの者がやって来て言いました。「あなたのお嬢さんは、なくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」。
この男性にとって、一縷の望みが絶ち切られた瞬間であったと言えます。人を絶望に突き落とす死の闇を前に、正にすべての希望が奪われたように思うのです。しかし、その彼に対して、イエス・キリストはこう言われました。「恐れないで、ただ信じていなさい」。この男性には、恐れを覚え、絶望に沈むべき理由が確かにあった筈です。しかし、それでも尚、イエス・キリストは、「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われました。
イエス・キリストを信じるのであれば、そこに勝手な限界を設けてはならない。たとえ人の目には絶望にしか見えない様な時にも、信じるならば必ず救われる。聖書は、私たちにそう教えています。そして、この後イエス・キリストは彼の家に行き、娘の手を取り、彼女を死の眠りから呼び覚ましたと聖書は教えています。人の目には完全な絶望しかないところに、イエス・キリストは真の希望と救いをお与えくださったのです。
あなたは、「もうだめだ」と決めつけてしまってはいないでしょうか。「恐れないで、ただ信じていなさい」。イエス・キリストの言葉を信じ、イエス・キリストを信じ抜こうとする者は、必ず救われる。聖書はそう約束しています。「絶望の先にこそ真の希望がある」。そのことを信じ、あなたも、イエス・キリストに希望を求めてみてはいかがでしょうか。
絶望の先にある希望(1)
「絶望の中にも希望がある」。否、「絶望の先にこそ真の希望がある」。聖書は私たちにそう教えています。
新約聖書、マルコの福音書5章に一人の女性が登場しています。その女性は、病のために全ての希望を失いそうになっていたと言います。十二年にも渡って病に苦しみ、多くの医者にかかりましたが、全財産を使い果たしても尚、かえって悪くなる一方であったのです。
しかし、そんなある日、彼女はイエス・キリストのことを耳にします。「このお方なら、きっと私を救って下さる」。彼女はそう信じ、イエス・キリストの元に行くことにしました。そして、人込みをかき分け、うしろからイエス・キリストの着物にさわったのでした。
彼女には、諦める理由が幾つもあったと思うのです。多くの医者がそうであったように、イエス・キリストにも彼女を直すことが出来ない。そう考えることも出来ました。また、病で疲れ果てた彼女にとって、イエス・キリストの元にまで行き、人込みをかき分けてその前に出るということも、大変な事であったと思うのです。しかし、彼女は多くの困難の中でも諦めることなく、最後の希望にしがみつくようにしてイエス・キリストの元へやって来たのでした。そして、その結果、彼女の病はいやされたと聖書は報告しています。
その彼女に対して、イエス・キリストはこう言われました。「娘よ。あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」。たとえそれがどれほど絶望的な状況であれ、イエス・キリストを信じるならばあなたは救われる。肉体の癒しよりもはるかに大切な、魂の救いを体験するようになる。聖書は私たちにそう教えています。
様々な困難の中で希望を失いそうになる時、どうぞ諦めることなく、イエス・キリストのことを思い出してください。イエス・キリストを信じる者は、絶望の中にも、否、絶望の先にこそ真の希望を見いだし、救いを頂くようになるからです。
新しく生まれる
人は誰でも「新しく生まれる」ことができる。聖書はそう教えています。
今から約2千年前、イエス・キリストのもとにニコデモという人物がやって来ました。このニコデモは、人の目から見れば、地位も名誉も財産もあり、宗教的にも道徳的にも非の打ち所がない人物であったと言います。しかし、そんな彼でしたが、それでも尚どこか何かが決定的に欠けていると感じていたようです。全てを持っているようであって、実は何も持っていない。そして、その最も大切なものは最早人間的な努力では手に入れることができない。そのことに気づくということは、大変に苦しいことであったと思うのです。しかし、そんな思いを抱えていたからこそ、彼はイエス・キリストのもとへやって来たと言えます。
そのニコデモに対し、イエス・キリストはこう言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることができません」。「人は新しく生まれなければならない」。それは、古い自分のままでは「神の国を見ることができない」からだと言います。神の国を見るという表現は、神との豊かな交わりに生きるということを意味しています。生ける真の神と親しい交わりを持ち、神に守られ、神に教えられ、神に導かれて生きる。神が与えようとしていてくださるそんな生き方を実際に体験するために、人は新しく生まれなければならないというのです。
あなたはいかがでしょうか。何も足りないものはないと思える反面、どこか何かが決定的に欠けている。そんな思いをお持ちではないでしょうか。
「あなたは新しく生まれることができる」。イエス・キリストは、あなたにそう語りかけておられます。そして、そのためにこそ、イエス・キリストは十字架にかかり、復活し、あなたにいのちを与えようとしていて下さるのです。あなたがイエス・キリストを救い主として信じ、それによって新しいいのちを受け取り、神との豊かな交わりに生きること。それこそがイエス・キリストの願いです。「あなたは新しく生まれることができる」。聖書が語るこのメッセージを、あなたにも是非知って頂きたいと思います。
きっかけ
人がイエス・キリストに特別な関心を持つ時、そこには何らかのきっかけがあるように思います。今から約2千年前、一人の人がイエス・キリストのもとにやって来てこう言いました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません」。イエス・キリストがなさっていたしるし。それが彼を惹きつけたと言います。しるしとは、あるものを他のものと区別するものだと言えます。その頃、イエス・キリストは様々な奇蹟、イエス様にしかできないことを行っておられました。そして、それらの奇蹟がしるしとなり、キリストに特別な関心を持つ人々が起こされていったと言うのです。
現代の私たちにとって、しるしとは何でしょうか。イエス様にしかできないこととは、一体何なのでしょうか。私にとってのしるし、それは私の母でした。今から約25年前、私の母は絶望の底にいました。言い尽くしがたい苦難の中、希望を失い、笑顔を失い、生きる意味も分からず、ただ嘆くだけの毎日を過ごしていました。しかし、その母がある時から教会に通うようになり、聖書を読み、イエス・キリストを救い主として信じるようになりました。そして、私の母はイエス・キリストによって変えられたのです。それまでの絶望が希望に、悲しみが喜びに、涙が賛美に変えられる奇蹟を、私は目の当たりにしました。人が新しくされる。イエス・キリストにしかできないそんな奇蹟を見た私は、教会に通うようになったのです。
教会には、そんなしるしが沢山あります(「わたしがクリスチャンになった理由」)。イエス・キリストによって内側が変えられ、希望と喜びに満ちて生きるようになった人々が沢山いるのです。人が新しくされるという奇蹟。イエス・キリストにしかできないそんなしるしに、あなたにも出会って頂きたいと願います。そして、そのためにも是非、教会に行っていただきたいと思うのです。イエス・キリストにしかできない素晴らしいしるし。あなたがそんなしるしを知ることによって、イエス・キリストに今まで以上の関心を持ってくださいますよう、心から願っています。
愛があるから
愛があるから、人が嫌がるようなことでも喜んでできる。新約聖書ルカの福音書7章には、人が嫌がることを喜んで行った女性が登場します。
その女性は、かつては罪深いことで知られた人物でした。しかし、彼女はイエス・キリストと出会い、その愛と憐れみに触れて罪を悔い改め、新しい歩みを始めていたのでした。その彼女が、ある時、人に招かれて食卓についておられるイエス様の足が汚れていることに気づきました。当時の人は舗装されていない道をサンダルで歩きましたから、汗と埃で足が大変汚れたのです。招いた客人の足を洗って差し上げるのは当時の最低限のマナーでした。しかし、誰一人としてイエス様に足を洗う水を差し上げようとしなかったのです。彼女はイエス様のそばに来ると、その足を真心を込めて一生懸命に洗い、その足に高価な香油を注いだと言います。イエス様に対する溢れる感謝と深い愛が、彼女をそんな行動に駆り立てたのだと言えます。
一方、イエス・キリストもまた、その深い愛の故に、人が嫌がることを喜んで行って下さったお方です。イエス様が洗って下さったもの、それは足にこびりついた泥や埃ではありません。そうではなく、私たちの心にこびりついた罪の汚れ。誰もが目を背け避けようとするそんな罪を、イエス様は十字架にかかることで洗い清めて下さったと聖書は教えています。イエス・キリストは、人を罪からきよめるために、十字架にかかってくださいました。私たちに対するその深い愛の故に、ご自分のいのちを身代わりとして進んで捧げて下さったのです。そして、このイエス・キリストを信じるなら、その人の罪は赦され、きよめられると聖書は約束しています。
イエス・キリストは、あなたを愛しておられます。そして、その愛の故に、十字架にかかってくださったのです。イエス・キリストの十字架、それはまさに、あなたを愛し、あなたを救おうとする深い思いに突き動かされたものであったと聖書は教えています。あなたも、このイエス・キリストの愛を受け入れ、感謝と喜びに満ちた人生を歩んでみませんか。
争いの原因
考え方の違いで人とぶつかることは少なくないと思います。それが大切なことであればあるほど、そして、自分の考えに確信があればあるほど、その衝突は激しくなります。どうすれば、そのような争いを治めることができるのでしょうか。相手よりももっと賢く、もっと正しく、もっと熱心になれば、問題は解決するのでしょうか。新約聖書ヤコブの手紙4章1節にこんな言葉があります。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか」。
「私たちのからだの中で戦う欲望」。それこそが争いの原因であると聖書は言います。ここで「からだの中で戦う」と訳されている言葉は、「メンバーの間で戦う」という意味があります。また、「欲望」と訳されている言葉には、「喜び/願い」という意味もあります。私たち一人一人にはそれぞれ異なる喜びや願いがある。しかし、それを互いにぶつけ合わせるならば争いが生じる、と聖書は教えているのです。確かに、ある人にとっては正しく望ましいと思われるようなことが、他の人にとってはそうではないということがあります。ですから、自分こそが正しいと考え、自分が喜びとし願っていることこそが実現されるべきだという考え方を改めることが、争いの解決のために大切だと言えます。
しかし、実際にはそれは簡単なことではありません。自分を過信しないようにとは思っても、相手も人間である以上、ついつい比較や競争がはじまり、争いが生じてしまいます。また、自分も相手も共に間違っていることもあり得るのです。
それでは、争いを収めるために聖書は何と教えているのでしょうか。先ほどの言葉に続くヤコブの手紙4章10節にはこう教えられています。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」。自分か相手かという対比ではなく、誰よりも賢く、誰よりも愛と力に満ちておられる神の存在を認めるということ。そして、その神の前に身を低くして謙遜になること。そこにこそ、真の平和への道があると聖書は言います。そして、そのように神を認めて信頼し、神の前に身を低くするなら、神が問題を解決してくださると聖書は約束しています。
知恵と愛と力に満ちた神を認め、その神によって平安を頂く人は幸いです。聖書の言葉。「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます」。
本当の豊かさ
「豊かさ」とは何でしょうか。ある時,イエス様はひとつのたとえを話されました。
「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」(Lk.12:16-20)
この金持ちは,「豊かさ」について大きな思い違いをしていました。「お金さえあれば,物さえあれば,自分は豊かに生きていける。」この金持ちのように考えている人は決して少なくないでしょう。しかし,聖書は言います。「いくら豊かな人でも,その人のいのちは財産にあるのではありません。」そうです。お金や物をどれほど持っていたとしても,それは真の豊かさではないのです。
それでは,何が本当の「豊かさ」なのでしょうか。イエス様はたとえ話の最後でこう言われました。「自分のためにたくわえても,神の前に富まない者は愚かです」。そうです。神がいないかのように自分だけを信頼して必死に生きることをやめ、神に信頼して神と共に歩む。それこそが本当の「豊かさ」,状況によって左右されることのない真の豊かさなのです。
そうすると,本当の「豊かさ」とは,私たちからそんなに遠くにあるものではないのかもしれません。私たちを愛し,私たちの必要の全てを与えてくださる神を認め,与えられている恵みに感謝して生きる。そんな「豊かな生き方」を,皆様も経験されますように。
湘南のぞみキリスト教会では、毎月第2日曜日の礼拝を「歓迎礼拝」としています。はじめて礼拝に出席される方にも分かりやすいメッセージが語られています。「本当の豊かな生き方」を教え、そのように生かしてくださる神様の御言葉に共に耳を傾けてみませんか。
空の空
「人生とは何か」。そのように問われるなら、あなたは一体どのようにお答えになるでしょうか。
「空の空、すべては空」(伝道者の書1章2節)。旧約聖書にある伝道者の書にはそのような人生観が示されています。「空の空、すべては虚しい」。悲観的と言えばあまりに悲観的な人生観ですが、この伝道者が語る理由を聞けば、「なるほど」と言わざるを得ないかもしれません。彼は言います。「知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる」(同2章16節抜粋)。確かに、私たち人間がどれほど苦労したとしても、そうやって知識と名誉と財産を蓄えたとしても、やがて「ちりに帰る」というのでは「空の空、すべては空」と言わざるを得ないかもしれません(実際、深刻な病を宣告された方が夢も希望も失って自暴自棄になるという話もないわけではありません)。
それでは、聖書は私たちの人生をそのように虚しく意味のないものだと教えているのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。聖書は私たちに「死」をも凌駕する「いのち」の希望を約束しています。イエス・キリストは言われました。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)。様々な労苦の末にちりに帰らなければならない私たちが、イエス・キリストを信じることによって「死んでも生きる」、すなわち死後に復活して神と共に生きるようになると聖書は約束しているのです。そして、ここにこそ希望、人類最後の敵である「死」をも打ち破る希望があると言えます。イエス・キリストによって罪赦され、一度死んでも尚よみがえって神様と共に歩む。そんないのちを、聖書は約束しているのです。
「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」。イエス・キリストの語られたこの約束にこそ、「空の空」ではない真に幸いな人生があると言えます。「人生とは何か」。そのように問われるとき、あなたが感謝と喜びに満ちた幸いな答えをすることができますように。
あかりが来たのは
同じ言葉が語られても、それを受け止める人の態度によってその効果は大きく異なります。
ある時、イエス様は次のようなたとえを話されました。「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。隠れているのは、必ず現れるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです」。神様のことばをどのように受け止めるべきか。そのことについて教えるため、イエス様はこのたとえをお話しになりました。ここでの「あかり」とは神様のことばをさしています。そして、「あかり」である神様のことばをどのように受け止めるか、私たちの態度が大切であるということが教えられています。もしも、その「あかり」を升の下や寝台の下に置いてしまうなら、それは本来の力を発揮することができなくなります。しかし、その「あかり」を燭台の上に置くなら、それは隠されているものを明らかにし、覆い隠されているものを明るみに出すことが出来ます。同じ神様のことばであっても、それをどのような態度で聞こうとしているのか、それによって大きな違いがあるということです。
「あかり」と言われる神様のことばは、隠されているものを明らかにすることができます。人間の常識や想像では量り知ることの出来ない真の神様について、あるいは、自分の内側に潜んでいる罪とその解決について。神様のことばは、「あかり」としてそれらの事柄を私たちにはっきりと示すことができるのです。小さな「あかり」は、一見弱く価値のないものにしか見えないかもしれません。しかし、その「あかり」にこそ、他の何物にもなし得ない素晴らしい力があるのです。
イエス様は言われました。「あかりが来たのは、燭台の上に置かれるためです」。あなたに語りかけられている神のことば、聖書のみことばに、どうぞ今一度丁寧に耳と心を傾けてみてはいかがでしょうか。その時、人間の力では知り得ない大切な事柄が、あなたにはっきりと示されるはずです。
嵐を治める神
私たちは時に、人生の嵐に遭遇することがあります。自分の経験や能力や努力ではどうすることもできない、そんな苦しい状況に立たされることがあると思うのです。
今から約2千年前、イエス・キリストとその弟子たちはガリラヤ湖という湖で嵐に遭遇しました。激しい暴風が起こり、彼らの舟は波をかぶって今にも沈みそうになりました。ところが、何とイエス様は舟の後ろの方で眠っておられました。弟子たちはイエス様を起こして言いました。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」。自分たちの苦しみ、自分たちの必死の努力に思うように応答してくださらない。イエス様に対する、弟子たちのそんな焦りと憤りが伺えます。すると、イエス様は起き上がり、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われました。そして、風はやみ、嵐は完全に収まったと聖書は言います。
あの嵐の中、弟子たちはイエス様に対する自分たちの理解が十分ではなかったことに気づかされました。彼らは、イエス様のことを、実際には人を救うことが出来ない愛も力もない者であると、どこかで考えていたと言えます。しかし、実際にはイエス様は彼らを深く愛し、彼らを救い出してくださいました。それも、彼らがイエス様の愛と力を深く知ることができるよう、大切なことをしっかりと知ることができるよう、一番相応しい時に救い出して下さったのです。
人生の嵐に遭遇するとき、イエス様の力を信頼し、イエス様の愛に頼る人は幸いです。どうすることもできない状況の中で、イエス様の力、イエス様の愛に信頼すなら、その人は必ず救い出されるからです。イエス様は嵐を収めることの出来る神です。どうぞあなたも、あなたを愛しあなたを救うことが出来る神、イエス・キリストのことばに耳を傾けてください。
あなたの道を備えるお方
あなたはこれまでに、道に行き詰まるという経験をなさったことがおありでしょうか。自分の能力や経験や頑張りではもうどうにもならない。あるいは今、そんな経験をしておられる方があるかもしれません。
聖書の中に、イエス・キリストに関するこんな教えがあります。「(この方こそ)、あなたの前にあなたの道を備えてくださる」(ルカ7章27節参照)。ここで「備える」と訳されている言葉は、「造り出す」というニュアンスを持っています。生きることに行き詰まり、もうどこにも道を見いだすことができない。そんなあなたの前に道を造りだしてくださるお方。それこそがイエス・キリストだと聖書は言うのです。
二十歳になる少し前、私はまさに道に行き詰まっていました。どうやって生きていけば良いのか、全く分からなくなってしまったのです。自分のやりたいことがどうしても見つからない。生きていることの意味が全く見いだせない。何かをしようにも、あまりにも無力で惨めな自分という現実に打ちのめされるばかりでした。そして、夢や希望を全て見失ってしまったその時、私はとうとう神様にすがりつきました。「神様。こんな私を憐れんで下さい。どうやって生きていけば良いのか、もう分からないのです。神様、私はこのまま腐って朽ち果てていきそうです。どうか助けて下さい。あなたが喜んでくださる道を歩ませて下さい」。そうやって、それまでは頭だけで知っていた聖書の神様に真剣に祈り求めたのです。
その後、イエス・キリストが私の前に確かに道を造り出して下さったことを私は証言します。人の能力や経験や頑張りではどうにもならないところに、イエス・キリストは確かに道を造り出してくださったのです。
あなたは今、道に行き詰まってはおられませんか。自分が進むべき確かな道を探し求めてはおられませんか。もしそうであるなら、「あなたの前に道を備えて下さるお方」イエス・キリストに是非出会っていただきたいと願います。どうぞ、お近くのキリスト教会へお出かけ下さい。必ず、神様があなたの前に道を備えてくださいます。
帰って、知らせなさい
あなたには、命の恩人と呼べる人がおありでしょうか。新約聖書マルコの福音書5章に、イエス・キリストによって絶望の淵から救い出された一人の男の物語が記されています。
この人は、数え切れないほど多くの汚れた霊にとりつかれていました。結果、彼は墓場に住み着き、夜昼となく叫び続け、石で自分の体を傷つけていました。彼自身にも、周囲の人々にも、彼を救い出す力はなく、まさに絶望の底に沈んでいたと言えます。そんなある日、彼の前にイエス・キリストが現れます。キリストは彼から汚れた霊を追い出し、彼を絶望の淵から救い出されたと聖書は言います。そして、正気に返った彼にイエス・キリストはこう言われました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」。そこで、彼は故郷に帰り、様々な悩みを抱える人々にイエス・キリストのことを伝え始めたと言います。
汚れた霊ではなくとも、私たちもまた、様々な力に縛られ、絶望の淵に立たされるということがあります。ある人はギャンブル、ある人はお酒、またある人は妬みや憎しみに支配され、自分の力ではもはやどうすることもできないような状況に置かれることがあります。 じつは私自身、かつてそんな力に縛られ、生きる希望を見失っていました。自分をコントロールすることができず、人も自分も傷つけ、夢も希望も失い彷徨っていました。しかし、私もまた、イエス・キリストと出会い、イエス・キリストによって絶望の淵から救い出していただきました。自分にも周囲の人々にもどうすることもできなかった状況が、そして私自身が、イエス・キリストのことば、聖書のことばによって、実際に変えられていったのです。
たとえそれがどんな力であったとしても、イエス・キリストはあなたを救い出すことができます。人に蔑まれ疎んじられているどんな人でも、イエス・キリストは愛し、救い出して下さいます。イエス・キリストがあなたにどんなに大きなことをしてくださろうとしているのか、どんなにあわれもうとしていてくださるのか。あなたにも、聖書を通して是非知っていただきたいと思います。
人生最大の驚き -はじめに、神が-
私の人生最大の驚き。
それは、「私は神様に愛されている」という驚きです。
神様の驚くべき愛。
それは、聖書の最初の部分、創世記一章に はっきりと示されています。
創世記一章は、「はじめに、神が天と地を創造した」という言葉で始まります。そして、神様がどのようにしてこの世界を造られたのか、ということが続けて語られるのです。
創世記一章に示されている神様の知恵と力。天地万物を創造したその知恵と力には勿論驚かされます。しかし、私がそれ以上に驚かされるのは、そこに示されている神様の愛、私たち人間に対する神様の御愛です。
神様がこの世界を造られた時、神様は最後の最後に人間をお造りになった、と聖書は言います。
人が生きるために必要な一切のものを、神様は人のために予め用意して下さったのです。
たまたま最後に人が造られたのではありません。人を造り、人を生かすためにこそ神様はこの世界のすべてを造られた。聖書はそう教えているのです。
それは丁度、愛に満ちた親が生まれてくる子どものためにすべてを準備することに似ていると言えます。
やがて生まれてくる子どものことを思いながら、暖かな布団を用意し、幾つもの着替えを用意し、喜びと期待に満ちて出来る限りの準備をする。そんな親の愛に、神様の愛は似ていると思うのです。
神様は、人が存在するその前からすでに人を愛しておられた。そして、人を造り、人を生かすためにこそこの世界を造られた。
創世記一章に示された神様の愛、私たち人間に対するあまりにも大きな御愛に、私は心から驚かされるのです。
「なぜこの世界は存在しているのか。私は何のために生きているのか」。この問いに対する答えが分からなかった時、私の人生は目的地も持たずに彷徨う苦しい旅のようでした。しかし、今は違います。天地万物を造られた神が人をこれほどまでに愛していてくださる。神は私のような者をさえ愛し、私が神を愛して生きることを願っていてくださる。
「私は神様に愛されている」。そのことを知った今、私の人生は喜ばしい驚きで満ちているのです。
「あなたは神様に愛されている」。この人生最大の喜ばしい驚きを、あなたにも知っていただきたいと願います。
あなたは、どこにいるのか
創世記3章9節にこんなことばがあります。
「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか」」。
「あなたはどこにいるのか」。これは、神様に造られた人間が神様に背いて、神様から離れて生きるようになってしまった、その直後に語られたことばです。この創世記の最初の2章には、神様が人をお造りになったときの出来事が記されています。神様は、愛の限りを尽くして私たち人間をお造りくださった。聖書はそのことを私たちに伝えています。
にもかかわらず、私たち人間は、その神様の愛を無視し、神様に背いて神様から離れて生きるようになってしまった。聖書はそう教えています。もし私が神様の立場であったとすれば、愛を踏みにじって神を無視して生きようとする人間を赦すことができるだろうか、と思わされるのです。怒りを覚え、もう関わりを持ちたくないと思ったのではないかと思います。しかし聖書は言います。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか」」。神様は人間を怒って突き放そうとはしておられない。いやむしろ、その愛を踏みにじられても尚人を愛し、人との交わりを取り戻すことを切に願っていてくださる。神様の限りない愛が、このことばに示されています。
「あなたはどこにいるのか」。あなたと神様との関係はどのようなものでしょうか。あなたはいつのまにか、神様から遠く離れて生きてしまってはいないでしょうか。神様は、あなたが神様と共に生きるようになることを今も切に願い、待ち続けていて下さいます。
どうすれば神様のもとに帰ることができるのか。それは、あなたを愛し、あなたを待ち望んでいてくださる神様の語りかけ、聖書のことばに耳を傾けて生きることです。
聖書に記されている神様のことば、その呼びかけに耳を傾けながら、神様と共に生きる幸いな生き方をしてみてはいかがでしょうか。
いつまでですか
旧約聖書詩篇13篇1節にこんな言葉があります。「主よ。いつまでですか。」
「いつまでですか」。人生には時に、そのように嘆かざるを得ない苦しみや悲しみがあります。
詩篇13篇において、ダビデは4度もこの嘆きを繰り返しています。長期に渡る耐え難い苦難が彼を苦しめていたものと思われます。しかし、彼はその絶望的な状況の中でも希望を失うことはありませんでした。「主よ。いつまでですか」。彼にはそう呼びかけることのできる神様がいたのです。神様は、神様の目に一番良いときに、自分を必ず助け出して下さる。ダビデはそのことを確信していたのです。
私たちは、「待つ」ということの大切さを忘れてしまいやすい者です。あらゆる物と情報がすぐに手に入る時代になりました。しかしその結果、「待つ」という大切なことを私たちは忘れてしまいやすくなったのではないかと思うのです。
困難に耐えることでしか身につけることができない大切ものがあります。そして、私たちを深く愛していてくださる神様は、時に私たちに「待つ」ことを求められます。「いつまでですか」と嘆かざるを得ない苦難の中で、大切な事柄を学ぶ者たちでありたいと願います。「いつまでですか」と嘆かざるを得ない苦しみの中で、主である神様を信頼することの幸いに目が開かれていく者たちでありたいと願うのです。
神は沈黙し、助けの御手をすぐに伸ばしてくださらない。そう感じられる時があります。しかし、そこには私たちを愛し養おうとしてくださる神様の深い御配慮と愛があることを、忘れないで頂きたいと思うのです。
「いつまでですか」。そう嘆かざるを得ない苦しみや悲しみの中で、あなたは何を見つめ、何に希望を置いておられるでしょうか。神様を信頼し、神様に救いを呼び求める者に、神様は必ず答えて下さいます。どうぞ、聖書を開き、「主よ」と呼びかける幸いな人生を歩んで下さい。